鐘の鳴る電車

第1話 出発の鐘

 路面電車。通称チンチン電車。車掌が足元のペダルを使って、鐘を鳴らし、それを様々な合図として利用していたことに由来する。かつて都会の交通機関と言えばこれだった。都会のど真ん中を堂々と走り、多くの乗客を乗せた。車両が通れば子供達は歓声をあげ、手を振った。そしてあの運転席に座ることに憧れを抱き、将来の夢は運転士になることだと友達と口々に言い合ったものだ。というのは、小笠原さんの受け売りだ。俺もあれに憧れて運転士になったんだよなあ、なれたときは嬉しかったなあ。今でこそこんな感じだけどな、お前ちゃんとこのシゴトに誇りを持てよ?あの人が昔話をするときはこんな言葉がいつもついてくる。あの人はいつだって俺のことを気にかけてくる。面倒反面、嬉しい反面といったところだろうか。分量を間違えたカシスオレンジを飲んでいるときぐらい複雑だ。この例えは小笠原さんがよく使うのだが、全くもって意味がわからない。わからないけど使ってしまうこの現象に名前をつけてほしい。

 俺が子供のころはすでに路面電車は自家用車に取って代わられ、小笠原さんの語る全盛期の見る影もない状態だった。いや、だが確かに小学校のクラスメイトの中に一人くらいは、チンチン電車の運転士になりたい!なんて意気込んでいる奴もいたような気がする。例外というやつはいつどんな時だって存在する。まあつまり、みんなの憧れというほどではなかった。もちろん俺も大多数と同じく憧れてなどいなかった。運転士なんかよりもっと派手なものに憧れ、俺はビッグになるんだ、と嘯くませた小学生だったと記憶している。タイムマシンを使ってあの頃に戻って、自分がそんなこと言っている姿を見たら、間違いなく頭をかかえるだろう。

 ところでそんな過去の話ではなく、現実に目を向けて現実を端的に報告すると、俺は今路面電車の運転席に座っている。

 大人への成長過程で急に電車趣味に目覚めたわけでもない。わけでもないが、俺は今運転席に座っている。もちろんただ、座っているわけではない。運転士という職業についてしまったから座っているのだ。人生こんなつもりではなかった。なんで俺はここにいるのだ。

 俺は静かにため息をつきながら、ドアを閉めて鐘を鳴らした。

「チン、チン」


 俺の運転するこの車両には、もうかつてのように足元のペダルは用意されていない。かろうじてドアが閉まると同時に昔ながらの鐘が鳴るようになっており、それが出発の合図となっている。俺は電車オタクではないので知らないが、世の中に現存する路面電車のほとんどには、もうもはや鐘の音すら備わっていないと聞く。それに比べたら、この状況ですらまだ文化を残そうと涙ぐましい努力をしているのだなと思い、涙が溢れそうだ。本当に溢れてしまうほど、路面電車に愛着があればよかったのだが。

 そうこうしているうちに次の駅が見えてくる。この路線は駅と駅の間の距離が近く、数駅であれば自転車どころか徒歩でも問題無いほどだ。

 今、この車両に乗っているのはただ一人。それは乗客ではなく俺自身だ。つまり、今この電車は非常に無駄な運行をしていることになる。ほとほとこの仕事に嫌気が差す。本当にこの仕事は必要なのだろうか。

 そして次の駅でも、やっぱり人は乗ってこない。誰もいない駅に向かって、誰もいない車両に向けて、やっぱり鐘を鳴らす。

「チン、チン」




みつ @yoshimitsu1212

今日から一人暮らし!ようやく終電早い芸人から解放される〜♡

毎日飲むぞ〜!!!



 新居の鍵を閉めて、時計を見た。10時ぴったり。この時間に家を出ても二限から始まる講義には余裕で間に合う。その素晴らしさに、吉岡美津子は思わずため息をついた。今までは通学に二時間かけていたのに、一人暮らしを始めた今は徒歩20分となった。若干交通の便が悪く、大学最寄りのメトロにつながる路線の駅が周りにないため、歩かなければならないという点は若干不便だが、それでも充分だった。そもそも、実家暮らしをしていた際には最寄りのバス停まで同じくらい歩いていたのだから、どう考えても良いに決まっている。

 時間があったので、周辺を確認しながらゆっくり歩く。平日の午前ということもあるのだろうか、人気の全くない神社。都会らしく、少し濁った川。草木がぼうぼうに生えているのではなく、しっかり花壇に花が植えられている。これは……チューリップだろうか。大学までの道のりは見慣れない景色だらけに見えた。強いていうならひらひらと舞っているモンシロチョウに、故郷を感じたくらいだ。

「早くしないとチンチン電車行っちゃうよ〜!お母さん早く〜」

 後ろから子供の声がする。まだ声変わりもしていない幼い声だ。それにしても聞きなれない単語だ。チンチン電車とは。

 まあ卑猥な言葉を叫びたがるお年頃なのだろうと合点して、歩き続けようとした。

「はいはい、チンチン電車来るまでまだ10分もあるから大丈夫よ」

 さすがに振り返って、まじまじと見つめてしまった。

「……どうかしました?」

「あの、昨日ここら辺に引っ越してきたんですけど、チンチン?電車ってなんですか?」

「ああ、路面電車のことよ。発車音がチン、チンと聞こえるからそう呼ばれてるの」

「……なるほど」

 どうやら卑猥なのは私の頭の中の方だった、と赤くなった。そんなに欲求不安なのだろうか。確かに彼氏は久しくいないが。

「この近くに路面電車の駅があるのよ。まあでも学生さんなら使うこともないかもしれないわね。一応ここら辺の地域の最寄り駅といえばそこなのだけど」

 そして、それにしても、と彼女は続けた。「あなた、そこに反応するなんてよっぽど欲求不満なのね」彼女はいたずらっぽく笑った。


 その晩、私は酔ってなどいなかった。なぜなら私は強いし、潰れたことないし、一人暮らしだからだ。一人暮らしは強い。スピリタスよりも強い。何よりも強いのだ!!!

「お前、飲み過ぎだろ……」

 伊藤の顔は呆れているように見えた。むかつく!!!

 大丈夫、私家近所だから!一人暮らし始めたから!!強いから!!!、といったような内容の言葉を告げる。だいたい伝わったはずだ。

「大丈夫じゃないだろ!歩かないとなんだろ?」

 いや、電車あるもん。チンチン電車!チンチン!アハハ!

「路面の駅が最寄ってんのか?」

 そ!

「じゃあ俺とりあえずこいつそこまで連れていくから、あとよろしくな」

伊藤がみんなの方を向いてそう宣言する。

私は、彼氏ヅラしてんじゃないよ!、と言った。(つもりだった)

 

 駅に着いた瞬間に伊藤を即追い返した。あんなのに彼氏ヅラされて家までついてこられたらたまらん。「欲求不満なのね」という言葉がリフレインしてきたが打ち消す。「欲求不満じゃないよ!」そう叫んだら、ちょうど電車が来た。

「運賃前払いになります」

 若い車掌がそう告げて来た、伊藤なんかよりよっぽど好みのタイプだ。私はにこやかに運賃を支払って、どかっと椅子に座り込んだ。


「お前のこと好きなんだ」伊藤が突然そう告げて来た。「お前んち、今から行ってもいいか?」

 突然の告白に動揺した。こいつは突然何を言い出すのだ。だが、不思議とそんなに悪い気はしない。もうこいつでもいいかあ、と思い頷いてしまった。

 その時、伊藤の顔が午前中に会った子連れの女性に変わった。 

「欲求不満なのね」

 

「欲求不満じゃないよ!」そう叫んで飛び起きた。ちょうど何処かの駅に停車したところだった。車掌が怪訝そうな顔でこちらを見て来たので、睨み返す。

「欲求不満じゃないよ!」私はそう言い残して、電車から飛び出した。

 扉が閉まる音と同時に、「チン、チン」と音が聞こえた。

「だから……」

「欲求不満じゃないよ!!!!!!」


                                   続


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鐘の鳴る電車 @ashiashi

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