第16話 痛みと引き換えに。二

 震える手で、茨の中の少女を、部屋の隅に置く。俺は、新しい画用紙を取り出した。人の背丈よりも高く、横幅は人がその腕を広げた程度に広い。床を綺麗にしてから、他の作品を汚さないように布で覆う。床に絵具が飛び散り、思わぬ事故の起こらないように万全の策を練る。持っているすべての色鉛筆を削り、水彩絵の具をパレットの上に絞り出す。呼吸をするたびに吐きそうになり、目がかすむ。これは、熱中症などというものではない。もっと病的で、もっと俗物的なものだ。

 今の俺は、極度の興奮状態の中にいる。

 俺は、理解した。

 俺の芸術に足りなかったもの。それは、きっと欲望だ。

 俺の中でくすぶり続けていたもの。それは、間違いなく、欲望だ。

 これまでになかった技法、開発されてはいたものの禁忌やマナー違反、常識外れだとされてきた手段を用いて制作された作品が既存のものを超えたなら、それは、過去が敗北したというだけの話だ。それでも文句を言うような作家がいるのなら、そいつはただ、嫉妬しているだけだ。そうだと思わなければ、一人で戦うことの出来る人間なんて、この世に存在しないことになってしまう。

 過去の俺の誓いが、すべて無駄になってしまう。

 そうだ、何も迷う必要はない。俺は、俺が描きたいものを描きたいように描けばいい。それが、本物を作る為に必要なことなのだ。

 壊れた愛を、俺に注げ。俺の愛した芸術は、この程度のものじゃない。

 色鉛筆で最低限の線を取り、水彩絵の具で大胆に色を塗っていく。乾いた部分から色鉛筆で細かな色を塗っていき、水彩絵の具を重ね、複雑な色を作っていく。黒であって黒ではなく、緑であって緑ではなく、青であって青ではなく、白であって白ではない。人の目が見極められる限界を超えるように、俺は色を重ねていく。俺の心に渦巻くものを表現するためには、ただひたすらに色を重ねていくしかない。それは、文字を連ねることでしか自分を表現できない小説家のようでもあり、五線譜に音符を並べることでのみ自らを高めることが出来る音楽家のようでもあった。全ての芸術は、いかにして己の表現したかったものを表現するかにある。羨望も、愛も、世界に対する慈しみも、根っこを掴めばみな同じなのだ。

 俺たち芸術家は、欲望に従って生きていた。そして、欲望に従って作品を創作するのだ。

 線を描き、色を塗る。絵を描くことに集中すると、世界は途端に遠くなる。孤独が、俺を蝕むために牙を剥いた。しかし、今の俺は、芸術の為にすべてを捧げている。俺を圧殺する声を出す魔物を、食い殺すために筆を振る。俺を縛り過去の囚虜にする幻影を捕まえて、画用紙の中に押し込んでいく。すべては芸術の為に。俺が生きる、意味の為に。

 ひたすらに絵を動かしながら、描く女性のことを考える。俺は、下野のことが嫌いだったのだろうか。俺が俺の為に絵を描くには、確かに下野の存在が邪魔だったかもしれない。少なからず他人を意識して、無意識のうちに自分の欲望を抑制してしまうという点で、俺は下野のことを嫌いになる必要があったのかもしれない。

 だけどそれ以前に、俺は嘘を吐いていた。自分に、嘘を吐いていた。真っ黒で、真っ赤な、誰も得をしない嘘だ。これまでずっと気付いていて、だけど知らない振りをして、あまつさえ嘘を吐いていた事実と、俺は正面から向かい合う。

 俺は、下野のことが好きなのだろう。彼女の美しさと、彼女の絵の才能を、誰にも取られたくはないのだろう。そして自分の心の醜さと、彼女に劣る才能を見て、彼女に自分が相応しくないことを感じたのだ。だから俺は、彼女を遠ざけようとした。

 昨日までの俺は、本当の自分と向き合うことにおびえていた。向き合えば、俺と彼女の差をこれまで以上に感じることになる。彼女との距離が、どこまでも遠く、開いていく。それでも俺は、下野という存在と向き合わなければならない。俺が目指す芸術には、彼女が必要となるのだから。

 俺は、下野を描こうとしていた。初めて出会ったときから、彼女の美しさと、絵を描く才能に惹かれていた。俺が下野の絵を描いていたのは、彼女に、好きだという気持ちを伝えたかったからかもしれない。その一方で、下野に嫌われたくもなかったのだ。好きになった相手から嫌われることを、俺はどこまでも恐れていた。

 そうやって逃げまわった挙句、愛した芸術からもそっぽを向かれたというわけだ。一度、下野に対する思いのすべてを絵に描きこまなければ、他の作品に手を付けられそうにない。爺さんのところで請けた仕事も、まだ半分しか終わらせていないのだから。

 下野が部屋を訪れなくなったのは、俺に愛想が尽きたからかもしれない。よく、友人でしかない相手に、ここまで関わってくれたものだと思う。俺は、その好意すらも無駄にしたのだ。バカな奴、という評価が俺には似合う。だけど、俺はもう逃げない。逃げてはいけないのだと思う。情けない上に笑えない失態を、俺は何度下野に見せたのだろう。友人として接してくれる下野を、何度遠ざけたことだろう。

 だが俺は、自分に足らなかったものを見つけ出した。それがすべて、絵に現れようとしている。描けなかった反動か、これまでにない速さと正確さで、思った通りの絵が描ける。芸術家にとって、これ以上嬉しいことが、あるだろうか。

 一度世界が暗くなってから、再び部屋に陽の光が満ちる。その間は電気をつけなければ手元を見ることも出来ず、暗い時間が長々と続いたのだから、きっと夜を迎えていたのだと思う。だが、どうでもいい。今の俺にとって、絵を描くことがすべてなのだ。絵を描くために、今の俺は生きている。

 俺の頬が吊り上がっていく。食事をとっていないことと、睡眠の欠乏が原因となって、体中が痛い。作品に汗を落とさないよう、一度シャワーを浴びた。眠気が酷すぎるのか、一度色を塗り損ないそうになったところで、俺は仮眠をとった。

 楽しい。夢の中でも、俺は絵のことを考えていた。

 目を覚ました後、水を飲んでから作業を続けた。飯を買いに行く時間すら面倒で、冷蔵庫に入っていたマヨネーズを飲む。カロリーだけ取っていれば死なない、というような話をどこかで聞いたような気がする。

 絵を描くことが、この上ない快感だ。沢山の色の中から、自らの芸術に最も相応しい色を選びぬく。最高級の食材から、最上の部分だけを切り出して作る料理のように、今の俺の作品には、俺のすべてが詰まっている。

 本物の芸術と感情を、ひとつの作品として練り上げる。

 呼吸が荒くなっていく。

 興奮と感情で痛みを誤魔化しながら、絵を描き進めていく。

 俺が求めていたのは、これだ。

 これなんだよ。命を削ってでも、最高の芸術が作りたかったんだよ。

 色鉛筆と水彩絵の具の両方を使って、真っ白な画用紙に、俺の見たい絵を描く。

 俺の感情のすべてを注ぎ込む。

 現実の俺が醜く歪んでいくほどに、絵画の中の下野は、輝きを増していく。

 俺の想像の中にいる下野も、表情を笑顔に変えていく。

 時折、悲しそうな表情を見せた。だが、俺は止まれない。

 周囲の闇が深くなった。これで、三回目だ。俺は、三度目の夜を迎えようとしている。部屋の電気は、一度目の夜から、ずっと点いたままだ。限界を超える距離を走ったように、体中が痛い。骨が軋み関節が砕け、筋肉が断裂していると言われても不思議には思わない。頭蓋骨が割れるように、脳の端まで痛む。それでも俺は、腕を動かし続けた。熱を持つ身体を風呂場のシャワーで冷まし、脳を騙しながら描き続ける。

 黒い感情をねじ伏せるほどに強い、焦がれる感情で下野を描く。親しくしてくれたものを遠ざけ、下野を拒絶しようとした過去の俺を殴り倒すように、強い色をのせる。

 細やかで優しい色合い。大胆で力強い色使い。俺の本物の感情だけを込めた、本物だけで作られた芸術。それが、俺の絵だ。

 鮮やかな青空と、空に伸びる木々を、窓からのぞくことが出来る。人口の光に照らされた彼女の顔は、太陽の光と比べれば随分と暗い。だからこそ、惹きつけられる。白いワンピースを着た下野が、窓際に座っていた。一見、どこまでもシンプルな絵の中には、目を凝らせば凝らすほどに見えるものがある。無数の生命の営みが、彼女の周囲に溢れていた。部屋や彼女の影には死を、空や新緑の木々には生を持ったものが描かれている。だが、それは俺が描きたいから描いたものだ。御託はいらない。俺は、俺が描きたかったものを全力で書いた。彼女の微笑みを引き立たせるためだけに影を持つ部屋を描き、生物の死を描いた。

 すべては俺の、芸術の為に。

 含みを持った笑みで見つめられると、見ているものも笑顔になってしまう。下野の魅力は、内面の明るさにあるのだ。俺が持つことの出来ない、どこまでも美しい、心の中に。

 下野から伸びた影の中に、俺は膝をついていた。

 下野の瞳に、最後の修正を加える。

「……った」

 終わった。俺は、そうつぶやいたのかもしれない。

 改めて声を出そうとしても、掠れてしまっているのか、うまく出せない。

 いつの間にか昇っていた太陽は、遥か高くに位置している。時計を見ると、針が正午を告げていた。玄関の、インターホンが鳴る。

 絵を汚さないようにするだけで体力のほとんどを使い果たし、壁に肩を擦り付けるようにして歩く。そして玄関にたどり着いたとき、いつもの俺がしなかったことをした。チェーンを外してから、扉を開く。そこには、下野がいた。

「こんにちは。昨日まで旅行に行っていたからそのお土産、って、その顔どうしたの⁉」

「…………へ」

 なんだよ、旅行に行っていただけじゃないか。俺のことが嫌いになったのかと、早とちりをして損をした。

 そんな軽口を叩こうとして、身体に限界が来て居ることを気付いた。身体を支えることすら出来なくなって、俺は倒れていく。全てが止まったように見え、五感のほとんどが失われていく。

 ゆっくりと閉じていく世界の中で、下野の声だけが、聞こえているような気がした。

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