第8話 オムソバ

「オムそば!」と入って来たのは、東門の飲み屋街でブティックをやっている勝治さんだ。営業時間は午後5時から深夜2時までだ。お客はほとんどホステスさんで、かき入れどきはバーやスナックが退けた0時から2時までの間である。ホステスが客にねだって買わすのだ。服だけでなく、バッグやアクセサリーも置いてある。インポート物とかで結構な値段がするらしい。中には買わせておいて、翌日返金を言ってくるホステスもある。そこは心得たもの、1割を取って9割を返すらしい。店には「返品・交換お断り」の紙は一応貼ってある。


勝治さんは、小学校時代、大阪は河内育ちである。ときどきその地言葉がかい間みえるときがある。「うどんをウロン」「蓮根をデンコン」と発音する。「そうやんけ」も時々出る。それ以外は普通の関西弁である。


深夜食堂の店の暖簾を出す前に夜食を食べに来る。その日は、先生もすでに来ていた。先生は、中山手で中学生相手の個人塾をやっている。住まいは近くにマンションを借りている。来るときはいつも自転車だ。


頭はシルバーグレー、短髪のナイスミドルだ。服装はいつも小ざっぱりとしたラフな格好だ。教える教科は5教科全部らしい。その方が受験にはいいそうだ。得意学科を伸ばさせて、どの学科を捨てさせるか、総合的に見るのにいいそうだ。


「5教科凄いですね」と云うと、「中学生程度ならみな教えられますよ。公立の学校でもそうすればいいんですよ」ということらしい。そういうことがいいのか、関西の有名私大の付属高校にほとんど入学することで定評がある。入学希望者は多いが、少人数制で一定数以上は取らない。先生は小説も書いて、本も3冊ほど出している。


「先生、この間の『塾日誌』面白かったですね。あの中で〈松ちゃん〉の編が俺は好きですね」と、勝治さんがその話をした。


〈松ちゃん〉は先生が教えた男の子で、近くの公立高校に進学した。郵便局の前でアイスキャンディを舐めながら、ポスターを見ている女生徒があった。近づいて先生はびっくりした。〈松ちゃん〉なのだ。先生はどう声をかけていいのかわからず、知られないように通り過ぎた。それから、〈松ちゃん〉を遠くに見ると、横手の道を曲がることになった。1年ほどして〈松ちゃん〉の制服姿はスカートからズボンに変わった。先生はやっと声をかけることが出来て、そしてそのことを質した。〈松ちゃん〉は一言、「だって、僕、もともと男の子だもん」と答えたという。多分、親も、学校も驚いたことだろう。どのように対応したのかを先生は思い、また、男と女の間を何の違和感もなしに行ったり来たりする〈松ちゃん〉を少し羨ましく思ったという話である。


「先生もそんな願望があるのですか?」と、勝治さんが先生を冷やかした。


「まさか、あれは創作でも何でもない。僕も心配して母親の所に行ったのよ。塾の近くの眼科で看護師をされていてね、僕は軽い白内障にかかって通院したことがあった。そんな縁でうちに入塾してきたんだよ。『女の子になりましたね』なんて正面から訊けないだろう。ちょっと目にゴミが入ったのか違和感があるとか云って受診して貰い、帰り際に『松ちゃん元気していますか』と訊いたのだよ。『ええ、お蔭様で機嫌よく学校に通っています』と、全然、明るく答えられたのだよ。上に薬科大学に行っている長男、そして〈松ちゃん〉の母子家庭なのだが、なかなかしっかりしたお母さんだよ。僕はお母さんが学校を説得したのではないかと思うんだ。学校の対応、それしか考えられない」


***

「学校か、先生、授業中に雨が降って来たら、親が傘を持ってきたかい?」


「私とこは、学校から50メートルぐらいだったから、走って帰った方が早かった」


「途中から雨が降って来たら、憂鬱でね」


「どうして?」


「先生、聴いてくれるかい、俺の話を。小説のネタになんねぇーかね」


これからは、勝治さんの小学生時代の話だ。先生は「そうかい」とか、「それから」とか、興味を持って聴いていた。


勝治さんの家は、大阪市内の商店街で婦人服飾店を営んでいた。実の母は小学校3年生の時に男が出来て出て行き、そのあと3人の継母(ままはは)に育てられたというのだ。


「どうして継母っていうのは、いい母ぶるのだろう。昼から曇り空、嫌な予感…、午後の授業の途中から雨、継母はこんな時の行動は素早く、どこの母にも負けていない。何時も一番乗りだった」


「空中を飛んで来た」と先生。


「そうとしか考えられないね。すると教室のやんちゃ連中が、『雨、雨ふれふれ、かあさんが、ジャノメでおむかえうれしいな!ピチピチ、ちゃぷちゃぷ、ランランラン・・』と、冷かしの合唱が始まるんだ。そして、ひどい奴は「来年は誰が持ってくるねん」と云いやがる。俺はそいつの金玉を蹴り上げて、廊下に2時間立たされたことがあったよ。そら1年に二人も変わったらね。それもお姉ちゃんみたいな母さんなんだ」


「どういうことだい?」


「実の母、初代母としておこうか、綺麗で働き者の母だった。商店街の連中も『よくあの潔さんのところに嫁いで来たもんだ」と不思議がっていたよ。従業員、女の販売員さんなのだが、昔は住み込みだったよね。二人いたんだ。食事も一緒、半分女中みたいな使われ方をしたね。年頃の娘さんだし、母は強く言って、近くにアパートを借りてそこを寮にしたんだ。親父は別に家賃を払うことはないとか云っていたが、母に押し切られて渋々従った。母は食事支度と食事だけは一緒にしたけど、他に仕事は言いつけなかった。母はその娘らに料理をきっちり教えたね。女の財産だとね」


「うちは従業員なんていなかったが、僕も商店街育ちだからよくわかるよ。中学を出て田舎から出て来ていたね。それがいつしか綺麗な娘さんに変身するんだ」と先生。


「店は母親で持っていたようなもんだ。親父は株に夢中で近くの証券会社に入りびたり、夜は近くの居酒屋で政治や経済を語っていた。仕事と言えば商店街の雑用を引き受けていたよ。だから店には殆どいなかった。そんなことで、店に出入りする営業マンと母のことも無頓着だった。母は父に見切りをつけたんだね」


「親爺さん困っただろう」と先生。


「困ったなんてものでなかったね。落ち込んじゃって、身も世もないって感じで、首を吊るのではないかと子供心にも心配したもんだ。それを同情したんだね。いた住み込みの古株の方がね」


「それで?」


「その古株が、籍はまだ入れていなかったようだが、後釜に納まりやがった。名前なんて言ったかな?嫌いな奴は名前だって忘れるね。2代目としておこうか、鼻の下を長くした親爺の罰だね、半年したら店の売上金から店の改装用の積立金まで解約してトンずらだよ。それに同情したのが、3代目鉄子さんだ。オイラは鉄っちゃんて呼んでいたがね。よく売る女性だった。お世辞だってあそこまで言えたらりっぱなもんだ。声なんて裏返っていたよ。今度は籍を入れた妻だった。納まったとたんに、オイラの母親だ。これって問答無用なんだね。『勉強したか』とか、通知簿見て、『もっと頑張らないとアカンやんか』とか、急に母親ぶるんだ。ついこの間まで、鉄ちゃんって呼んでいたのに、お母さん、こっちだって困ってしまうよ。鉄ちゃんは教育ママだった。いい点数取ると欲しいものを親爺に内緒で買ってくれたよ。2代目が消えて、そのときに入って来たのが良子って18の娘だった。ちょっとグラマーで、商店街の若い衆でお熱を上げる奴もあったよ。いままで先輩と呼んでいたのを、女将さんって呼ばなきゃならないんだ。良子さんだって同じ思いだったと思うよ。1年ほどしたら、親父は、これからは郊外の時代だとか言って、藤井寺の方に支店を出したんだ。下が店、上に小さな台所と二間ある住居兼用だった。10件ほどの小さな商店街だったが駅に近く結構繁盛した。鉄子さんはそこに住んで、店の休日の前の日に一泊二日で本店に帰る生活になった。オイラは鉄子さんと一緒に住むことになった。鉄ちゃんは初代に料理を仕込まれていたから、俺はお袋の味には困らなかった。その内、鉄子さんは本店に帰らなくなった。親父と良子さんの仲を知ったのだろう。親父は従業員には優しかった。良子さんが入って来て早々、ショーウインドーのガラスを拭いていて、誤って乗っていた椅子が転倒して、ガラスを割った。親爺は飛んできて抱き起こし、『怪我はなかったかい』、てっきり叱られると思っていた良子さんは、これでイチコロになった。前の店での勤めは辛かったようだ」


***

「いい親爺さんじゃーないか」


「初代女房に逃げられ、2代目に売上金を取られたヘマ親爺がかい。優しいというより、女に大甘だね」


「それで?」


「その鉄ちゃんが、俺が5年になった春、銭湯に行くと云ったままいなくなったんだ。良子さんが来て、俺は良子さんと暮らすことになった」


「また、本店に新入の住み込みさんが来たのかい?」


「良子はしっかりしていたね。通いの主婦を決めたのだよ。良子って呼ぶよ、俺はそう呼んでいたから。良子は料理が苦手でね。煮物が出来ないんだ。母がモーいなかったからね。炒め物しかできない。それも、焼き飯、焼きそば、せいぜい野菜炒めがいいとこだ。冬は鍋で助かるんだけど・・焼きそばが続いた日、文句を云うと大好きなオムライスが出て来た。俺は感動したね。『良子さんできるじゃ~ありませんか』。中を開けてびっくり、焼きそばが出て来た。オムそばを見た初めだった。良子さんは尾道出身で、元祖広島焼きと言ったがね。発祥は絶対広島だと云って譲らなかった。だって、子供時代から食べていたと云うんだ。」


「そのオムそばの娘さんがどうしたい」


「先生、俺にとっては母だよ、母」


「でも、良子って呼び捨てにする仲だろう」


「一度こんなことがあった。良子と一緒に歩いていたら、友達のお母さんと会って『あら~、お姉さんと一緒?いいわねー』、オイラが『ハイ~』って返事したんだ。家に帰るなりいきなりビンタだ。目から星がでたよ。『わたしは、あんたの亭主の妻。つまり母、母親だよ。ハイって何よ』ってわけだ」


「違いない!」


「鉄ちゃんと違って勉強しろとは云わなかったね。人間正直で、元気であればいいと云う主義で、それはまさに良子そのものだった。読書家だったね。手当たり次第何でも読むんだ。いい本があれば、『勝治、これ読み』て強制だ。必ずどうだったと訊くんだ。適当に『良かった』といえばそれでOKなんだが、2階に上がると急に隠す本があった。良子が本店に帰ったときはもっぱらそれを読んだよ。ところどころ分らない言葉もあったが、顔を紅くするようなものもあったよ。帰って来た良子の顔をまともには見れなかった」


「いけない、勝治さんってわけだ」


***

「先生、話はこれからだよ。向かいが閉まっていたんだ。地元の薬局が買って倉庫代わりに使っていたんだ。親爺や他の店は商店街の発展にとって良くないと云っていたがね、その店が開くことになったんだ。婦人服店としてね。商売仇だ。開けてびっくり玉手箱だったね。開店の粗品を持って挨拶に来たのが鉄ちゃんだったのだ。薬屋の息子が荷物を取りに来ては、鉄ちゃんに色目を使っていたんだね。小学校4年のオイラにはわからなかったってわけ」


「良子さんビックリしただろうね」


「ちょっとやそっとのことで驚かない肝っ玉良子が、口もきけなかったぐらいだからね。鉄子さんの実力を何より知っているのは良子だ。今の上顧客は全部鉄ちゃんがつけたんだからね。親爺に相談しても、『そうかぁー、頑張って下さい』しか返事は得られないしね。それで商店街の肉屋の高松さんに相談したんだね。店でトップクラスの上客さんだった」


「それで?」


「高松さんは、地の人でね。亭主は肉問屋の大元だ。気風のいいお母ちゃんだった。アドバイスは『あるものにしがみつくな』で、鉄子さんの客は鉄子さんにくれてやって、自分の客を作れだった。良子は半月考えて、仕入れ先を全部入れ替えて、思い切って若向きに変えたんだよ。地の金持ちマダムは鉄子さんの店に、市内から移住してきたヤングミセスは良子さんの店と棲み分けになったってわけ。それで良子と鉄ちゃんも商店街の道の真ん中で立ち話をするようになった」


「良かったじゃ~ないか」


「そうだよ、煮物を食べたくなると鉄ちゃんとこに呼ばれに行けたしね。いい成績を取るとプレゼントもあった。元継母と現継母が向い同志に住んでいるんだよ。こんな例ってそうそうないよ」


「そうだね。その後、良子さんと勝治さんは」


「俺は中学校から本店に帰って、高校も出て、大学は東京で、家業は継がず商社に就職した。親爺は60で亡くなった。それをきっしょうに、良子さんは年老いた両親の世話をすると云って尾道に帰った。そのとき2軒の店を処分し、半分を俺に渡してくれたよ。先生、よく考えると、当時俺と5つか6つしか違わなかったんだね。ずいぶん大人だと思ったね。その〈良子さん〉が昨年癌で亡くなった。オムそばを食べるといつも思い出すんだ。いい女だったってね。俺、商社も窓際になって、ブティックをすることになったってわけよ。〈良子さん〉からいろいろ聞いていたことが役立っているよ。鉄ちゃんは店を引いたあと、習い覚えたお茶やお花の師匠をして暮らしているらしい」


「初代のお母さんはどうなったい?」


「母と一緒になった営業マンは出世して、神戸でもトップクラスのアパレルを起こした。母はその夫人として幸せに暮らしている。母に見る目があったってわけだ」


「良かったじゃーないかい」


「うんそうだね。一度、俺が大学時代に、逢いたいって電話があったがね。『母親は間に合ってます』と返事を返したよ。だって良子に悪いだろう」


勝治さんは「先生、小説なるかね、して欲しいね」と、話し終わって店に戻った。


「ところで、この間、店の前を通ったとき、販売の女性が違ってたけど」と、先生。


「北の新地にも店を出したと云っていたから、先生、例の親の血を引くなんとかじゃーないかい」





レシピ:焼きそばを卵で包んだもの。オムライスのライスの部分が焼きそばになっただけのもの。レシピっていうのもおこがましい食べ物。グローバルの時代だ、フランスなんかで流行ったりするかも知れない。それより、先生の書いたものを紹介しておくよ。勝治さんの話は、先生、その商店街があった藤井寺まで見に行ったというから、文章にするんだろう。

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『神戸深夜食堂』 北風 嵐 @masaru2355

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