第19話 小さくて大きな障壁
清人を従えながら、講堂から大学の正門へと向かっていた真澄は、バッグから携帯を取り出してどこかへ電話をかけ始めた。
「……ええ、そうよ。正門前で待っているから、宜しくね」
そして愛想良く会話を終わらせて、携帯を元通りしまい込んだところで、一歩下がった所を歩いている清人の表情に気がついて、苦笑する。
「凄い仏頂面ね。清香ちゃんと弟君を二人にして置いて来る事になったのが、そんなに不満なの?」
「……弟なんかじゃありません」
呻く様に否定してきた清人に、真澄は瞬時に笑みを消し、呆れた様に肩を竦めた。
「はいはい、聡君ね。まあ、どのみち清香ちゃんに近付く男は、誰であろうと許せないのよね」
「分かっているなら、一々言わないで下さい」
もはや不機嫌さを隠そうともしない清人に、真澄は小さく溜め息を漏らした。
「でも……、清香ちゃんに本気で嫌われたく無かったら、ほどほどにしておきなさいよ?」
控え目な忠告に、突き刺さる様な視線が返ってくる。
「あいつの味方をする気ですか?」
「最終的に傷付くのは自分だって事、本当は良く分かっているでしょう? 一応、忠告してあげているだけよ」
「余計なお世話です」
あからさまに視線を逸らされながらの返答だったが、想定内の反応だった為、真澄はそれ以上余計な事は言わずに足を進めた。しかしそれほど行かないうちに、今度は清人が沈黙を破る。
「……相変わらずですね」
「何が?」
「上から目線での命令口調が、です」
そう言われて軽く目を見開き、僅かに驚いた表情で清人を見やった真澄は、如何にも不本意そうに言い返した。
「そっちこそ、いい加減慇懃無礼な喋り方は、止めて貰えないかしら?」
「仕方がありません。俺の方が二歳も年下ですし、立場も違う。社会通念上、相応しい口調で話し掛けているつもりですが?」
淡々と正論を繰り出す清人に、真澄は少しの間だけ黙り込んでから、ため息混じりに呟いた。
「……そっちも、相変わらずじゃない」
「何がです?」
眉を顰めて相手を見やった清人に、真澄は先程の清人以上に淡々と感想を述べた。
「初めて会った時は、私は確かにあなたのそれまでの人生の五分の一の時間を長く生きてたけど、今はその割合はかなり少なくなっていると思うんだけど? あなたにしてみれば、それがまだ結構な時間に思われてる様ね。長生きできそうで羨ましいわ」
「皮肉ですか?」
「あら、本心からよ」
「それとこれとは話が別です」
冷たく言い放って話を終わらせようとした清人だったが、真澄は容赦なく話を続けた。
「じゃあ、年上扱いして頂いているみたいだから、年長者としての立場で言わせて貰うけど……。お母様の事、いい加減にしなさいよ?」
「……あなたに、何が分かるって言うんです」
凄んできた清人を、平然とかわす真澄。
「分かる筈、無いでしょう? 私は、あなたの家族でも何でもないんだし。でも清香ちゃんがこの事を知ったら、絶対意見する筈よ」
「黙れ」
「……ふぅん?」
「………………」
常には無い乱暴な口調で言い返した清人に、真澄は興味深そうな表情で見返した。そして清人は無意識の発言に気がつき、気まずそうに黙り込む。その沈黙を破ったのは真澄の方だった。
「なりふり構わないのは勝手だけど、自滅するのだけは止めなさいね。清香ちゃんが泣くわ。それに」
「あなたは……」
「え? 何?」
話の途中で清人が口を挟んできた為、真澄が怪訝な顔で問いかけたが、何故か清人は言いよどんでから、謝罪の言葉を口にした。
「……いえ、何でもありません。話の腰を折ってすみませんでした」
そうして話題を替える様に別な事を言い出す。
「そういえば……、清香に貸したという画集の話ですが、今でも昔みたいに描いているんですか?」
「見るのは好きだけど、さすがにもう描いてはいないわ」
「勿体無いですね」
そこまでさり気なく会話が交わされてから、真澄が僅かに怪訝な顔をした。
「どうして私が、以前絵を描いていた事を知っているの? 中学高校と美術部所属だった話、特にした事は無かったわよね?」
その問いに、清人は平然と答えた。
「浩一が家に遊びに来た時に『姉さんが全国学生美術展で入賞した』と自慢したんですよ。それで香澄さんが凄く喜んで、一家全員で見に行きました」
「浩一、余計な事を」
小さく舌打ちした真澄を見て、幾らか機嫌を良くした清人は、更に当時の秘話を続ける。
「香澄さんが会場で『どうしてこれが入賞なの?大賞や金賞の絵より、こっちの方が遥かに素敵だと思いません?』と誰彼構わず話し掛けて、周りから引かれまくってて宥めるのが大変でしたね。最後は父と、二人がかりで引きずって帰りました」
「香澄叔母様……」
思わず呻いて片手で顔を覆った真澄に、清人はくすりと小さく笑いながら話を続けた。
「微笑ましい、叔母馬鹿ぶりじゃないですか」
「……嫌み?」
「とんでもない。結局あなたは二年続けて入賞していましたから、どちらも見に行きました。清香は小さかったから、さすがに覚えてはいないと思いますが、俺はどちらかと言うと高二の時の『息吹』の方が気に入っています」
「そう……、ありがとう」
一応素直に真澄が礼を述べたところで、清人が疑問を呈してきた。
「それなりに才能はあったと思うのに、どうして美大とかに進まなかったんですか?」
それに真澄が苦笑いで応じる。
「プロとして大成できるのは、ほんの一握りの人間でしょう? 所詮お嬢様の暇潰しって言われるのが関の山なのに、時間を浪費したくは無かったのよ」
「それで経済学部ですか。あらゆる意味で極端な人ですね」
「……色々あってね」
揶揄する様に清人が口にした台詞に、真澄が苦虫でも噛み潰した様な表情で答える。さすがに何か不味い事を言ったと察した清人は、それ以上余計な事は言わずに口を噤んだ。
そうこうしているうちに二人は正門まで辿り着き、車がひっきりなしに通る大通りに面した場所で佇んでいたが、思い出した様に清人が口を開いた。
「それで、清香にはどんな画集を貸したんですか?」
その問いに、真澄が清人の方に視線を向けながら答える。
「どんなって……、春日修平の作品集よ。知っている?」
「いえ、生憎絵画に関しての造詣は、殆どありませんから。その人の作品がお好きなんですか?」
「その人の作風も好きだけど、ここ何年嵌っているのは来生隆也の作品ね」
「その方の名前も初耳ですね」
「国内より海外での評価が高い人物なの。知らなくて当然よ」
「そうですか」
「ここ三年は、誕生日に自分へのご褒美代わりに、毎年作品を購入しているわ。十年程前からフランスに行っていて、あまり国内で作品が出回っていないから、年に一回購入できるかどうか位で、ちょうど良いしね」
真澄の発言内容を頭の中で吟味した清人は、皮肉混じりに問い掛けた。
「そうで無かったら、その人の作品を手当たり次第買い占める可能性があるんですか?」
「強く否定できない自分が怖いわね」
「そうですか」
どちらからともなくクスクスと小さく笑い出した所で、目の前に黒塗りのロールスロイスが滑り込んできた。
「ああ、来たわね」
真澄が呟くのと同時に静かに停車し、運転席から白髪頭の男性が降り立ったが、彼が車を回り込んで来る前に、清人が素早く後部座席のドアを開けて真澄を促した。
「どうぞ」
「……ありがとう」
一瞬反応が遅れた真澄だったが、素直に礼を述べて後部座席に収まった。続けて清人がその膝に紙袋を乗せる。
「それではこれを」
「ええ。それじゃあね」
そこでドアを閉めかけた清人に向かって、真澄が釘を刺す。
「一応言っておくけど、これから清香ちゃんの所に戻ってちょっかい出すんじゃ無いわよ?」
「誰かさんのせいで、そんな気力は綺麗さっぱり無くなりましたから、ご心配なく」
「そう。それなら良かったわ」
そんな言葉を交わしてから清人は慎重にドアを閉め、迫力満点の大型車は、そこから静かに走り去って行った。
「来生隆也、か……」
それを見送りながら何やら口の中で呟いていた清人は、車が角を曲がって見えなくなると同時に踵を返し、自宅への道を歩み始めたのだった。
「悪いわね、柴崎さん。日曜日に働かせてしまって」
二代続けて柏木家の専属運転手を務めている老人に、真澄はいたわりの言葉をかけた。しかし運転席の彼は、笑いながら言葉を返した。
「いえ、いつもは倅に譲っていますのでね。日曜位お呼びがかからないと、生きがいが無くなります。遠慮無くお声をかけて下さい」
「せっかく健人さんに仕事を引き継いだのに、本音では楽隠居したくないの?」
「そういう事です」
そこで小さく苦笑した柴崎は、何かを思い出した様にハンドルを握りつつ、後部座席の真澄に問い掛けた。
「ところで……、先程の男性は、ひょっとしたら佐竹様ですか?」
「え?」
一瞬困惑した真澄だったが、すぐに納得した様に頷いた。
「……そう言えば、確か柴崎さんは一度しか、直に顔を合わせた事は無かったわね。清香ちゃんに会いにマンションに出向いた時も、見送りに出てくれるのは、彼女だけだったし」
「ええ、あの時一度きりです。しかもかなり想定外の事態で顔を合わせましたし。あの学生服姿のお坊ちゃんが、随分と立派におなりになって……。最近は作家としてもかなりのご活躍をされているみたいで、感慨深いものがあります」
「そうね……」
しみじみとした口調で語った柴崎に、真澄は適当に言葉を返した。そして何かを振り払う様に、きびきびと指示を出す。
「柴崎さん、悪いけどこのまま会社に行ってくれる? 明日までに揃えておかないと、いけないものがあるのよ」
それを聞いた柴崎は、バックミラー越しにはっきりと顔を顰めてみせる。
「他人の事をとやかく言えませんな、真澄様。休みはきちんと取るべきですよ?」
「努力するわ」
「………………」
素っ気なく言った真澄の口調に、本当に休む気があるのかと柴崎は思ったが、自分の立場ではこれ以上言っても無駄かと諦めて口を噤んだ。
それからは車内に沈黙が満ちたが、車窓の流れる景色を見ながら、真澄がボソッと呟く。
「……描いてみようかしらね、久しぶりに」
「何か仰いましたか?」
不思議そうに柴崎が尋ねてきたが、真澄は笑って誤魔化した。
「何でもないわ。独り言だから気にしないで」
そうして真澄の波乱に満ちた休日は、呆気なく終わりを告げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます