豚肉と野菜のあんかけ炒め

 俺が内心激しくプレッシャーを感じつつ仕上げたのは、豚肉と野菜のあんかけ炒めである。

 一見難しそうだが、実は味付けは麺つゆのみ。とろみづけの片栗粉を水に溶く作業だけちゃんとやれれば、あれやこれやを大さじ何杯という作業が一切ないところが素晴らしい。

 あとは大根と油揚げの味噌汁、ブロッコリーとウインナーの黒胡椒炒め、プチトマトのサラダ。どれも超簡単な失敗なしメニューだ。思い切り丁寧に米を研いだ白飯は、何気にいつもよりツヤが良い。

 それぞれのグラスにビールを注げば、結構華やかな夕食の食卓になり……我ながら感動だ。


「うあ、めっちゃ美味い……」

 一杯目のビールのグラスを気持ちよく呷り、あんかけ炒めを男らしく頬張った彼は、素直に感心した声を出す。


「そう? じゃあよかった」


 うおっしゃああーーーー!!!!!

 顔には全く出さないまま、心の中で激しくガッツポーズを作る。

 この浮き立つような明るい達成感は、なんとも久しぶりだ。



「……美味いですね。誰かに作ってもらった熱々の夕食を、その人と一緒に食べるって。

 ——そういえば、ずっとこういうのなかったじゃん、なんて」


 グラスへ伸ばしかけた自分の手が、思わず止まる。

 俺は、穏やかな表情の彼を改めて見つめた。



「うちは両親とも、ほんと忙しい人たちで。中学くらいからは、夕食はほとんど冷蔵庫にラップをかけてあるか、お金を置いてあるか、どっちかでした。


 近くに父方の祖父母が住んでたんですが……俺、祖母からすごい疎まれてて。

 疎まれてる、というより、憎まれてる……に近かったのかな」



 憎む。

 その言葉の思わぬ不穏さが、俺の意識に鋭く飛び込んでくる。


「……憎まれるって……

 普通じいちゃんばあちゃんなんて、孫を目に入れても痛くないって……」


「そう単純じゃなかったんですね、うちは」

 彼は、ふっと浅く微笑む。



「俺の父親は、祖父とその前妻との間に生まれた子です。

 その女性は、北欧の方の血を引いた人らしく……父がまだ幼い頃に、重い病を得て亡くなったそうです。


 俺の父親は完全に日本人の顔なんですけどね……父と普通の日本人の母との間に生まれた俺に、その血が突然濃く出たみたいで。

 祖父は、俺と二人きりの時だけ、懐かしそうに話しました。とても美しく優しい人で、お前は彼女にそっくりだ……と。


 その人が亡くなった数年後に祖父が再婚した相手が、今の祖母です。

 前妻への祖父の愛情の深さを、祖母は常にどこかで感じ取っていたのかもしれません。——辛かったのでしょうね。

 祖母は次第に、前妻の血を濃く引き継いだ俺を強く嫌うようになりました。

 祖父は、俺を心から可愛がってくれた。その温かな膝の上が、俺にはどこよりも幸せな場所でした。

 そんな祖父が亡くなってからは、特に——本当に、あからさまに冷たかった。


 中1の時、両親に一度だけ、その辛さを話したことがあります。

 けれど、『おばあちゃんも苦労した人だから。分かってあげなさい』と——両親からは、面倒な話はこれ以上しないでくれ、という気配しか感じられませんでした。


 一人っ子で、誰もいない一人きりの家で。周囲の冷たさや無関心さばかりが心に積み重なって。

 おまけに、どうやら自分はその他大勢とは『違う』ことにも次第に気づき始めて。

 それでも——いくら苦しくても、親に相談などできるわけがない」



 この子は、どうしてこれほど静かな顔で、こんな話をするのだろう。

 気づけば俺は、膝に拳を固く握り締めていた。



「大学進学と同時に一人暮らしを始めて、初めて本気で恋をした。あの人に。

 この幸せは、絶対に手放さないと。

 そんなことを思った自分が、また甘かったのかな……なんて。


 ——うわ、湿っぽくて死にそうですね。すみません」



 最後の言葉を、彼は慌てたように付け加えた。

 自分にはそんな話を聞いてもらえる資格がない、とでもいうように。



「————いや。

 ……辛かったな」


 何かが胸にこみ上げそうになるのを、必死に抑え込む。



「奏くん——ありがとう。

 俺に、それを話してくれて」


「あなたが悪いんですよ。何を話しても受け止めてくれそうな顔してるから。

 こんな情けない話、誰にもしたことなかったのに」


 彼は、軽く笑いつつそう返す。

 微かに滲む瞳を、何とか誤魔化しながら。



「——君は、情けなくなんかない。少しも。


 そして……苦しいことは、抱え込むんじゃなくて、吐き出すのが当たり前なんだ。

 君がなんでも吐き出せる場所になれたら、俺は嬉しい。


 なあ。もうひとりきりで我慢なんかするな。

 どんなことも、ここで全部ぶちまけたらいい」



「——……あー……くそ。

 ……ありがとうございます……」


 堪え切れなくなったように、彼は手の甲でごしっと目元を拭った。



 改めて空腹を思い出したように気持ちいい食べっぷりを見せる彼を、俺は何か堪らなく切ない思いで見つめた。









「そうだ」

 料理の皿が空っぽになり、ビールの缶も何気に結構空になったなと思う頃、彼は急に立ち上がると先ほどのショルダーバッグから何かをゴソゴソと取り出した。


「今まで撮った写真を、少し前にフォトブックにしてみたんです。さっきこれも一緒に部屋から持ってきました。

 少し手間とお金をかければ自分の写真をこういう形で残せるなんて、すごいですよね。やってみたら本当に楽しくて。

 海斗さん、俺の撮った写真を観たいって、さっき言ってたでしょ?

 自分でも残しておきたいものを集めた宝物なので。よかったら観てみてください。

 ってか、めっちゃ眠くなってきました……電源切ります。おやすみなさい」


 そう言うなり、彼はベッドにどさりと倒れ込んだ。



「え、あれ? 奏くん……?」


 酒を飲んでも全く変わらないから、めちゃくちゃ強いのかと思ったが、どうやら酔いが顔に出ないタイプなのか。

 本当に電源が切れたという感じだ。最早すうすうと寝息を立て始めている。

 昼間夢中で紅葉を追いかけて、疲れたのかもしれない。



 彼から受け取ったのは、青く輝く海が表紙になった、まるで写真集のように美しいフォトブックだ。

"memory"と、小さな白い文字が下の方に入っている。



 指先をシャツでゴシゴシと拭き取ってから、俺はそおっとそのページを開いた。


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