第2章

 1

 

 それから三か月。横浜中華街。

 ベルタは中華喫茶・山水楼に入った。クーラーで冷やされた空気がベルタの肌を包む。

 建物や路面ががぎらつくほど眩しかったのに、店内に入ったとたん一気に光が和らぐ。

 窓にはめ込まれた龍や花の透かし彫りが、真夏の太陽をさえぎってくれているのだ。

 一階の一番奥、角の丸テーブルを選ぶ。

 店内を見回した。どの店に入っても、店内が一望できる場所を選ぶことにしている。ここの視界は十分か?

 やはり流麗な装飾の施されたつい立が、店内のあちこちに置かれている。つい立のせいで丸テーブルがいくつか見えてなくなっている。これで視線が少しさえぎられている。大丈夫か? 危険を察知できるか? いや問題ない。店内のBGMが静かだ、音で分かる。

 座席といい机といい、すべてが木製であめ色に輝いている。

 あちこちにガラスケースがあって、色鮮やかなの人形が展示されている。陶器の器も並んでいる。床や壁の茶色と陶器のミルク色がよく映えた。

 綺麗だなあ、と思いながらメニューを広げる。

 チャイナドレスのお姉さんがお絞りと水を持ってくる。ベルタは頭を下げて、

「あ、この杏仁豆腐と、緑茶入りカスタード団子と、それからライチティーを」

 そこでちょっと考えて、腹に手を当てる。

(ご飯も食べたほうがいいな)

「あと、この『大根もち』と、『小豆入り大福』を」

 お姉さんが頭を下げて去ってゆく。

 ベルタはちらりちらりと店の外を確認しながら、持っていたリュックを机の上に置いて、中からマンガ雑誌を取り出す。

 さきほどコンビニで買ってきたものだ。祐樹と出会ってから三ヶ月、すっかりマンガを読む習慣がついていた。いまだにベルタは学生生活も恋愛も実体験できていない。日本のあちこちを逃げ回っている。だがマンガを読むときだけは「平穏な自分」を疑似体験できる。

 だからベルタはこんなひとときがとても好きだった。

 肘を丸テーブルについて、パラリパラリとマンガのページをめくる。

 ……そのとき、心臓が跳ねた。

(いま、なにかとんでもない名前がのっていたような気が)

 そのページをまじまじと見つめる。

 『フレッシュ新人読みきり! 倉本祐樹』

「あ……」

 おもわずベルタの唇から声が漏れた。

 クラモトユウキ。彼の名だ。あのいじめられっこの名だ。

 マンガの扉ページの絵柄に見覚えがあった。

 彼と別れた日、見せてもらったマンガと似ている。

 だがあのときより力強さが増しているような。

 ベルタは生唾を飲み込んで、中身を読み始めた。

 すぐに夢中になった。女の子はかわいらしく、少年は表情豊かで、ストーリーは密度が高い。

 読み終わって、「ふう……」とため息をつき、たった三十二ページしかないことに驚いた。

 もっとたくさんあった気がした。

 最後のページの後には「作者紹介」の欄があった。

 「倉本祐樹先生」の似顔絵があって、祐樹が肉筆でなにやら描いていた。

 「デビューです! たった三ヶ月前にはこんなこと夢にも思わなかったです。

 もう最高! などといってると痛い感じなので、これからもっと、100倍頑張るぞ!」

 そして自己紹介が続いていた。

 『好きな食べもの 甘いもの 友人の影響。

 特技 マンガ以外何もない……でもいいさ、マンガが誰より得意なら。

 好きな言葉 夢 でも嫌いな言葉も夢。

 自分の性格 よく泣く。感情の沸点が低い人間です。』

 読んでいるうちに、ベルタは視界が歪むのを感じた。いつのまにか泣いていた。自分の泣き虫ぶりにあきれながら、胸ポケットからハンカチを取り出して拭く。それでもまだ涙が流れてきた。

「……よかったね……」

 声とともに、頬をつたった涙が雑誌のページに落ちた。

 そして、マンガ雑誌をぎゅっと抱きしめた。

 彼のことを思い出した、わずか数日間つきあっただけの、しかしベルタの心にけっして消えない思い出を残してくれた少年。彼との別れは辛かった。あれ以来臆病になって、友達を作らずにいた。

(でも、彼、頑張れたんだ)

(わたしなんかが心配すること、なかった)

 マンガ雑誌を抱きしめたまま、目を閉じ、イスに深く腰掛ける。

 ウェイトレスの近づいてくる足音。

「こちら杏仁豆腐とライチティーになります」

 目を開けて、皿の乗った盆を受け取る。

 この店の杏仁豆腐はどんなものだろう? 舌の上で柔らかくとろけてくれるだろうか?

 顔をほころばせながら、白く艶やかに輝く杏仁豆腐へスプーンを入れる。

 と、その瞬間。

 耳に小さな音がひっかかった。

 ガチャリ。

 金属の触れあう音だ。

 ベルタはその音を知っていた。訓練で聴いた。戦場でも耳にした。サブマシンガンの安全装置を外す音。

 窓の外から聞こえてくる!

 全身を寒気が走った。

 音のした方向に目を向ける。窓の外には横浜中華街の町並みが広がる。数十人の男女が歩いている。窓に面した道を一人の男が歩いている。その男は黒い箱型の物体をこちらに向けていた。

 戦術支援電子脳が自動起動。思考速度が加速され、五感が研ぎ澄まされる。一瞬のうちに、ベルタの脳内でいくつもの思考がはじける。

(ついに追っ手が来た。どうする? 回避? できるだろう。とっさにテーブルの下へ?)

(いや、それではダメだ、店内には客と店員が大勢いる。掃射されたらみんなを巻きこんでしまう。それだけはダメだ)

(よし)

 ベルタ、とっさにテーブル上のリュックをつかんで、足首の力だけで跳躍。体がテーブルの上まで浮き上がる。いま頭に載せているウィッグも浮く。首の後ろで二本のお下げが波打つ。飛び上がると、すぐそばにある壁を蹴り飛ばす。靴の底に、壁を踏み抜いてしまった感覚。反動がベルタの体を押し出す。

 窓の外に向かってロケットのように飛びだす。リュックを顔の前にかざして。

 ラタタタッ

 タイプライターを思わせる軽い銃声が耳を打つ。ガラスの割れる音も響いてくる。リュックに、蹴り飛ばされたような衝撃。防弾繊維を仕込んだリュックで銃撃を受け止め、そのまま飛んでゆく。ガラスの破片が舞い散るなか、体を横にしたまま突進、店の外まで飛び出して銃の持ち主に体当たり。

 相手が倒れた。ベルタはとっさに男の腕を踏みつける。パキンとチョコレートを割るような軽い音。反対側の腕も折る。男の脇にいた別の男もサブマシンガンを出す。とっさに脚を蹴り上げる。キュロットスカートから延びるほっそりした脚が、一瞬で男の銃を吹き飛ばした。

 こんどは背後でチャキリと金属音。

(ダメだ、ここでよけたら通行人に当たる)

 ベルタは目の前にいる男の体を抱き上げて振り向いた。まったく同じ瞬間、目の前にしたスーツ姿の男がサブマシンガンをこちらに向けて発砲する。オレンジ色の閃光と銃声が連続して弾ける。いま抱きかかえている男の体が銃弾を受け止めた。

「あがっ! げっ!」

 男がうめいて体を痙攣させる。血は噴きださない。やはり防弾チョッキをつけている。

(よかった)

 ベルタ、男の体を振り回す。両腕をつかんで長さ百八十センチの棍棒として使う。目の前にいる男を一人吹き飛ばした。

(逃げなければ!)

 ベルタはリュックをひっつかかんだまま駆け出した。

 足音が追いかけてきた。有機脳の演算リソースを聴覚に優先配分、追っ手の人数と戦闘能力を推測する。

(数は五人。戦闘力A。訓練されてるけど普通の人間。音から推測して武器はサブマシンガン。大丈夫。通行人にだけ気をつければ)

 『燕雷亭』と書かれた看板のある真っ赤な中華料理屋に飛びこむ。

「いらっしゃ……」 

 店員が声をかけてくる。無視して突進する。赤絨毯の上を突っ走り、丸テーブルの並ぶ店内を駆ける。昼食を食べていた身なりのいい男女がベルタを見て唖然と口をあける。

「失礼しますっ」

 叫んだ。胸の中の生体過給システムを戦闘出力で起動。動きやすくするため、リュックを背負う。階段を三段飛ばしで駆け登り、二階の窓を開けて跳躍する。他の店の屋根に乗り、看板を足がかりにして屋根から屋根へジャンプ、またジャンプ。

 途中で頭の上にバサリと空気の動く感覚。ウィッグが外れてしまった。短い黒髪が空気にさらされた。

(拾ってる場合じゃない!)

 無視して跳躍を続ける。瓦を吹き飛ばし、看板に両手を引っ掛けて逆立ち状態で飛び、十メートルクラスのジャンプを連続する。

(よし、ついてこない)

 当たり前だ、人間がこの動きについてこれるわけがない。

 だが七つ目の店の屋根に飛び乗ったとき、耳が風のうなりをとらえた。

 後方から風を切って接近する、何物か。

 ズガン! 盛大な音を立てて、すぐ後ろに着地する。

(飛んできた! わたしと同じか、それ以上の運動能力)

 振り向いたベルタの眼に飛びこんできたのは、巨漢の姿。

 身長二百センチの巨体から丸太のような手足を生やしている。肩幅といい胸板の厚みといい人間より灰色熊に近い体格だ。金色の髪を短く刈り、下半身はアーミーパンツ、上半身はモスグリーンのジャンパーで覆っている。

 黒い装甲こそ展開していないが、間違いない。

(アントン!)

 ベルタの兄に当たる白兵戦型エインヘリヤル、アントンだ。

 アントンはネイビーカットの下のごつい顔立ちに笑みを浮かべた。

「ようベルタ! 久しぶりだな! おとなしく捕まれよ!」

「嫌です!」

 ベルタは叫んで駆けだす。近くのビルのベランダに飛び乗り、そこから屋上に飛び移る。

 背後でズガンと重い音がしてベランダが崩れ、さきほどより近い一メートル程度の距離でアントンの大声が、

「逃げだって無駄だぜい、ベルタ!」

(確かに)

 ベルタは胃の中に重いものが広がっていくのを感じた。

 アントンの体力、瞬発力は自分を確実にしのいでいる。

 すでに胸の中の過給システムは酸素残量七十パーセント。酸素が切れると激しい運動ができなくなる。アントンはベルタの二倍以上もつだろう。

 このままでは追いつかれる。どうすれば?

 十二軒めの店の屋根に着地した。すでにここは中華街の南の端だ。目の前には巨大な空間が開けている。片側三車線の道路、新横浜通りが広がっている。通りに沿って、鉄道の高架が走っている。

(どうしよう。電車に飛び移るか?)

 視線を下ろす。眼下の新横浜通りを見る。車とバイクが埋め尽くしている。

 ベルタ、飛び降りる。高さ二十メートルから歩道に着地。履いているスニーカーが煙をあげる。目の前に広がる新横浜通りに駆けよる。通りを埋め尽くす車の列の中から一台のバイクに注目。白と赤に塗られた足の長いバイク。ホンダのオフロードバイク、CRMだ。

「ごめんなさいっ!」

 叫びとともにバイクに突進、ライダーを蹴り落としてバイクを奪う。とてもシートが高くベルタでは足がつかない。それでもまたがってキックスターターを踏み下ろす。

 『パアンッ!』2ストローク特有の破裂音を立ててバイクは発進する。前輪を振り上げ、後輪を空転させて車の列の中を突き進む。赤信号に出くわした。目の前をトレーラーが横切る。待っていられない。ハンドルをひねってバイクをねじり倒し、歩道に乗り上げる。

 背後でバオン! 野太い雄叫びが響く。

 振り向くと、大型バイクにまたがったアントンの姿。一抱えもある青黒い燃料タンク、ベルタが乗るCRMの二倍はあるタイヤ幅。水冷であることを誇示するかのようなのっぺりしたエンジンが左右に張り出している。ホンダのCB1300だ。

(アントンも足を手に入れた!)

「オラッ! ちょこまかしやがって!」

 怒声を張り上げたアントン、たちまち距離を詰めてくる。排気量で五倍、基本的なパワーがケタ違いだ。

「くっ……」

 うめいたベルタ、唇の端を噛んで車体をひねり、体全体を振り子のように振ってCRMを急旋回させる。歩道のタイルの上をタイヤがすべる音、キュルルと甲高く悲鳴をあげて方向転換。進路上でワイシャツ姿のサラリーマンが棒立ちになっている。

「どいてくださいっ!」

 体を大きく振って進路を曲げ、すんでのところで衝突を回避。その先にも別のサラリーマンが、おばさんが立ちふさがる。数センチの差でなんとか合間をすり抜ける。悲鳴と怒号が浴びせられる。バッグやアタッシュケースが体に当たる。人ゴミがまだ続く。前方わずか数メートルに幼稚園児の集団を見かけた。よけるには間に合わない。車体をジャンプさせて飛び越える。

 前輪から着地する。フロントサスペンションが大きく縮んで、危なげなく衝撃を吸収した。こういうときはこのバイクがモトクロス用であることに感謝する。

(どっちに逃げればいい?)

 焦って、生唾を呑みこんであたりを見渡す。視界に飛びこんできたのは青々とした緑に囲まれた横浜スタジアム。その脇に並んでいる首都高速の出入り口。

(首都高なら!)

 猛然と加速、交差点を突っ切り、目の前をふさぐ巨大トレーラーに急ブレーキをかけさせ、首都高への入り口を駆け登った。

「お客さん、ノーヘル……うわあ!」

 料金所から身を乗り出して叫ぶ係員。その腕の下をくぐりぬける。

 首都高1号線、下り方面に入った。

 高速道路は横浜の町を見下ろすように高い場所を走り、やがて二股に分かれる。石川町ジャンクションだ。

 ベルタは左に曲がった。

 ゆるいカーブを描きながら左に曲がる。ますます道路は高くあがってゆく。真っ青な海が見えた。遠くに、自動車を満載した貨物船が白い航跡を曳いている。

 トレーラーやトラックで埋めつくされた道を、車体をひねって隙間を抜けてゆく。速度百キロを維持する。左右はトラックが銀色の壁となってそびえている。一台ごとに高さの違うバックミラー。首をすくめてよける。

 先ほどからスロットルは全開だ。蚊の飛ぶ音を数百倍に増幅したような甲高いエグゾーストが唸っている。股間の下からすさまじい震動がビリビリ伝わってくる。エンジンが高回転で悲鳴をあげているのだ。生粋のモトクロッサーであるCRMはオフロード走行では無類の強さを発揮するが、お世辞にも高速道路向きではない。ハンドルが幅広すぎて、クルマの間を抜けるのも一苦労だ。

(このバイク、選択間違えたかな……)

 ブオン!

 背後、たった五、六メートルの距離で弾けた野太い排気音。バックミラーの中にはCB1300にまたがっているアントンの姿。大口をあけて笑っている。

(……追いつかれた)

 背筋に冷たいものが駆ける。スロットルを握る手に汗がにじむ。

「もう逃げられねえぞ、べルタっ」

 もっと速度をあげた。いま速度計は百二十キロを指している。バックミラーは振動で像がぼやける。どこからか飛んできた虫がベルタの頬に激突した。目にゴミが入った。涙がにじんでくる。

 一瞬だけ振り向く。ダメだ、アントンはたった十メートルの距離にいる。引き離せない!

 そのとき、道路脇にびっちり並んだ金網に気づいた。

(ここだ!) 

 クラッチを切って思いきりエンジンを吹かし、次の瞬間クラッチをつなぐ。同時にハンドルを力のかぎり引っ張りあげた。

 バイクをジャンプさせた。

 重さ百キロに満たないCRMは綿毛のように軽々と舞い、金網の上に着地。タイヤの中心線を金網に合わせる。全神経を指先に集中。ブレーキレバーに伝わってくる力を何百分の一グラムという単位で分析、タイヤの摩擦具合をチェック。バランスをうまくとった。

 そしてブレーキをかける。思い切りバイクの後輪が浮く。前輪が暴れだす。ベルタはシートから腰を浮かして、前のめりのバイクを制御した。前輪で金網を捕らえたまま、体を左右にひねる。

 体の動きに引きずられ、バイクがそのまま反転した。

 これまでと逆向きに、金網の上で着地する。

 こちらに向かって突進してくるアントンが見えた。眼を丸くしている。

 思い切りスロットルを開けて加速。

 金網の上を逆走開始。アントンのバイクとすれ違う。「くっそぉ!」と悪態が風に乗って聞こえてくる。前輪を持ち上げて加速、下り坂だから重力も味方する。たちまち百二十キロに達する。ここなら車を避ける必要もない。全力で走れる。

 青い海の輝きと、埠頭にずらり並んだコンテナが、たちまち後方に流れ去る。緑に囲まれた横浜スタジアム、中華街が見下ろせる。そのまた向こうにランドマークタワーが白く光っていた。

「このやろっ。このやろっ」

 後ろから排気音にまぎれてアントンの叫びが聞こえる。バックミラーをチェックすると、車列の間からアントンのバイクが見えた。すでに指先ほどに小さくなっている。

「フンガッ!」

 アントンも車体をジャンプさせ、金網に乗ろうとしている。CB1300の巨体が宙を舞う。しかし金網に載った次の瞬間、足元の金網が大きくたわんで、乗るのがやっとで波打つ。グラリグラリと車体が大きく揺れる。首都高の中へ転げ落ちる。ガシャンと破壊音。ベルタのCRMと比べ、CB1300の重さは三倍。重すぎるのだ。

 倒れた車体を起こし、アントンは普通に道路を逆走してくる。しかしクルマを避けるのに手間取って、あまり速度が出せないようだ。どんどん引き離してゆく。

「くっそおおお!」

 ドイツ語の罵倒が風に乗って届いた。すでに姿は見えない。

(よし、いまのうちに距離を稼ごう)

 ようやく一息ついて、これからのことを考え始めた。

(このまま東京まで走って……)

 あたりを見る。ランドマークタワーも通り過ぎ、いま首都高は川沿いを走っている。あたりの景色はいい気に下町めいたものになった。左手には幅十メートルしかないような狭い運河、そして運河沿いにはトタン屋根の建物がびっしり並んでいる。モーターボートや漁船がつなぎとめられている。ずっと前方に大きな川が見える。鶴見川だ。

 頭の中の地図と照合した。ここは子安のあたりだ。あと十キロで東京に入る。

 飛行機、新側から新幹線、どの方法で移動するのがいいか。頭をめぐらせる。

 ズガズガッ! 

 何かの破壊される音が背後で炸裂した。音はどんどん近づいてくる。

「オラッ!」

 アントンの絶叫。距離は後方二十メートル。

(また追いつかれた。一体どうやって?)

 振り向いて愕然とした。思わず口が半開きになる。

 アントンは削岩機のような勢いで車を蹴りながら走っていた。左右の車にブーツを叩きこんでいた。ベンツのドアが変形しカローラの窓ガラスはふっ飛びトレーラーの貨物室が打ちぬかれた。軽自動車にいたっては車体そのものが宙に浮く。

「どけってんだよ!」

 キックの威力におびえてか、車が左右に道をあけてゆく。渋滞の中に生み出された道をアントンのCB1300が駆けてくる。速度はおそらく百四十キロ以上。

「な、なんてことを……」

 驚愕のうめきをあげるベルタ。すでにアントンは十メートルほどの距離に迫り、さらに追いすがってくる。しかし自分のバイクはこれ以上加速できない。

 アントンがすばやく動いた。ジャンバーの前を開く。中はタックトップ一丁のようだ。脇の下に黒い塊を吊っているのが見えた。

(拳銃!)

 ベルタの心の中で警告の火花が散り、火花は一瞬で全身の筋肉繊維にまで浸透。考えるより先にバイクをジャンプさせた。ふわりと浮く車体。タン! 軽く甲高い、破裂音のような銃声。タイヤの真下を銃弾がかすめ通る。回避成功。だが一発ではなかった。連続した銃声。タタタ! タタタ! 拳銃ではない、サブマシンガンだ。戦術支援電子脳の能力を全開。アントンの運動能力にバイクの揺れまで加算して弾道を予測。即座に予測結果を全身の筋繊維にフィードバック。バイクを小刻みにジャンプさせる。一発目、二発目、回避成功。こめかみを銃弾がかすめ、ハンドルのグリップカバーをえぐってゆく。三発、四発、五発、回避成功。その間もずっと反撃の方法を考える。

リュックには拳銃が入っている。これで反撃するか。アントンにとって拳銃など投石程度にしか感じないだろう。だがバイクを狙って足を止める手もある。

 絶え間なくバイクを跳ねさせながら、手を素早く背中に回す。リュックに手を入れる。しかし遅かった。回避し切れなかった一発の銃弾が前輪を撃ち抜いた。タイヤがバーストする衝撃が伝わってくる。一気に車体が沈み込む。ハンドルが凄まじい力に振り回される。破裂したゴムタイヤは走る上でただの障害物でしかない。タイヤがすべる。もはや暴れている。とっさにブレーキレバーを握りこむ。速度を落とし、シートから腰を上げて体重移動、なんとか転落を防ごうとする。

 そこにまた銃声。タンクの下で金属音。とたんにエンジン音が止まる。バイクが急減速。エンジンを撃たれた。見るとシリンダーから真っ黒いオイルを噴いている。そこにまた銃弾。銃弾の嵐。車体のあちこちに被弾。何の回避もできない。もはや速度は四十キロ、空気の抜けたタイヤが強烈な抵抗を生み出し速度は見る見る落ちて、止まるほどだ。

「おらよっ!」

 蛮声ととともに、目の前にアントンの巨体が出現。視界の外でガン! と衝突音。バイクを捨てて生身で飛び移ってきた。次の瞬間、バイクごとアントンがベルタを受け止めた。そのまま片手で持ち上げられた。もう片方の腕が伸びてくる。

(やられる!)

 ベルタの脳内を恐怖と焦りが駆けた。このまま掴まれて格闘になったら万に一つも勝ち目がない。ウェートの差は圧倒的だ。では拳銃か。ダメだ、そもそも時間がない。抜くより向こうの動作が速い。

 だからベルタは身を投げた。全力でバイクを蹴って空中に飛び出した。

 落下感覚。体が回転。あたりが見えた。ちょうど川の上だった。大きな川。白いワイヤーで吊るされた橋が架かっている。川の幅は軽く二百メートル。多摩川だ。

 落下は一秒そこそこで終わった。盛大な水音を立てて川に飛びこむ。視界が真っ青な水で覆われる。上のほうに、ゆらゆらと太陽が揺れている。反射的に有機脳の演算リソース再配分を開始、視覚を減らして聴覚に振り向ける。波の音、船が進む音、橋脚を伝わってくる道路の振動。多摩川の水中を伝わる音が鮮やかに耳に飛び込んできた。

 ベルタ、両腕で水をかき、泳ぎだす。一かきで水面に飛び出した。クロールに切り替えて加速する。数トンの腕力で水の塊を押し出し強引に前に出る。速度は一秒間で五メートル、トップスイマーの軽く二倍。

 息継ぎで顔を上げるとき、あたりを見て方角を確認。右に川崎、野原が広がって草が青々と茂っていた。左は東京側、ボートが係留されている。目の前には中洲があって、そのまた向こうは川幅が広くなっていた。そちらが海だ。全力で水をかき、足をばたつかせた。水面を切り裂き、力強く進んだ。服がこれでよかったと痛感。丈の短いキュロットスカートでと半そでシャツだからこそ泳げる。

 ジャボン、水音が轟いた。ザバア、ザバア、水を力任せにひっかく音が続く。

 奴だ。アントンが追ってきた。聴覚を研ぎすます。だが水音は近づいてこない。ゴボゴボッとあぶくの弾ける音がするだけだ。

(やはり、アントンは泳げない!)

 ベルタは自分の顔に微笑が浮かぶのを感じた。やっと勝機が見えてきた。記憶どおりだったのだ。フェルトへルンハレでの訓練でも、アントンは水泳を苦手としていた。人間の身体は水よりわずかに軽く作られている。だが筋肉量の極端に多いアントンは水より重い。そもそも水に浮かないのだ。

「もがっ……もがあっ!」

 ゴボゴボという音に混じってアントンの叫びが聞こえてきた。なんとか水面まで上がってきたのだろう。筋肉の力に任せて、浮かない身体を強引に引きずり上げたのだ。理屈の上では可能。だが遅くなるはず。前進するための力を浮かせるために取られてしまう非効率。ヘリが飛行機より遅いのと同じ理屈だ。

「この……もがっ! もがっ……! クソがァァッ!」

 怒りと焦りにあふれた声。どんな盛大な水柱をあげているのがザブンザブンという音が重なる。どんどん遠ざかる。すでにベルタは数百メートルを泳いだ。中州の脇を通り過ぎる。右を向けば川崎の工場群、トタン屋根の建物と煙突が見える。左を向けば羽田空港、金網の向こうに滑走路が広がりボーイングの大型機が舞い降りている。

 あと少し、あと少しで外海に出られる。

 ここでアントンを振り切ったら、東京に行ってそこから長距離移動だ。

 希望に身をたぎらせて、腕を振り、水を掻き分けて進む。

「逃がさん!」

 声がいきなり近くなった。ゴボゴボ音はもう混ざっていない。

(なぜ?)

 クロール泳法を続けながら振り向くことはできない。背後から伝わってくる水音を分析。バシャバシという音は聞こえている。だが今までと音が違っている。腕が力まかせに水面を叩く音ではない。もっと規則正しい音。そう、まるでオールで船をこいでいるかのような。何か大きなものが水面をすべる音も聞こえた。

(ボート!)

 そうだ、アントンはボートを手に入れたのだ。向こうの岸まで泳いでいって手漕ぎボートを奪った。速度は水泳を確実に上回る。体が重くとも問題ない。

 たちまち距離を詰められた。ザブンザブンと舳先が水を切り裂く音が接近。もう五メートルほどしか離れていない。

 息継ぎの時に目玉だけ動かして後方を見た。水しぶきの向こうに白い手漕ぎボート。アントンはオモチャのように小さいボートに乗り、超高速でオールを振るっている。眼が合った。アントンは白い歯をむき出して笑っていた。勝利を確信した笑顔。

(ボートを破壊する!)

 ベルタは思いきり息を吸いこみ水中に潜った。再び視界が青い水で覆われる。頭上で揺らめく太陽から離れる。平泳ぎで潜ってゆく。首をめぐらす。ボートの船底が見えた。船底も白い。あたりを白い波が取り巻いている。

 船底に取り付いた。すでに道具はすべて手放した。素手でやるしかない。手を開いて船底に当てる。指を押しつける。筋力リミッターを解除。最大握力九百キロが指先一点に集中。木製にすぎない船底をぶち抜いてゆく。向こうまで指が突き通る。船底の木材をちぎり取った。腕が入るほどに穴が広がる。ボコリボコリと泡が噴いてくる。向こう側に水が流れ出す。一度、二度、三度、そのたびに掌ほどの面積の穴をあける。とどめに一発、穴に両腕を突っ込んで思いきり突っ張った。メリメリと木材の分解音。ボートが丸ごとまっぷたつになった。

 船を蹴って平泳ぎで離れる。すでに酸素量は切れる寸前、浮上して大きく深呼吸。肺の中に新鮮な空気が流れ込む。眼が覚めるほどの爽快感。クロールに切り替えてなおも泳ぐ。後方でドボンと水に飛びこむ音。アントンだ。まだあきらめていない。ベルタも泳ぎつづける。すでに東京湾に出ていた。見えるのは青い水平線と自分のたてる白いしぶきばかりだ。どこまでもどこまでも泳ぎつづける。アントンのたてる水しぶきが追ってくる。なかなか距離が離れない。

(なぜ? 泳ぎがずっと速くなっている)

 アントンのボートを破壊した光景を思い出す。確かに沈めた。だが粉々にはしなかった。残った木片を浮き袋にして泳いでいるのだ。

(誤算だった)

 必至に腕を振って泳ぎつづけながら、ベルタは己の判断を悔いていた。船を沈めるだけではだめだったのだ。

 しかしもはや手はない。武器はすべて捨ててしまった。ただスタミナだけの勝負。一秒でも長く、一掻きでも多く泳げるか、それだけ。

 だからベルタは無我夢中で泳いだ。あたりは海ばかりで方向転換の必要はない。ときおり太陽の位置を確認して方角を確かめ、あとは体にまかせて機械的に泳いだ。何万回、何十万回も腕を振るってクロール泳法を続ける。

 やがてアントンの水音が遠ざかってゆく。

(よかった……)


 2


 カエサルは潮風を浴びて目を細め、横浜ランドマークタワーを見上げていた。

 真夏の陽光を浴びて真っ白く輝くタワーが、青い空に向かってそびえている。いくぶん小ぶりなビル群周囲に従え、女王のような風格だ。

 携帯電話が鳴る。

「もしもし」

「オレだ」

 電話の向こうから、怒りを押し殺したような野太い声。

「ああ、アントンにいさん」

「……ベルタの奴には逃げられた」

 カエサルは不機嫌そうに、輝く金髪を指でかき混ぜる。

「やっぱり失敗か。アントン兄さん、バカすぎるよ」

「なんだと?」

「ボクが前から言っていた通りさ。正攻法を使うからダメなんだ」

「しかし……」

「不満かい?」

「できれば真っ向から勝負がしてぇな」

「そんなことを言ってるから兄さんはだめなのさ。ボクは賢いやり方でやらせてもらうよ」

 そう言って電話を切った。

 カエサルは隣を見る。肩の触れ合う距離に美少女がいた。チェックのプリーツスカートに白いブラウス、まるで学校の制服のようなものを着ていた。まず目につくのが、まぶしい夏の陽光を浴びて鮮やかに輝く金髪だ。長い黄金の髪が腰まで伸びて風に踊っている。うりざね型の顔は町を歩く誰もが足を止めるほどに美しい。切れ長で吊り目気味の眼はエメラルドグリーンだ。ランドマークタワーのすぐ横に係留されている一隻の帆船を、興味深そうに見つめていた。

「ドーラ、そっちはどう?」

 カエサルの問いに、少女ドーラは振り向く。挑戦的にほほえんで、

「準備完了ですわ」


 3


 編集部にて。

 コッチ、コッチ。

 机の上にある置時計の音がひどく大きく聞こえた。

 倉本祐樹は顔を伏せている。椅子に座って、拳を両膝の上に置いている。握った手の中にじっとり汗がにじんでいるのが自覚できた。冷房はキンキンに効いている。それでも冷や汗が止まらない。

 視線を少しだけ上げて、机の上をさまよわせる。机の上には紙コップに入ったアイスコーヒーがあるだけだ。祐樹に出されたコーヒーだが、全く手をつけていない。氷が溶けてすっかり小さくなってしまっている。

 パラリ、パラリ。

 テーブルの向かい側からそんな音がする。祐樹は音のたびに体をこわばらせる。紙をめくるパラリという音、頭を引っかくボリボリという音が連続した。だんだん頭のボリボリが増してゆく。

 やがて、二つの音が消えた。

「……倉本くん」

 テーブルの向かいから声がかけられた。

「はいっ」

 緊張で裏返った声を出して、顔を上げる。

 目の前には中年の男がいた。ワイシャツをだらしなく着崩している。ボサボサ頭で、目の下に病的なクマがある。しかし眼光は鋭い。

 編集者だ。

「読ませてもらった」

 そういって、彼は手にした紙の束をトントンとテーブルで叩いてそろえる。

 この紙の束は「ネーム」。マンガのコマ割と台詞を書いたものだ。

「……どうでした?」

 祐樹は問う。消え入るような小さな声になってしまった。

 編集者は、気難しそうにしていた表情を一変させ、柔らかく微笑んで大きくうなずいた。

「いいね」

「え……?」

 ネームを広げて、その中の一コマを指差す。

「とくにこの台詞がいい。荒削りだが、間違いなく魂がこもってる」

 祐樹は息を呑んでいた。彼がマンガの賞をとってデビューしたのはほんの最近のことだ。地方在住ということもあって、この編集者とじかに会うのはこれがたったの三回目である。それでも「この人はお世辞を言わない、むしろ厳しいほうだ」と分かっていた。

 そんな厳しい人が、ここまで褒めた。

 がまんしよう、みっともないと思ってはいるが、どうしても勝手に頬がゆるみ、鼻の下が伸びた。

「……おいおい、まだ喜ぶには早い。魂なんていくらこもってても、読者に伝わらなきゃ意味ないんだ。これと、これと、これ……このへんの台詞は悪い。あと、この構図も平板。せっかくアクションなんだから、もっと戦いを盛り上げないとダメ。映画とか見ないでしょ? ダメダメ」

 そうは言っても編集者の口元は緩んでいる。嬉しそうに目をキラキラさせている。

 祐樹は即座に、勢いよくうなずいた。

「がんばります。描き直します」

「どのくらいでできる?」

「明日にでも!」

「おいおい……いいの? 東京に泊まりじゃなくて、今日はもう帰るんだろ?」

「親戚が横浜にいるんでそこに泊まります。大丈夫、ネームなんて紙とペンがあればどこでも描けます。あ、いまちょっと描いて見せていいですか」

 祐樹は足元においてあった自分のカバンを持ち上げる。中からノートを出し、鉛筆を紙面に叩きつける。

「こう……こう……こんな感じで。どうですか、構図良くなりました?」

 編集者は苦笑する。

「いいね」

 祐樹はその後、いろいろ編集者と話し、充実感をたっぷり感じて、出版社を後にした。

 このネームが通れば、また読みきりを雑誌に載せることができる。

 連載も近い。

 鼻歌を歌いながら、本屋と喫茶店の並ぶ神田神保町の町を歩いてゆく。

 地下鉄の入り口はどこかな……あ、道路の反対側か。

 そのとき「ふらんす軒 カレー」という看板が目に入った。言われてみれば「スマトラ風カレー」「薬膳カレー」「元祖カレー」など、カレー屋の看板がやけに多い。

 きゅう、と腹がなった。

 なにか食べるか……

 と、そのとき、背後でブレーキ音。

 すぐそばだ。

 危険を感じて振り向く。

 一台の真っ黒いBMWが飛びこんでくる。ブレーキをかけて歩道に乗り上げて、たったいま止まった。祐樹の体までほんの四、五十センチ、轢いてしまう寸前で止まった。

「うわっ」

 祐樹は持っていたショルダーバッグを落として飛び退く。

 BMWのドアが勢いよく開け放たれる。中から女の子が飛び出してくる。スラリと背の高い、美しい少女だった。美貌が目に焼きついた。腰まで届く長い金髪をひるがえし、学校の制服にしか見えないチェックのプリーツスカートもあざやかに、美少女は勢いよく祐樹の腕をつかんだ。

 女の力とはとても思えない握力だ。祐樹の骨がきしむ。激痛に身をよじる。

「いでっ!」

 そのまま車内に引きずりこまれた。美少女の体の上に倒れこむ。

 目の前を真っ白いブラウスと、胸元の赤いリボンが埋め尽くす。ムニュリ。顔面に柔らかいものが触った。

(女の子の胸だ!)

「うわっ。うわっ」

 悲鳴をあげて体を起こす。女の子から離れようとする。

「えいっ」

 かわいらしく少女が声を発する。ドアノブをひねるような軽い仕草。それだけで手首がパキンと抜ける。腕の筋肉が高圧電流でも流されたように硬直。全身の汗腺から冷や汗を噴出してシートに尻もちをつく。

「逃げるのはダメですわよ」 

 美少女がにっこりと微笑む。 

 シートが震える。車は走り出した。

「ぼ、ぼくをどうするんですか。あなたはいったい、いでぇっ」

 また手首をねじられた。このまま腕をへし折られたらどうしよう。そう考えただけで全身に鳥肌が立った。

「おとなしくしていただけません?」 

 美少女は祐樹の肩に腕を回してきた。

 相手の吐息を感じられるほどの至近距離で、美少女は語りかけてくる。

「う……」

「……わかりました?」

「わ……わかった」

「たすかりますわ」

 美少女はつかんだままの祐樹の手首を軽くひねる。電流が流れたような鋭い痛み。パコッと音を立てて祐樹の手首がはまった。

 前の助手席から、少年が身を乗り出してくる。金髪の巻き毛で、こちらも目を見張るほど美しい。

「ドーラの言うことはよく聞いたほうがいいよ」

「あなたたちは……?」

「わたくしはドーラ」

 金髪少女は祐樹を見つめながら言う。

「ボクはカエサル」と少年。

「さて、ユウキさん」

「どうしてぼくのことを……」

 祐樹の質問をドーラがさえぎった。

「ベルタのことを話してください」

 その言葉を聴いた瞬間、背筋を悪寒が走った。

 そうだ。決まっている。ぼくを何者かの危険が襲うとしたら、それはきっとベルタさん関連だろうと。

「……何のことを言っているのかな」

 ドーラを見つめ返したまま、言う。

「あら、強情を張っても無駄ですのに」

「時間はたっぷりある。いろいろ話してもらうよ。考え直すには十分な時間さ」

 クルマは首都高に入った。ETCを使っているのか、窓を開けずにそのまま料金所を通過する。

 祐樹は考えた。

 どうすればいい? 拷問にかけられてベルタのことをきかれる。恐ろしい。

 もっと恐ろしいのが……自分が人質にされることだ。

「それにしても、どうやってベルタを誘い出す? どうやってベルタに伝える?」

「わたくしに考えがありますわ」

 すぐ隣に座るドーラが微笑を浮かべる。



 4


 ベルタはバスタオル一枚の姿で枝に腰掛け、空を見上げていた。

 パチパチという音の変化で、「もうそろそろかな?」と思った。

 数メートル離れた焚き火を見る。真っ赤に燃える火の上に、燃え移らないよう離れて枝が渡してある。枝には服がかけてある。火で乾かしているのだ。

 服を触った。もう濡れていない。

「よし」

 最作呟いて、枝から服を外す。シャツ、パンツ、キュロットスカート、靴下もだ。

 焚き火には土をかけて消す。

 周囲を確認、誰もいないことを確かめると、バスタオルを取った。

 あらわになった幼い裸身は、白い。

 顔かたちはあくまでアジア人のものなのに、肌はそれこそ白雪のよう。つま先、ほっそりした太もも、未発達な腰、片手の中にすっぽり収まるほどの小ぶりな乳房、全てが白い。人間ならばかならずあるはずのホクロ・アザ・シミの類が一切ない体だった。あまりに白すぎて右の乳房を横切る静脈が際立っていた。ツンと上を向いた乳首が鮮やかだった。

 裸身の上に、急いで服を身に着けてゆく。

 アントンを振り切ってから二時間が経過していた。あの後、結局ベルタは東京湾を南下し、三浦半島に上陸した。その後、森を見つけていままで服を乾かしていたのだ。

 服を身に着け終わると、リュックを持った。

 ずいぶん軽くなってしまっている。中に入っていたマンガ雑誌も携帯電話も地図も、水に濡れてもう使い物にならず、捨てるしかなかったからだ。いまのベルタが持っているのはこの体と服と、後はわずかな金銭だけだ。

 でも、よかった。ひとまず逃れることはできた。

(これからどうしよう?)

 まずは食べ物だ。そして交通手段。

 森から一歩踏み出す。海からの塩気を含んだ風が黒髪をかき混ぜて乱した。小刻みに左右を見張る。今ベルタは海を見下ろす森の中にいる。片側一車線の道路が目の前を伸びていた。曲がりくねって山を下って行く道。コンビニがある。大きな駐車場のあるセブンイレブンだ。口の中に唾がこみあげ、思い出したようにお腹がきゅうと鳴った。

 コンビニの店内に入った。空腹でますます鋭敏になったベルタの嗅覚が、店内の空気に反応する。レジ前のガラスケース内にはフライドポテトと焼き鳥とアップルパイが無造作に並べられている。熱されたリンゴのあまったるい香りは、まるで鼻先に突きつけられたかのように濃厚だ。アイスクリームコーナーからはアイスクリーム数百種の香りが渾然一帯となって立ちのぼっている。

 よだれが口の中に広がった。いくらでも糖分をとりたかった。 

 がまんして、アップルパイを二つだけつかんだ。

 サイフを出そうとして、レジ横の「災害対策コーナー」に気づいた。地図と水筒、海中電灯に……ラジオ。

「あ、そのラジオも下さい」

(今日はあの番組の日だ)

 買い物を終えたベルタ、コンビニをあとにする。山を小走りで進んでゆく。これから街に降りて現金と移動手段を盗む。慣れたものだ。今度はどこにしよう、いっそこの国から出ていったほうがいいかも知れない。

 そう思うと、なんだか切なくなった。

 コンビニ駐車場から見えるのは何の変哲もない田舎の風景だ。国道があって左右を森がはさんで、ガードレールがへこんで、歩道はイチョウ並木で、国道のずっと向こうにはガソリンスタンドとファミリーレストランの看板がのぞいている。

 そんなあたりまえの風景も、もう見られなくなる。ベルタは風景のすべてを目に焼き付けた。たった今目の前を通り過ぎた大がたトレーラーのデコレーション、電柱に張ってある色あせたデリバリーヘルスのポスター、こんなものもきっと懐かしく思い出すのだろうと思いながら。

(現在、十七時)

 頭の中で声が鳴り響いた。戦術支援電子脳が教えてくれたのだ。

(土曜日の午後五時。あの番組の時間だ)

 ラジオのスイッチを入れる。

 ザザッパリパリと雑音が流れ出してくる。ダイヤルをまわして周波数をチューニング。一二四二キロヘルツだ。

「ザッザザッ。……まゆりんと! 深山京太郎の! 『こっちの汁はあーまいぞ!』」

 若い男と女の声が聞こえてくる。軽快な音楽と女性ボーカルが聞こえてくる。

 あの少年、祐樹に教えてもらったラジオ番組だ。

 ふたりのパーソナリティが友達感覚で話しながら、甘いものにまつわる曲をかけてゆく。マンガを紹介する。こんな狭いジャンルのラジオ番組が成立するのだから日本はすごい国だと思った。

「きいて下さいよ京太郎。今日ね、朝ご飯にホットケーキ食べてたらね、ママが『ふとるよー』とか言ってさー」

「それはひどいなー、朝にホットケーキは栄養学的に正しいんだよ。日本のホットケーキはもともとパンケーキという料理で、オリジナルだって知ってた?」

「えー、あれってフランス料理でしょう?」

「フランス料理はパンケーキ。ホットケーキより薄くて、ぜんぜん別のものだよ。そうは言ってもマクドナルドのホットケーキなんかは、どうみてもパンケーキなみの薄さなんだけどねー」

 たわいもない会話。友達がいっしょに下校しながらいろいろ話すというのはきっとこんな感じだ。祐樹からこの番組を教えてもらったとき、なんと内容のない番組なのかと呆れた。しかしすぐに、このまったりした感じがいいのだと気づいた。

 ベルタはコンビニの壁に寄りかかり、目を閉じる。片耳からはラジオの放送、もう片耳からは風の音が流れこんでくる。こうしてラジオを聴くのも最後なのかと思うと、胸が締めつけられるような気持ちだった。(他の国に行ってもわたしはこんな感じの「小さな楽しさ」を、「日常のかけら」を見つけられるだろうか)

 やがてトークが一時中断、音楽が流れる。

「はい、ただいまの曲は」「まゆりんのデビュー曲です! タイトルはぷりんあらもーど!」「まゆりん、歌手デビューおめでとー!」ブッ、ザッ。

 ベルタは自分の耳を疑った。背筋に氷の冷たさが走る。

(いまのは何? ただの雑音じゃない!)

 目を開け、ラジオを耳に押し当てた。有機脳の演算リソースを聴覚に優先配分。耳を澄ます。この状態のベルタはオーケストラ演奏中に虫ピンの落ちた音を聞き取れる。

「でもさーまゆりん、タイトルがぷりんあらもーどってどうかと思うなーオレは」

 ザッ

「そーかなー」

 間違いなかった。

 いまの『ザッ』は、ドイツ語だ。数十倍の早回しで喋っているから人間にはわからないだろう。ベルタ向けに誰かがメッセージを混ぜているのだ。

 意味は……『ベルタに告ぐ』『倉本祐樹は預かった』

「な……」

 ベルタの唇からうめき声が漏れた。全身がわなわなと震えた。尻餅をついてしまう。

「ユウキさんが……いまさらになって!」

 立ち上がった。すでに小さな拳をかたく握りしめている。

 自分の無能が憎い。迂闊さが憎い。祐樹と一緒にデートしていたころはともかく、これだけ時間がたったのだからもう安全と思っていた。

「……続きは? 預かったからどうしろというのですか!?」

 思わず激昂してラジオを握りしめる。ラジオのケースがバキリと割れる。

「それじゃー、また来週!」

 ザッ

 また「早回し」が混じった。

 意味は「本日二十四時、青山墓地のど真ん中で待つ」。

「この番組は、あなたの心に潤いを 安永製菓の提供でお送りしました……」

 ベルタはラジオをにぎりしめたまま、うめいた。

「……本日二十四時、青山墓地……」

 もちろん、メッセージを番組に混ぜたのはアントンたち追っ手だろう。

 自分を誘い出して、捕らえるつもりだ。

 だがいくしかない。人質を取られていては。祐樹を殺されるのは絶対にイヤだ。

 祐樹とすごした短い、だが楽しかった日々の思い出が、脳裏でよみがえる。

(彼の幸せは壊させない!)

 

 5


 車の音も人の声もまったく聞こえない。深夜の青山墓地は闇の中に沈んでいた。

 街灯の冷たい光に照らされ、灰色の箱型墓石が並んでいた。数千とも数万とも知れない数だ。墓石を覆い隠すようにたくさんの樹木が植えられている。

 祐樹は墓地の中央にある大きな交差点に立っていた。

 左右をドーラとカエサルに挟まれている。

 体の節々が痛い。そして重い。疲労がある。

 そわそわとあたりを見回す。両手首をつないでいる鎖がジャラリと鳴った。

「なんですの?」

 ドーラがいぶかしげに尋ねてくる。彼女は祐樹と方が触れ合うほどの距離にいるから、顔もすぐそばだ。街灯の白く淡い光に照らされ、エメラルドグリーンの吊り目が祐樹を覗きこんでいる。恐ろしく美しく澄んだ、しかし冷たい瞳だった。

「……なんでもありません」

「空腹ですの?」

「いいえ」

 祐樹は首を振った。

 じっさい、腹は減っていない。不思議なことだ。昼に捕まってからもう十時間、なにも食事を与えられていないのに。興奮と緊張で感覚がおかしくなっているのだろうか。

「ドーラ、その子はね、ベルタねえさんが心配なのさ。『こないでベルタさん』ってね。目を見ればわかるさ。そうだろ?」

 ドーラと反対側から、カエサルの声が響く。ボーイソプラノというのか、男にしてはずいぶんと甲高い声だ。嘲笑の響きを帯びていた。

「……」

「そうなんですの?」

「ベルタねえさんは来るかな? ボク、ちょっと疑問なんだよね。やっぱり別の手を使ったほうがよかったんじゃない?」

「聞いた限りでは、ねえさまは他人の危機を見過ごせない性格。間違いなく来ますわ」

 そこでドーラは言葉を切り、祐樹の両肩に手を置く。真正面から見つめてくる。

「まあ、あなたがどの程度の絆をつくっていたか、によるのですが」

「……」

 目をそむける祐樹。ドーラが彼の足を踏んだ。炎を押し付けられたような激痛がはじける。

「ぐっ……」

 

「あまり調子にのらないほうがよろしくてよ。ご自分の立場は人質なのだと、まだお分かりになりません?」

 祐樹はあふれそうになる涙を押えこみ、うめいた。

「……ベルタさんは……こないよ。人質作戦なんかにひっかかるほど馬鹿じゃない」

「それならあなたが死ぬだけです」

「それにしてもさあ」

 カエサルがさも不思議そうに祐樹の体を眺めまわして、

「いったいベルタ姉さんはこんな奴のどこがいいのかなあ。弱そうで、臆病」

 ドーラがエメラルドグリーンの瞳に冷笑の光を宿して、

「それが逆にいいんじゃありませんこと?」

 二人は日本語でしゃべっていた。わざわざ祐樹にきかせているのだ。

「もしかして、母性本能を刺激されるってこと?」

「そういうことですわ。弱虫の男の子を世話して、『自分はこの人に必要とされてるんだ』って喜ぶ。人間にはありがちな心理ですわね」

「はは。いかにもできそこない。そんなの錯覚なのにね」

 知らず知らずのうちに祐樹はカエサルに向き直り、恐ろしいほど整った顔をにらみつけていた。

「ベルタさんの悪口をいうな」

 反射的に出てきた言葉だ。

「ははは……こいつはいい。うん、思ったよりこの二人は依存しあってるね。人質、きくかも」

「あ、にいさま。きましたわよ」

 ドーラが声をあげる。交差点から延びる道路のずっと先を指差す。確かにそこに光の点があった。だんだん大きくなってゆく。点は小さく、一つしかない。オートバイのヘッドライトだろうか。

「まちがいありませんわ。あれはベルタねえさまです」

 ドーラが小さくうなずく。彼女の視力は闇と距離を無視できるらしい。

 カエサルは眉根を寄せて首をかしげる。

「なんでコートなんか着てるんだろう?」

 祐樹は、近づいてくるヘッドライトに叫んだ。

「来ちゃダメだ! ベルタさん!」


 6


 ベルタは原付スクーターを駆り、青山墓地までやってきた。着こんだロングコートを風にはためかせている。

 戦術支援電子脳は、いまの時刻が二十三時時四十分だと教えてくれる。

 まだ時間はあるはずだ。それなのに気があせって仕方ない。

 いま目の前の信号が赤になった。

 舌打ちして、信号無視して突っ切る。

 無事でいてくれ、祐樹さん。

 青山墓地の中は外界とは全く異質の空間だ。

 音がなく、光もわずかだ。まったく同じ形をした墓石が何千となく並んでいる。

 ヘッドライトに照らされた先を見る。

 いた。

 大きな通りが交差する、墓地の中心。

 街灯と信号機に囲まれた場所に、三人の人間が立っている。

 百メートル離れても彼らが何者なのかわかった。

 金髪で、きっちりとしたスーツ姿の少年。カエサル。

 ゆるやかなウェーブのかかった金髪の少女。

 間にはさまれて立っているのは、祐樹だ。間違いない。

(……少女のほうは誰なんだろう?)

(いっしょにいるということはエインヘリヤルだろうか。新型か?)

 と、前方から声が投げつけられた。

「来ちゃダメだ! ベルタさん!」

 祐樹が叫んでいた。

 ほぼ同時にカエサルがベルタに向けて片手を差し上げ、

「止まってくれ!」

 急ブレーキをかける。

 スクーターを止めて、降りる。

 全身の筋肉は緊張させたままだ。次の瞬間にでも飛びかかれる。

 しかし、まだ遠い。五十メートル離れている。この距離を走るにはベルタでも二秒はかかる。カエサルのレーザー『グングニル』で黒焦げにされるだろう。

「祐樹さんを帰してください!」

「ダメだね! まず背中のリュックを下ろして」

 カエサルの指示に従い、リュックを下ろす。武装解除が目的だろう。

 その間もベルタはずっと考えていた。

(駆け寄るだけの時間を稼ぐにはどうする?)

(二秒。たった二秒だけ、二人の注意をそらせれば)

「上着を脱いで、両手を挙げたまま、こちらに歩いてきて!」

 カエサルはベルタの思惑を知ってか知らずか、次の命令を出してくる。

 ベルタの視力は五十メートル離れた彼の表情を克明にとらえていた。

 嬉しそうだ。美の神に祝福されたかのように端正な顔立ちが、嘲笑にゆがんでいる。

 と、次の瞬間ベルタは地面に下ろしたリュックサックを高く蹴りあげる。リュックは弾丸の勢いでカエサルたちに向かって飛ぶ。カエサルのレーザー『グングニル』が一閃した。彼の右手からほとばしった白い光条が一瞬にして数十メートルの空間を突っ切ってリュックを直撃。リュックは爆発する。布とプラスチックの小片を撒き散らし、真っ白い蒸気の塊が膨れあがる。

 リュックの中にはペットボトル入りのコーラがたっぷり詰めこまれていた。レーザーを受けて爆発したのだ。

 白い蒸気が視界を覆いつくす。その向こうからカエサルの叫びが聞こえてくる。

「なに!?」

(いまだ!)

 ベルタ、コートを脱ぎ捨てる。駆け出す。

 露になったベルタの体は、全裸!

 いや全裸ではない。あまりに白く、あまりに輝いていた。躍動する脚も、未成熟な二つの乳房と腰も、服のかわりにキラキラと輝く何物かで覆われていた。光の小片が街灯の光を反射して輝いていた。まるでウロコのように。

 白い蒸気の中をベルタは駆けた。前方からレーザーが襲い掛かってくる。光の棒が脚に、胸に当たった。しかし熱いだけだ。蒸気のおかげで拡散している。

(うまくいった。対レーザー防御、その一!)

 蒸気はすぐに晴れた。ベルタはすでに距離二十メートルまで接近している。カエサルが額にシワを寄せ、冷たい殺意をこめてこちらをにらみつけていた。右手が白く爆発、またレーザーが叩きつけられた。レーザーはベルタの胸に命中、裸身を覆う銀色のウロコがまばゆく輝いて反射した。

 小さな乳房に、焼きごてを押し付けられたような痛み。だがそれだけ。貫通されない。

「鏡!?」

 今度こそカエサルが驚愕のうめきをあげた。ベルタはレーザーに対抗するため、クルマのバックミラーをたくさん割って体に貼り付けていたのだ。

(対レーザー防御、その二!)

 その間にもベルタは前傾姿勢で走る。アスファルトを蹴る。時速百キロで突進を続行、両腕を上げて顔面をブロック。その瞬間、まさに腕にレーザーが直撃。重ねた腕の隙間から眼もくらむ激しい光が漏れてくる。溶けた鏡が腕に食い込んで痛い。

(痛い! でも、もうカエサルたちは目の前のはず!)

 ベルタ、大きく地面を蹴って跳躍。

 顔面をブロックしていた腕を解く。目を見張り、緊迫した表情を浮かべていたカエサルに飛びかかる。顔面に飛び膝蹴りを叩きこむ。ぐしゃりと鼻の潰れる感触が膝に伝わってくる。

 そのまま衝撃でカエサルを蹴り倒し、着地。

 すぐそばにいる祐樹とドーラのほうに向き直り、

 次の瞬間ベルタが見たのは、プリーツスカートを翻し電光のようなハイキックを放つドーラ。

 思考よりも、戦慄よりも早く体が動いていた。全身の筋肉を総動員してのけぞる。

 ごうっ! 大気をつんざいてドーラの脚が振り上げられ、ベルタの額すれすれ、わずか数ミリの距離をかすめる。空気の塊が頭蓋骨を叩いた。鋭利な刃物を突きたてられたような痛み。額が切れて血が噴き出す。

(かすっただけでこんな!)

 ベルタの背筋を冷たい恐怖が走る。のけぞった勢いのまま一歩下がった。

 その隙にドーラは脚を下ろし、祐樹を横抱きにして走り去ってゆく。

「ま、まちなさいっ」

 後を追った。

 ドーラは人間一人を横抱きにしていることをまるで感じさせない動きで走る。軽々と跳躍して墓石の上に飛び乗った。

 ベルタもその墓石に向かって跳ぶ。鏡の小片で覆われた腕を広げ、つかみかかる。しかしベルタが跳んだとき、ドーラも隣の石へと跳ぶ。追ってベルタが跳ぶ。ドーラがスカートをフワリと広げ金髪を波打たせ、跳んで逃げる。余裕のある軽やかな動きだが、必死のベルタよりワンテンポ早い。

 「ぎゃあ!」

 男の子の悲鳴。ドーラが抱えている祐樹だろう。

 悲鳴を聞いてベルタの血が凍りついた。怒りが体を突き動かした。今度は思いきり墓石を蹴って、矢のように空中を突進した。それでもドーラは幻のように消える。ほんのコンマ一秒早く、後ろ姿はその場所を去っている。

 腕を伸ばすがつかめない。手は空中をむなしくつかむだけ。たった三十センチ四方しかない墓石の上でバランスを崩しそうになって歯噛みする。

 それを二、三十回ばかり繰り返しただろうか。

(どうして?)

 ベルタは焦りと当惑を覚えていた。

 ドーラは少年一人を抱えている。重いし、うまくバランスを取れないはず。

(それなのにわたしより早いなんて!)

 またしても捕らえられなかった。体重がないかのように軽やかに跳んで、ドーラが墓石の上に脚をそろえて着地、くるりと振り向いた。

 大人びたフランス人形のような顔に、微笑を浮かべている。

 ベルタは膝が笑うのを感じていた。体内の酸素残量も底を突きかけている。すでに体力の限界だ。それなのにドーラは余裕たっぷりといった感じだ。息も荒くしていない。

「な、なぜ……?」

「わたくしは最強のエインヘリヤルなんですのよ。過去三体の運用データから作られた決定版……ねえさまのような無能とは出来が違うのです」

 ベルタは気づいた。ドーラの表情はただの笑みではない。嘲笑だ。声にも疲れの色がない。彼女にとっては遊びでしかないのだ。

 彼女の腕の中の祐樹を見た。

 ぐったりしている。表情がたるんで、白目をむいている。激しい動きで気絶してるようだった。

「もっと楽しめるかと思ったのに」

 ドーラはクスクスと笑う。腕に力をこめたのか、祐樹が目を開く。表情が苦悶の形に引きつる。ドーラが力を入れれば人間の首など簡単に折れる。

 瞬間、ベルタの胸中を怒りと、焦りと、屈辱が交錯した。汗ばんだ手を握り締めた。

(……どうすれば。はっ!)

 視界をさえぎり、隙を作ってやれば接近できるはずだ。

 ベルタは頭上を仰ぐ。上は木々が枝をめぐらしている。緑の葉が広がっている。

「ハーッ!」

 『ギャラルホルン』を起動、指向性をゼロにして最大出力でぶっ放す。ベルタの口から放出された超音波が頭上にぶちまけられ、周囲数十メートルに広がり、枝を激震させ、葉という葉をことごとく引きちぎる。

 緑の大瀑布が頭上から押し寄せ、ベルタとドーラを押し包む。

「……ちっ」

 葉の乱舞する向こうからドーラの舌打ちが聞こえてくる。

 視界がさえぎられた機会を逃さず、ベルタは跳躍。空中を突進して緑のカーテンに飛びこむ。さきほどドーラがやったように、キックを放つ!

 風圧で葉が押しのけられて飛んでゆく。緑の中にトンネルができる。トンネルを抜けた向こうにはドーラがいた。すでに距離は数十センチしかない。

 ドーラは祐樹を高く抱き上げている!

(……!)

 ベルタは気づいた。血が凍った。頭の中でゴウ、と血の気の引く音がした。

 祐樹を盾にされた!

 脚の軌道上に祐樹の頭が!

 渾身の意志力で、ベルタは脚の軌道を変えた。極小時間ではわずかにずらすのがやっとだった。岩をも砕くキックが祐樹の頭ではなく、手錠で繋がれた両手に突き刺さった。

 ぶじゃっ。水でたっぷり濡れた雑巾を、思い切り踏んづけたような感触。

 ベルタは着地した。祐樹の体も地面に転がった。墓石の周りにある土の部分にどさりと投げ出される。すぐそばにドーラが音もなく着地。

 ベルタは祐樹の手を見た。見たくなかった。だが眼が吸い寄せられた。

 彼の手はなくなっていた。圧倒的な力で粉砕され、指の骨と肉がなくなっていた。掌だった部分だけが残っていた。薄紅色で、ところどころから白い骨がのぞき、カリフラワー状に広がっていた。フェルトヘルンハレの訓練施設でこんな写真を見せられたのを思い出した。そう、地雷を踏んだら手足がこうなるのだ。

「あ……」

 ベルタの唇からうめきが漏れた。膝がガクンと折れた。体の震えが止まらなかった。

 祐樹は真っ青で、ちぎれてしまった手を顔の辺りにまで持ち上げ、目を大きく見開いている。

「てが……てが……ぼくのてが……ぼくの……あえっ……あひっ……」

 目の焦点が合っていない。両眼から涙があふれている。激痛のためか。

 それとも、もうマンガを描けなくなったからか。

「くすくす……うふふふふっ」

 明るい笑い声が聞こえてきた。鈴の転がるような可憐な声。そちらに目を向ける。ドーラが笑っていた。プリーツスカートの腰に手をあてて、さもおかしそうに笑っていた。

「うふふふふっ……あなたがやったんですのよ、それ」

「え……」

 絶句するベルタ。ベルタはドーラの勝ち誇る顔と、ちぎれてしまった祐樹の手を交互に見る。

「あなたが、ユウキくんを守って助けるはずのあなたが、やってしまったんですのよ」

 表情を引き締め、まったくの無感情にして、細い指でベルタを指差す。

「平和な暮らしがしたかった? 戦いがイヤだった? 嘘ばっかり。友達をメチャクチャにしたくせに。この無能。このできそこない」

 ベルタの中で感情が爆発した。怒りと悔しさが渾然一体となった荒れ狂う想いだ。

「うわあああ!」

 裏返った声でわめき、無我夢中でドーラにつかみかかった。

 繰り出した拳は空を切った。腕をつかまれた。体が浮いた。重力感覚消失。世界が回転する。並ぶ数千の墓石が、空を覆う樹木がぐるんと上下逆転する。

 投げられた、と気づいたときには背中から地面に叩きつけられていた。起き上がろうとする。しかしすぐにドーラの脚がひらめく。地面すれすれを薙ぎ払うようなキックで、ベルタの首を刈る。

「げはっ!」

 呻いて、エビのように体をのけぞらせる。裸身を包んでいた鏡の破片が飛び散った。ついでドーラはベルタの体にキックを見舞う。連続して肩に、膝に、そのたびにバキン、パキャッ、乾いた木が折れるような音。膝の皿が割れ、肩が外れた。激痛にベルタは体を痙攣させる。手足を震わせる以外なにもできない。心の中は恐怖でいっぱいだった。圧倒的な強さへの恐怖。そして、自分がやってしまったことへの恐怖。

「おやすみなさい、できそこないの、ベルタねえさま」

 ドーラは無表情を崩し、朗らかに微笑んで、ベルタの頭を勢いよく蹴飛ばした。

 意識が闇に落ちた。

 

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