私の転落人生からの復帰に至るまで
中海
第1話 はじめての就職
私が就職したのは、高校を卒業してすぐ。
当時は就職氷河期で、就職に就くためにはなにかしらの資格が必要であり、専門学校や大学に進学する、あるいは親類、先輩方からの照会が必須でした。
ですが、私は運よく、初めての面接で就職が決まりました。
それがこれからの人生を大きく変える出会いであったと思います。
初めて就く仕事は、何もかもが初めてである事は当たり前。
ですが、私の場合は、冠婚葬祭の『葬』の職種、葬祭業に就くことになりました。
初めて見るご尊体、初めて会う人々、感情を露わにする言葉、近親者に放たれる暴言に遺産問題、生活保護や年金生活を送る人の孤独死。
10代でこの世界に入って見る大人の世界は、この上なく汚く、綺麗事ではないんだと理解するまでそんなに時間はかかりませんでした。
そして、学生時代はお世辞にも真面目な学生生活を送っていなかった私には、窮屈な会社の規律や社会のルールが煩わしく、遅刻や無断欠席、口論や職場放棄もしてきました。
それでも解雇されなかったのは、数少ない葬祭に関わる人手不足があり、私という人材が欲しかったわけではないと言う事も理解していました。
それを逆手にとって、自由気ままに半年働いていました。
ですが、半年が過ぎたころ、ここは私が働く場所ではないと勝手に思い、どうせ辞めるなら必要な人材になり、引きとめられるような辞め方をしてやろうと考え、そこから仕事に関するスキルを磨くことに専念しました。
初歩的ではありましたが、礼儀作法に言葉遣いの改善。
仕事に関するPC技術に仕事道具名や用途の把握、物品発注に搬送車の整備、お花の知識や死後処置の知識。
宗派の勉強に、寺院による習わしの違い、地域の風習も地区ごとに違う事も細かくノートに記載し、周囲からは熱心になったと感心され、いつしか必要な人材としての立場を確立して行きました。
そして、1年と半年が過ぎた頃、ついに私は退職願を提出することになりました。
当初の考えでは、引きとめられはするが、気持ちが動かなければ辞めることができるだろうと考えていましたが、そうは問屋がおろしませんでした…
社長室に通され、社長に専務、直属の上司に説得され、それでも首を横に振る私に、給料の上乗せの話が出てきました。
当時の給料、基本給が15万。
残業や資格手当等は全て無し。
唯一つく手当は、通夜(つや)手当のみ。
それも一回の通夜で『500円』しかつかなかった。
つまり月に10回通夜を手伝っても、『5,000円』しか手元に入らなかった。
そして雇用保険や健康保険で引かれて、手元に入る総支給額は13万~14万。
正直、当時にしてもこの給料はあまりに低いものでした。
なぜなら仕事量の対価にして、あまりに低い。
当時は自宅葬が主流であり、幕張に祭壇設置、祭壇花の設置や花差しや供花、花輪や名札も手書きで、全て行っていた。
そして通夜の手伝いと言っても、お茶の用意や通夜菓子の準備、料理の手配に配膳準備、接待に通夜後の片付け。それらが終わって変えるのは20時や21時。
翌日は7時には出勤し、通夜の宴会あとの片付けに葬儀の準備、葬儀の補佐に霊柩車の運転、その後の精進落ち(しょうじんおち)の手伝いに片付け、会社に戻ったら使用した幕の洗濯に巻き直し、祭壇の片付けなんかもその日のうちに終わらせて帰る。
そして何より苦痛だったのが、夜中の搬送には強制的に呼び出され、友人と出かけていてもお酒を飲んでいたとしても、必ず出社しなくては行けなかったのです。
ここで謝罪させて頂きたいのは、当時も飲酒運転は違反であり、罰金に点数も引かれる事は当たり前でしたが、葬儀社の人間が飲酒運転しても、それは暗黙の了解で警察も見逃してくれていました。今にして思えば考えられないことです…
話が逸れてしまいましたが、手取り14万前後でこの仕事は続けられないと告げたら、通夜手当を『1,000円』に上げ、基本給も1万上乗せすると約束され、数時間に及ぶ説得に折れ、私は会社に残ることになりました。
この時、意地でも退職していれば、もっと違う人生が待っていたと思います。
つづく
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