骨花

愛川きむら

―1―

 地球崩壊の危機に迫られた。今まで目をそらしていた環境汚染が悪化し、その影響で動物を凶暴化させる細菌ウイルスが蔓延し始めた。そのウイルスの名はデトスシシン。人間に感染すると白内障や高熱を引き起こし、最悪の場合は死にいたる。そのウイルスに命を犯された犠牲者は数しれない。

 二二二二年に日本とアメリカが同盟を組み、人類滅亡の危機を救うべく日米総合研究所を立ち上げた。日本の技術を駆使し、アメリカが機材の供給を行っていた。

 努力家のレヴンは自慢のブロンドヘアをなびかせて足音を立てる。ノックもせず扉を開け、目の前の光景を目の当たりにしてため息をついた。山積みになった書類に埋もれるようにして穏やかな寝息を立てるカルア。日光を浴びて真っ黒な髪の毛先が白銀にきらめいている。

 大きなサッシ窓に粉雪が付着しては消えていく。レヴンはそばから毛布を引っ張って彼にかける。それにしても幸せそうに眠る。レヴンは思う。あとどれくらいこの寝顔を守ることができるだろうか、と。


 国の研究所から逃げ出してはや二ヶ月が経とうとしている。

 その日は秋も深まり寒さに備えて衣替えを終えた直後だった。カルアはコートの裾をつかみながらうつむきがちに歩いていた。彼はつい先ほど会議に出席したところだった。しかし思うように意見が通らず、自己アピールもままならなかった。だがここで諦めるわけにはいかない。唇を噛み締めて元来た道を振り返る。

「何度も言っているだろう! 実験はやめない!」

 研究室に大きな怒鳴り声が響く。去ろうとする室長にすがりつく。

「お話を聞いてください! このままでは動物たちが絶滅してしまいます!」

「人工授精でまた数を増やせばいいだろう」

「道徳に背くのですか! 人間じゃなければ遺伝子操作も行っていいと?」

「何を今さらそのようなことを言う。憲法改正しただろう」

 手を振り払われたカルアは地べたに座り込んだ。心が折れ視界が歪む。バカにする研究員は紅茶の香りのする息を吐いて笑う。

 この研究所で遺伝子操作を否定する者はカルアただ一人だけだった。数年前、数十年前は世界で肯定されなかった。が、人類の危機にさらされた今、そのような戯言を言っている余裕もなく、法が改正された。

「立ってください」

 背後から語尾が強調された女性の声が聞こえる。泣きそうな顔で振り返ると、そこにはレヴン副室長がいた。彼女は勤勉家で室長の秘書も兼ねているほど優秀だ。そんな彼女がカルアに何の用があるのだろうか。

「あなたたちも手を止めないで仕事に戻ったらどうです?」

 キッと鋭い眼差しで射抜かれた研究員たちはそそくさと去っていった。

 誰もいない休憩室に連れられる。レヴンはポケットから出した煙草を吸った。

「煙草……吸われるんですね」

「あなたは吸わないほうがいいわ。おいしくないから」

「はあ。……それで、僕になんのご用ですか」

 上の空で煙草をふかしていた彼女がふと目を輝かせる。カルアの手を取った。

「あなた、最高よ! さっきの会議、久々に楽しかったわ!」

 いつもやや不機嫌そうにしている彼女からは想像もできない子どものような笑顔にカルアの心は高鳴った。レヴンの体温が伝わって暖まる。

「ここから逃げ出しましょう」

「――え!?」

 論理的な彼女からはかけ離れた言葉が聞こえる。カルアは戸惑った。

「離れの家があるの。そこで私たちだけで地球を救う研究をしましょう」

「で、でも、僕……」

 そんな責任の大きいことは引き受けられない。それに他にも優秀な人材がいるはずなのに、彼女はどうしてカルアを選ぶのだろうか。


 午後十四時に行われた会議でカルアは初めて出席した。

「君が十五歳の研究員か。最年少の天才研究者だと聞いている。期待しているよ」

 ふんぞり返って椅子に座るのは、アメリカの――誰だか忘れてしまった。

 カルアには遠い存在だった。会議には選ばれし者しか参加できない。そこにカルアが選ばれた理由がわからなかった。十五歳にして新種の薬剤を調合した天才少年、カルア。それだけのことで呼ばれるものなのだろうか。

 会議は静かに始まった。司会はあのレヴンだった。彼女は所長の傍らに寄り添って書類に目を落としている。

 デトスシシンが発生して二年。凶暴化した動物たちは興奮状態から心臓発作を起こして死にいたるケースが多い。感染した人間はキラーT細胞が判断力を失い自身の細胞を破壊してまわり、筋肉や呼吸器官が弱くなり衰弱死していった。治療法を見つけるためと口実をつくっては動物を殺める。これまで実験のせいで死んでいった彼らは数しれない。カルアは何百匹を殺す日々に心を痛めていた。

「僕は動物ではなく、人口細胞を使っての実験が良いと思われます。人類のためとはいえ動物を殺め続けるのは道徳として、人間の心としてどうかと……」

 言い方が悪かったのかもしれない。室長は顔を真っ赤にして怒った。

「残念だ。君がそんな戯言を言うとは思わなかったよ。退席いただこう」

「し、しかし室長。人口細胞なら本物の人間じゃないし、動物たちだって死ぬことはなくなるんですよ。動物が成体になるまで待たずに実験が効率よく行われて――」

 どうして上の人たちはIPS細胞を使わないんだ。何年も前に発見されたはずだろう。あれを使えば動物は望まれない死を迎えることはなくなるはずなのに。どうしてIPSを持て余しているんだ。カルアは怒りに震えながらも会議室を出て行った。


 目を覚ますと持ってきた覚えのない毛布がふところにかけられていた。ほのかに彼女の匂いがする。カルアは幸せそうに微笑む。上着を着て部屋を出る。炎に枯れ葉をぱらぱらと落とす細く美しい指先が目に止まる。

「やっと起きた」

 拗ねつつもかわいらしく笑うレヴンにつられてカルアも。すると彼女は咳き込んだ。

「そういえば風邪だったね。薬は飲んだの?」

「投薬は欠かさない主義なの。あなたとは違ってね」

「二、三回ぐらい飲まなくったって治るよ」

 レヴンはもともと免疫力が弱く、小さい頃からよく風邪になっていたという。それでもカルアは苦しそうにしている彼女を見ているのが辛かった。

「僕に何かできることが言ってね」

「……じゃあ、私の代わりに風邪になって」

「いいよ」

 冗談で言ったのだろう。無邪気にしているレヴンの隣に寄り添うようにして座った。

「……離れたほうがいいよ。本当に移っちゃうよ」

「それでもいいよ。ふたりであったまろう」

 それっきりレヴンは黙ってしまった。横目で見てみると心地よさそうに瞼を閉じていた。もう少しだけ、このままで。


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