12.8月25日、晴れ(お題:黒尽くめの小説トレーニング 必須要素:チューペット)
秋山先輩が、またヘンなことをやりはじめた。
太宰の気持ちを知りたいと玉川上水から飛び込んで警察沙汰になったのはつい先月のことで、取調室でたっぷりこってり絞られてだいぶ懲りたかと思っていたのに、喉元すぎればなんとやら、その日鼻息も荒く私に見せてきたのは、一面真っ黒に塗りつぶされたノートブックであった。
「つまりは逆転の発想だよ今泉くん。白い原稿に黒い文字を書く。そんな常識を無批判に受け入れているうちは、非凡な文章を書くことなどできない。そこでこのノートだ。あらかじめ黒く塗りつぶし、そこに白い修正液でもって文字を書く。この逆転でもって、慣れによって怠惰になった脳を刺戟し、創造力の飛躍を得るのだ。どうだ面白いだろう! 面白いと言え」
秋山先輩はひとりではしゃいだあと、狭い部室をあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしながら、「よしよし、降りてきそうだ」「ああ! そうだ! こういうのが書きたかったんだ!」などと騒いでいる。異様に細長い顔と体が、きょうはしきりによく動く。死際の虫みたいだ。
「今度こそきみをアッと言わせるような作品をかいてやるからな。覚悟したまえよ」
「はいはい」
珍しく上機嫌なので、わざわざ塗りつぶさなくても文房具屋に行けば黒い紙のノートがあることや、パソコンを使う作家には、目の負担が少ないとして黒字に白の画面で書く人も多いことは黙っておくことにする。武士の情けというやつだ。
「ああそうだ先輩」
わたしは代わりにそう呼びかけて、部室の隅にある冷蔵庫を指さした。
「アイス買ってきたので、ちょっととってください」
「君が自分でとればいいだろう。僕はいま話の筋を考えるのに忙しいんだ」
「どうせきょうも出て来やしませんって」
鼻で笑うと、先輩はいたく傷ついた顔をした。それを無視して、わたしは「ほら、早く」と顎を冷蔵庫に向かってしゃくる。
「は・や・く」
「んぬう……」
先輩はひとくさり唸って、それからなにやら口のなかでもごもご言い、それでも結局、言う通りに冷蔵庫を開ける。なんだかんだで、唯一の部員であるわたし(もうひとりいるにはいるが、数合わせの幽霊部員である)のご機嫌は損なえないという寸法である。取り出したアイスを仏頂面で投げ渡してくるのは、それでも年配としての矜持を捨てきれないからか。その中途半端さな先輩風がまた面白いのだ。
「まったく先輩を顎で使うとは。そもそも君の方が冷蔵庫に近いじゃないか」
「立ってる者は親でも使えって言葉、聞いたことないですか?」
言いながらわたしは、白い冷気をただよわせるチューペットを真ん中からぽきんと折り、先輩へと差し出す。
「ん」
「……なんのつもりだい」
「なんのつもりって、そりゃ。先輩と食べるために待ってたんですよ」
そういうと、彼の表情はまた面白いように変化した。
咳払いが増え、顔が耳まで赤く染まる。
「な、なんだ君はまったくもう、しようのないやつだな。そうならそうと最初から言えばいいのに素直でないのだからまったく。まあ僕もアイスは嫌いではないからね」
ちょろいなあ。
「ところで今泉君。君のほうの小説はどうなんだい」
「ああ、順調ですよ」
わたしは笑う。
ノートには、先輩の観察日記をしたためながら。
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