異世界サラリーマン田中 目覚めたらそこはエルフ三姉妹の営む店の中だった!

くりはら檸檬・蜂須賀こぐま

窓際の1 お辞儀は四十五度 おっさん異世界に立つ

第1話 おっさんと猫

 田中恵一は疲れていた。


 顧客のクレームの件で、こってりと上司に絞られ、部下に陰口を叩かれ、ちょいっと一杯のつもりで飲んだらハシゴ酒になってしまった。


 足取りが重い、と言っても千鳥足なのだが。

 最寄駅で電車を降りて自宅まで徒歩20分。何度この道を歩いただろう。


 去年長男を大学に行かせ、やっと少し落ち着いたところだ。

 長男が少し頑張ってくれて、国立大学に行ってくれたのが有り難かった。

 家のローンはあと20年、ずっしりと肩にのしかかっている。都内の私大に行くなどと言われたら、一日500円のお小遣いが5円になっていたところだ。

「いや、50円はもらえるかな」呟いた。

 夜はとっぷりと更けて通りには誰もいない。妻はもう風呂に入って、テレビに夢中になっているに違いない。田中が家に着いても、「おかえり」どころか振り返りもしないだろう。

「それにしても彩音の奴・・・」

 娘はまだ高1だ。

 すっかり父親のことを馬鹿にしている。ほとんど無視されているといった状態に近い。

 しかも、彩音はなんだか変なものに夢中になっている。

「コミケ」だとか「わんふぇす」だとかいうものに、みょうちくりんな格好になっては出かけていた。

 漫画とかアニメとかが好きらしいのだが、田中の理解の範疇を越えていた。


『ふじょし? 女の子なんだから、婦女子は当たり前だろう?』田中がそう言うと、『分かってないなぁ、お父さん。腐女子よ、腐女子。分かる?BL』と新たな謎の文句で答える。


 ビーエルとは何のことだろう。野球のPL学園ならわかるのだが。

 田中は考え込んでしまう。

 大体、自分のことを腐った女子というとは何事だろう。

 あまりに自虐的ではないか。自分だって自分からなかなか窓際族とは言えないのに。


 田中が考え込んでいると、彩音は肩をすくめて自室に入ってしまった。

 思えばこれが、最近一番長い娘との会話である。


 田中はため息をついた。

「真面目に生きてきたのになぁ」

 いや、正確に言うとちょっと酒の量は多かったかもしれない。


 なんだかもう一杯飲みたくなった。


 だが、当然こんな時間の住宅街にバーや飲み屋が開いているわけもない。

 幸い11時前だ。田中は酒屋を見つけて、自販機のカップ酒を一本買った。


「一人カップ酒か。我ながらさびしいなぁ」


 ふと見ると、猫がじっとこちらを見ている。


 不思議な猫だ。

 体毛は黒なのだが、目の色が左右で違う。緑と青なのだ。

 猫は田中の言葉が理解できるかのように、まるで耳を澄ましているように見える。

 酒屋の脇の路地に積み上げてあるビールケースの上で、じっと動かない。


「やあ」

 田中は猫にあいさつした。


「お前も淋しいのか?」

「にゃあ」

 猫が鳴いた。

 猫が返事してくれたように感じて、田中はそっと手を伸ばした。

 猫がさっと身をかわす。


「あっ! おっとっと!」

 足がもつれた田中は、前のめりに倒れた。ビールケースが崩れてくる。


 頭に固いものが直撃する。

 辺りが暗くなって、意識がすぅっと遠くなった。

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