すぐれた作家の条件試論【約1,400文字】
わたしは趣味で俳句をつくっている。俳句/俳諧において、「俳聖」は芭蕉(1644-1694)の尊称として用いられることが多いが、蕪村(1716-1784)とあわせて「二大俳聖」とすることも稀にある。わたしは蕪村を「俳聖」とすることに多少の抵抗があるものの、蕪村が芭蕉についで史上2番目に偉大な俳人/俳諧師であることには異存がない。
さて、その蕪村が(わたしにとって)注目に値することを言っていた。蕪村は、芭蕉第一の高弟たる其角(1661-1707)の弟子筋にあたり、いきおい其角を芭蕉のつぎくらいに高く評価していた。だがその其角ですら優れた句は9だったか20だったかにひとつ程度と、蕪村は考えていたらしい。
時代はくだって、芭蕉より蕪村を高く評価した正岡子規(1867-1902)は、蕪村の句には外れがない旨のことを言っていたように思う。わたしはその主張に同意しかねる。わたし的には蕪村でさえ、ほんとうに素晴らしい句は数十にひとつといったところと感じる。芭蕉にしても、できの良い句よりはわるい句がむしろ多いように見える。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たると言う。それも真理の一端で、息を吐くように句をよむのも悪くはないと思う。とは言うものの、句をひねることとそれを他者の耳目に入れることとを意識的に区別して混同しないのが肝要であろう。句をつくるたびに大勢(とりわけ不特定多数)のひとに見せていたら、早晩目が肥えていない少数の物好き以外から見放されるか、最悪ただのひとりも聞く耳を持たなくなりそうなものである。
話しを小説に移そう。わたしは夏目漱石(1867-1916)の長編小説をほぼすべて読んだと記憶しており、それを読んでいるときに退屈した記憶が全然ない。四半世紀ほど前のことなので記憶がひどく曖昧になっていることは明らかだが、それにしてもこれは奇跡的なことではなかろうか。少なからぬ長編小説は読み進めるうちにその世界に没入するものだと経験的に思うが、読んでしばらくのうちはなかなかその世界に入りこめないものであろう。余談だが、この文章を書いているときに、わたしがもっとも嫌いな漱石の小説は「こゝろ」かもしれないと思った。
少なからぬ長編小説はそのうちにその世界に没入するものだと先に述べた。ながい文章ほど入り込むのに時間がかかる分、そうなってしまえばあとは例の楽しい読書体験が待っているものだとわたしは思う。それゆえ、俳句などの短詩よりも小説などは外れが少ないように思える。しかるに一作つくるのにかかる時間に雲泥の差があり、有利不利を比較するのはあまり建設的でない気がする。
さて、そろそろ本題に入りたい。芭蕉は、俳諧をたしなむ者ならだれでも生涯にひとつは名句をよみうる旨のことを言っていたように思う。逆に考えれば、生涯のうちにひとつやふたつしか人口に膾炙する句を残せないようなひとはすぐれた俳人/俳諧師とは言いがたいであろう。歌道においてもほぼまったく同じことが言えそうである。
ひるがえって小説ならどうか。わたしは比較的多くの小説を読んできたが、ひとりの作家の作品群を網羅的に読むことは少ない。つまり作者ではなく作品本位の読書家であり、誰かの贔屓(=ファン)になることが少ない。それは、たとえある作品を読んで感激しても、おなじ作者の別の作品を読んで失望することがしばしばあるからである。
ここまで読めばわたしの答えはほとんど明白であろう。新作を出すたびに楽しませてくれる作家がひろい世界に何人いるだろう。
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