在りし日の抱え物

yura

第1話

「僕には名前を名乗る資格など無い」


そうですか…、と返す。彼はある日の夕暮れに公園で会った人。だが何かしらの哀愁を抱えていて見逃がすには惜しいと思った。

だから彼がふと私の前でハンケチを落としたのは思いがけぬ幸運であった。


それからたわいのない会話を、日に日に公園にて重ねていくのだった。


そこにある花壇に目を移しつつあの花はどうだの、庭にはあれが咲いていただの、様々な物や者が行き交う公園にては口にする内容が果てることはない。

ただ時間がそっと過ぎてゆく。日が傾く、その気配をどちらも感じ取ってそれとなく別れの時間となる。


ある日彼は言った、「僕には名前を名乗る資格など無い」。態々「名」という言葉を重ねたのには意味があってのことだろうか。いつものようにベンチに座る彼の横顔は、彼の掌によって遮られた。


「…すまない、僕は…」それから少しの間。

分かりました、時が来たらお話ししてくれましょう、と口を挿むと、彼はその私の言葉を聞いてようやく「ああ」、と頷いて手を除けて笑みを浮かべた顔をこちらへ覗かせる。


じゃあなんと呼びましょうか、…との言葉が浮かんだが、それも不要だとすぐに気づく。私は彼を「貴方」と呼んでいる。貴方はどうですか、貴方については、…そう言ってきた。


一方彼は私を「君」と呼んでいるのだから不自由はない。なんの不都合もない。一切の肩書を私達共に互い知らない。


きっと彼の先程の言葉からして、彼は「肩書」こそ、捨て去ってしまいたいものそのものであろう、肩書こそ、過去の彼の紛擾を抱え込むものだろう。その肩書にむしろ彼は過去の小景を詰み込めているのであってそれを開けば彼はきっとおおわれてしまう。過去に覆われてきっと、つみ、だかなにかに取り込まれようとしてしまう、だから私は深く掘り起こす事などをきらった。まずいものには身を背けるのが良き手だ。傷つけねば気づかない、傷つかない、それは私がこのまま無為に時をすごせる唯一の手立てだ。


抱えている過去、それは私にも例外なくあった。だからひとつぽつりと、気にしないように繕って「私のとおくの血縁者は軍人さんでした」。…そのうちのひとつを明かした。今まで言った事のないこと。

私は自分の手元をみつつ話していたので、彼の様子は表情こそ分からなかった。だが彼がこちらを興味深そうに見て、身を少し固めたのが視界端で分かった。


――だから、肩書が、どれほど重いものか、分かっています。

…少なくとも彼には分かっていましょう。彼によく話を聴いた私も、少しは分かっていると、そう自覚しています。

肩書は自らが肩どころか背全体で負うものです。負っているけれど、それにて地位が高くなったり低くなったり、自分をつぶしてしまったりします、

でもそれにて自らを称揚させたりする人もいます、それぞれですが、肩書とは自らの生きた証の一部です。


・・・そう告げる、と、彼は静かに黙って聴いていた。私がここで身に係わる話をしたのは、自分が打ち明けることで彼に親近を抱いてほしかったという希望もあったことが理由として挙げられる。そして願わくば彼にいずれ親しい情を抱いてもらえれば幸甚だったのだ。


「肩書、ね」


自分に確認するように間を置いて彼はゆっくり呟いた。その声調は何の感情にてか震えていたように聴こえる。息を吐きながら発した音だったので空気に煽られた、それだけで意味はないのかもしれない。


「軍人だったなら、…」


彼は口を開いて、語を継ぐ寸前で息を呑み、考え直したのか発するのをやめた。

…だったなら、何か思う事があったのだろう。なにか言ってくれてよいのだが、彼にとってはそれが決定的な何かを分かつ重要な決文だったのであった。だからきっとやめた。結局耳にできない私は、ひとつ思考と発声との間の厚い隔たりに区切られて、その思考を捕らえることを不可能とした。


「…僕も会っていたかもしれない。」そう呟く筈だった彼の思いは急に吹き込んだ風によって葉と共に淡い青空へと吸い込まれていった。





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