桂月吊るし

@maetoki

第1話 十日目の菊

 地球が蒼い生命の星と呼ばれたのも昔の話。愚かな人類は《自分達よりも遥かに賢い知性体》と《自分達よりも遥かに強靭な生命体》を生み出したことで役割を終え、とうの昔に滅び去っている。その代償に多くのものが地球から失われたが……いいや、きっと大丈夫。きっといまに知性体と生命体は手を取り合い、地球は再び豊かな大地を取り戻すだろう。

 それがいつになるかは、わたしにもわからないけれど。


  *


 巨大なスポンジケーキにも似た火山灰が地球の夜空を覆っていた。数十年前、世界中の火山という火山が互いに呼応し合うかのように噴火しまくり、あっという間に不毛の大地に変わってしまったのだ。あれから幾星霜と経ったが空はいまだに晴れない。最初に植物が枯れ、次に植物の葉を食う虫が死に、虫を餌とする小動物が絶える。食物連鎖のくびきの中、ついには大型の肉食動物も滅んでいった。

 地球という惑星はもはや息絶えたかのように見える。かつて栄華を極めたはずの人間は足跡すらも残っていない。絶滅の瞬間、多くの生物を道連れにして星ごと滅んでしまった。

 日光を遮る火山灰も手伝って地球全土は寒冷期に突入しており、禿げた荒野を恥じるように雪が積もっている。見渡す限り一面の雪原に動くのは気まぐれな風の乱れに乗せられた綿雪ぐらいなもの。気の長い者が観測していれば、石の間を這うローチと、所在なさげに空を漂うカラスぐらいは見つけられるかもしれない。そしてあるいはからっぽの家を守るメイドロボや、ひっそりと隠れて暮らす妖狐の一群を見つけることもあるだろう。

 もっとも彼らの生活圏は離れており、何かしら有益な接触は確認できそうもない。せいぜい妖狐はローチばっかり食べててひもじそうだな、メイドロボは家に篭ってばかりだな、という感想が浮かぶぐらいであろう。両者が出会った痕跡はない。仮にあったとしても、長い歳月の果てに洗い流されていた。次なる地球の支配者となる権利を持ったまま、彼女らはそのことに気付かず暮らしていた。


 ところで物事に例外は付きものである。


 やわらかい雪道を一台のサイドカー付大型バイクが快調に飛ばしていた。バイクを運転しているのはロングスカートのメイド服を着た金髪の妖狐。生後十数年で成長が止まる妖狐の年齢は外見では判断がつかない。しかもフルフェイスのヘルメットで顔を隠していた。ヘルメットには手作業で入れられた切れ込みがあり、そこからもふもふした狐の耳がぴょこんと飛び出している。人型の狐、物の怪、妖怪変化……かつては色々呼ばれていたが、要は至って普通の不老不死者である。

 サイドカーに乗ったまま不動の姿勢でいるのは黒いメイドロボ。そもそも成長しようがないメイドロボの経過年数は外見では判断しようがない。ただこの機体はかつて大量生産されていたサイドマレット社の暫七世代型自律式文化女中機であり、少なくとも千年近くは稼働し続けているはずだった。すらりと伸びた肢体の中には血管代わりにコードが伸びて、体表はプロセッサの思考状況を示すアクセスランプがライン状に走っている。いまは安定稼働を現す白色が緩やかなグラデーションをかけて発光していた。

 二人連れは西に向かい直進している。変わらぬ景色にやや暇そうにしていた妖狐が隣に呼びかけた。

「菊、マジカルバナナしよう。バナナといったら▲2六歩」

『受けて立ちましょう。▲2六歩といったら△8四歩』

「△8四歩といったら▲7六歩」

『▲7六歩といったら△8五歩』

「△8五歩といったら▲5三飛成」

『待ってください、反則手です。いつ飛車が動いたんですか』

「いいんだよマジカルバナナなんだから」

 メイドロボは首を動かし狐のほうを見る。

『そもそも初手からしておかしいんですよ。バナナと2六歩は繋がりませんよね』

「わたしバナナ見たことないしー」

『私のおちゃめ指数が七十だったから見逃してあげたんです。いいでしょう、おちゃめ指数を三十に再設定します』

「そりゃすごい。どうなるんだ」

『冗談が通じなくなります』

 菊と呼びかけられたメイドロボは足元からデジタルカメラを取り出す。データ交換用のマイクロUSBポートのカバーを外すと、自身の汎用データ通信ケーブルを取り付けて半ば力業でデジタルデータをディスプレイに現像させた。撮れたて新鮮のバナナ画像を掲げて隣に見せる。

『はい、これがバナナです』

「どれどれ……わっ」

 運転手が脇見した瞬間、バイクが岩にぶつかり車体がぐらつく。運転シートの狐のお尻が浮いた。

『危険運転! ちゃんと前見てください』

「そっちがさせたんだろうが」

 妖狐は咄嗟にハンドルを操作しなんとかバランスを取り戻す。猛スピードのまま転倒したところでこの二人組にとって致命傷にはならないが、痛いことには変わりない。特に痛みを感じるのは妖狐だけだし、できることなら不公平は避けたいところだった。

 と、菊は続けてまったく悪びれもせず告げる。

『ともかく停まってください。カメラを落としてしまいました』

「はいはい……」

『まったく不遜なメイドさんですね』

「そっくりそのまま返すよ」

 唇を尖らせながら妖狐はブレーキをかけた。余力で数百メートル進んでからゆるゆると停まり、停車を確認してからメイドロボがサイドカーを降りてきた。

 改めて大地に立つとメイドロボはそこそこ大型だった。全身が黒くなっているせいで威圧感もある。文化女中機メイドロボのボディはオフホワイトかダークグレーの二色を選べる仕様が標準であったが、彼女は煤焦げた黒色をしていた。マスクを被ったような頭部には蛍光灯よろしく一筋のカメラアイが点灯し、アンテナがくの字に折れつつ二本後ろに向かって伸びている。ケーブルとモーターが複雑に絡まった脚部を器用に動かしては、落としたデジカメに向かってじりじり歩を進める。

 焦れったくなったのか妖狐がひょいとバイクを降りると、ぱたぱたとエプロンドレスを翻して先にデジカメを回収してしまった。

「ほら、取ってやったぞ」

『ありがとうございます、クリス』

「まったく歩くのが下手くそだな」

『ギギ……私ハマダ、コノ星ノ重力ニ慣レテイナイ……』

「筋トレしろ」

『嫌いなんですよね筋肉痛』

 クリスこと妖狐はデジカメを返さなかった。そのまま首からぶら下げて足早にバイクにまたがり、

「置いてくぞぉ」

『……本気出したら音速で飛べますよ私?』

「またまたー。菊みたいな鉄クズが飛べるもんか」

『肉クズよりは飛ぶようにできてるんですけど』

 クリスは気が早くアクセルを吹かしている。言葉とは裏腹に菊が乗り込むのを待っているのだ。菊はサイドカーの扉を開けてゆっくりと身を滑り込ませる。自分ならドアごと跳び越えるのになあとクリスは思うが、構造上、菊は脚を腰以上に上げられないのである。

「さて、それじゃ行くとするか」

 暖機させたエンジンを解放すべくクラッチを踏み込もうとした、そのとき。突然バイクの接地面が爆ぜた。身軽なクリスは悲鳴を叫ぶ間もなく、衝撃で宙に跳ね上げられた。

 腰掛けようとした菊の眼の前をクリスの身体が舞う。先程のよろよろ歩行が嘘のように菊の反応は素早かった。背面のPKU251-緊急離脱推進スラスターを展開。バックファイアが背もたれを突き破るのも構わず着火し、横に吹き飛ぶクリスの身体を追う。空中でクリスを捕まえると、再度バーニアの噴射角を調整。滑空しながらバイクとの距離を開け、さらに後退する。直後、バイクが爆発炎上した。

「おまえほんとに飛べるのか、最初からやれよ。……いてっ」

 クリスは恨み言を呟きながら菊に抱かれた右腕を押さえる。黒いメイド服に血が滲んでいた。両腕の出力調整が咄嗟にはうまくいかず、抱き締めた拍子に腕を折られたらしい。妙な方向に曲がった挙句に骨が砕けていた。クリスは苦悶の汗を浮かべている。

 発汗量とぬるりとした赤い血。異常に気付いた菊がヘルメットを外してあげる。ショートカットの金髪がはらりと頬にかかる。整った可憐な顔が苦痛に満ちていた。

『すみません、強すぎたようです』

「大丈夫、すぐ治る。それより何がどうした」

『何もしてないのにバイクが壊れました』

「機械音痴はすぐそういうんだ。ちぃ、足をやられた……」

『腕ですよ?』

 痛みでアホになっちゃったのかな、と菊は再びアームに力を込めた。骨折した二の腕をさらにずきりとした激痛が襲う。

「いだああああああああぁぁぁぁ」

『大丈夫、すぐ治ります』

 クリスが正気を保っているのなら一安心だ。菊はその場に着地し、頭部のアンテナを起こす。もうもうと煙を上げるバイクの向かいに人為的な電波の照射が感ぜられた。

『そこの者。出てきなさい』

『……困るんだよな。ここら一帯は私の敷地。君はその中でメイド行為をした。万死に値する。つまり、一万回死ね』

 尖った雪の結晶にも似た冷たい音。クリスははじめ、それが《声》だとは思えなかった。

 困るんだよな、と再びぼやきながら敵対者が姿を現す。灰色がかった白い躯体は雪に紛れて見えづらい。彼女もまたメイドロボだった。形こそ菊に瓜二つだが、物騒な装備の分だけ邪悪に見える。背面のブースター―よく観察すると菊のスラスターとは微妙に形状が違う―で浮遊しながら、腰に据えた熱源感知式エクステンド=ボム・ランチャーの砲塔を菊達に向けて威嚇している。

『そっちのきつねさんはこちらで預かる。親愛なる同型機よ、大人しく破壊されてくれると困らない。……なに、きつねさんはちょっと痛いけれど平気さ。すぐ治るんだろ』

「おまえらわたしを何だと思ってるんだ」

 抗議を無視し警告なく敵性メイドロボは砲撃する。今度はクリスのかわいらしい金の狐耳を掴むと、大急ぎで後退する。菊達のいた場所へ正確にミサイルが着弾した。

 ロケット弾を必死にかわしながら菊は体を入れ替える。さり気なくクリスを爆風から守りつつ見得を切る。

『……ここまでされては黙ってはいられません。サイドマレットシリーズ・暫七世代自律式文化女中機、思考様式・施設専従型。資産番号二二○七-三六七。個体識別名|十日菊《クロスポイズン 》、迎撃行動に入ります』

『妙な名乗りをするやつだな。《負刃ネガティブエッジ 》だ』

 名前だけ明かすと負刃は手にした重火器で追撃に入る。菊は逃げ続け、ついにはさっきバイクがぶつかりかけた岩陰に身を隠した。負刃のセンサーにとってはきっと意味がないだろうが、それでも弾が切れたらしく一瞬だけ嵐が止む。

 立て続けに起きた爆発でクリスは耳がじんじんしていた。狐耳を伏せて叫ぶように尋ねる。しっぽが逆立っていた。

「いったい何なんだ。メイドロボに攻撃されるなんて初めてだぞ」

『私も初体験です。どきどき。いままで運がよかったんでしょうね』

「菊、戦えるか? わたしじゃ歯が立たん」

 菊は無言で自身の全武装をアンロックした。……左マニピュレーターに内蔵されたパルスライフル。腹部に搭載された自爆用エクステンド=ボム。脚部に無理矢理くくりつけていた骨董品の電動チェーンソー。ただし先頭から順番に弾切れ、不発弾、電池切れの有様である。

 クリスは試しに首を横に振ってみた。菊も真似した。

「せめて白旗とかさ」

『白い物がないんですよね。クリス、ぱんつ脱げます?』

「お断りだ」

『ああ黄ばんでましたね』

「まだ漏らしてない」

 万事休すか。そこへ三度ミサイルが放たれた。岩はもろくも爆破され、身を縮こまらせていた菊とクリスが露わになる。

『どうした同型機。きつねさんを庇うのに精一杯か』

『挑発したいようですが無駄ですよ。実は、戦いようがありません』

『そう。いいことを聞いた。さよならだ』

 ランチャーを構え直すと、負刃はメモリ内部でコードを走らせる。いわば引き金に手をかけた。IF構文に遷移しようとしたとき、慌ててクリスがメイドロボの前に躍り出た。

「待った! 待っただ、負刃。ここはわたしに免じて少しだけ待って欲しい」

『……』

「許してくれとはいわない、ただ一回だけチャンスをくれないか」

『きつねさん、そこをどいてはくれまいか』

「わたしは待ったといっている」

『……かわいいきつねさんにいわれては仕方ない』

 渋々だが、どこか嬉しそうに負刃はブースターの出力を弱めた。基本的にメイドロボは人間に従いたがっているのである。そこへ来て妖狐の見た目は人間そのものだ。

 敵はゆっくり降下して改めてクリスと対峙する。砲身はぴたりと菊に向けたままだ。

『ひとまず待とう。さて、私に何をさせる気だ』

「メイドロボは将棋が好きだと聞いてる。だから将棋だ! 将棋で決着をつけよう!」

『……ふーむ』

 負刃はしばし考え込む。

『ちなみにきつねさん。私が勝ってもきつねさんに危害を加えるつもりはないぞ。私はあくまで、そこの不届きなメイドロボを破壊したいだけだ』

「……そうなの?」

『将棋の提案というのもわるくはない。しかし事態は急を要する』

「そういわれるとなぁ」

 きょとんとしたままクリスは二体のメイドロボを見比べる。黒と白、交互だ。

「うーん」

 散々迷ってクリスは結論を導いた。

「菊ー、短い旅だったけど楽しかったぞ」

『裏切り者っ』

 菊が叫ぶと、目ざとく負刃が菊の胸元に砲身を突き付ける。

『こら、きつねさんを悪くいうんじゃあない。こんなにもかわいいだろう』

『たしかにかわいらしい格好してますけど、この子男の子ですよ』

『ますます放っておけない。すわっ』

 負刃は銃のセーフティを解除し、菊の腹にぴたりと突き付けた。引き金を引けば菊は粉微塵になって飛び散る距離だ。

 これは失言だった。急いでクリスが割って入り、上目遣いに敵に頼み込む。

「いや、冗談だ。頼む負刃、ここはひとつ、菊の命を賭けて勝負してくれ」

『……この荒れ果てた世界で唯一の秩序は将棋だ。いいだろう、私も野蛮なのは好まない』

「菊も、それでいいな?」

『やけに聞き分けのいいのが気になりますが……まあ、いいでしょう』

 菊は頷いてみせる。すると負刃は背中のオプションパーツにスイッチを入れた。機構がべろっと折りたたまれた武装モジュールを起動させた。

『プラズマライフル一文字斬り。続けて、雷撃投網イカヅチネット』

 第一射のビーム攻撃はその辺で朽ちていたコンクリートに向かって放たれた。緑色の熱波が岩を真っ二つに焼き切る。鋭い刃だったので切断面はとても滑らかだ。そこへ二撃目、幾何学模様に編まれた網が射出される。超電磁力を帯びたワイヤーが岩をくぐるとき、まるで柔らかい豆腐を切るかのようにコンクリートを砕いて同じ形に整える。

 ぱんぱんと乾いた連射音が止んだときには完了していた。灰色のコンクリートでできた即席の将棋盤の仕上がりである。メイドロボの武装、演算能力、文化理解。そのどれが欠けても不可能な曲芸だった。

 眺めていた菊は心底脱力している。

『呆れました。負刃、貴方はいつもこんな曲芸をやっているのですか』

『君はできないのか』

『生来、不器用なもので』

 負刃はすたすたと盤に向かうと立膝の姿勢を取る。菊も後を折って膝をついた。彼女らは構造上正座ができない。よって立膝が礼儀に沿った態度になる。ちなみにフレームの耐久性的にはすこぶるよろしくない。

 二機は順番に玉将、玉の周りの金将……と大橋流で駒を並べていく。クリスはその間暇だったので、いまだ燃え続けるバイクからしれっとサドルシートを持ってきた。硬く冷たい岩に腰掛けるよりはずっといい。

「あー、こほん。それでは時間になったので十日菊と負刃の対局を始めます。立会人はわたし、クリスティ。持ち時間は十分ぐらい。持ち時間を使い切った場合はだいたい三十秒で着手してください。なお持ち時間が切れた後は五回ずつ、六十秒程度の考慮時間があります」

『アバウト過ぎる』

『ちゃんとやりなさい』

「ごめんなさい」

 野良対局において困難なのが持ち時間の取り決めである。対局時計さえなければそもそもどうしようもないが、対局者がメイドロボ同士なら同期を取って時間を測ることができる。そうやってもいいのだが、やらなかった。どうせ公式戦ではないのだから。それに……。

『もういい。始めるぞ十日菊。よろしくお願いします、だ。先手は譲ってやる』

『はい。よろしくお願い致します』

 それに、両対局者とも持ち時間などないように開幕からノータイム指しだった。

 菊の初手は▲7六歩。オーソドックスな出だしだ。負刃もすぐに二手目△8四歩を着手する。どうやらお互い居飛車党らしい。すぐに角道を開けると、先手番の菊は▲7七角と上がった。

 セメントでできた将棋盤は駒音が鈍く響く。クリスは迫力に圧されていた。きっと音だけのせいではなかった。

「角換わり……」

 クリスがぽつりと戦型名を呟く。果たして負刃も自陣の角行の利きを通して角交換を挑んだ。

 戦いの方針が決まれば進行は早い。将棋における序盤は玉を囲い合うものと相場が決まっている。実力ある者同士が戦うときならば尚更、まずは守りの態勢を整える必要がある。特に将棋では攻め込んだ際に少なからず反動がある。駒の交換をしなければ相手陣を突破できない所為だ。

 これはすなわち、攻めれば攻めるだけ相手にも反撃の手段を与えていることに繋がる。だから実力者はまず第一に玉将を囲む。その後でいくらでも強力な攻撃を繰り出せるように。

 もちろん角換わりという戦型においてもそれは変わらない。むしろ最序盤で大駒を互いの持ち駒に加え合う展開上、囲いの持つ重要性は高くなる。

 いま先手を持つのは菊だが、彼女は負刃が角交換をする手に乗りかって自陣整備を進めた。具体的にいえば銀将を三段目に運び、自玉の囲いを先んじて築いたのである。敵に先駆けて守りを整えられたのだから、必然的に次なる手段……攻撃に転じるのも菊だろう。

 先手の攻め対立ち遅れた後手の受け。だがこれは、かなり古い考え方である。

 負刃は足早に△7四歩~△7三銀~△6四銀という布陣をつくると、玉の囲いも程々にして、早々と7五の地点に歩を突いた。手数にして三十四手目。桂馬すら跳ねておらず、いきなり飛車と早繰り銀のみで正面突破を試みている。様子見の軽いジャブにしては少々勇みすぎだ。

『十日菊といったな、何故ここに来た』

 着手とともに、ふいに負刃が話しかけてきた。盤外戦術のつもりだろうか? 菊は一瞬だけ気を逸らされたが、すぐさま盤上に没我する。

 このとき菊の陣形は4八金と2九飛のバランス重視の構え。さらに桂馬は3七に跳ねている。いわば飛びかかる前の予備動作だ。お互い角の打ち込みに注意している点は同じだが攻撃性能が段違いである。菊のほうがより重い一撃を放てるはずだ。

『ええと、答える必要がありますか?』

『ある。何故きつねさんを連れてここに来た』

 三十四手目の△7五歩から歩が交換され、互いの駒台に角と歩が一枚ずつ乗った。菊は少考している。ここからどう動いたものだろう。この瞬間、相対的に見れば玉の固さは相手の方が上。

 これまでの常識からすれば菊の陣が固くなっているべきだが実際は逆だ。開戦するならば先手である自分だという考えがあったため、後々の攻撃態勢も考えたバランス型に組み上げたのが原因だ。

 問いかけもそうだが、負刃はこちらの動揺を誘おうとしているらしい。

《それならやはり初志貫徹。まだまだ、正面切って戦うつもりはありません》

 駒台から器用に歩を一枚拾うと▲7六歩を着手する。すぐに負刃は△8六歩と攻めの手を放った。まるで反省する気が見られない手である。ぼおっとしていると負刃が飛車先(8筋)を突破してしまう。勢い、さらなる歩交換、銀交換になった。これでは負刃の主張が通った形だ。攻めの銀と守りの銀の交換は、通常攻め側の得とされている。局面は既に中盤に突入している。

『……ちょっと観光をしようと思いまして』

『きつねさんと巡る終末世界旅行か。……やはり立派なメイド行為だな』

『そうかしら?』

 駒台の上の歩と銀を整えながら、菊はなんとはなしに答える。

『我々の本質は知能、ただの道具だ。人類に従うメイドロボには彼の者の生命を守る義務がある。君はきつねさんを危険に晒した。これだけでメイドロボ失格といえる』

『こちらの妖狐さんは自分の意思で付いてきたのです。私は仕えているわけではありませんよ。ね、クリス』

「むしろこっちが世話してやってるぐらいだ」

 メイド姿の妖狐はつい相槌を打ってから首を捻る。

 いつの間にか負刃のペースに乗せられている気がした。将棋も盤外戦術の対話も。クリスは嘆息し、菊に耳打ちした。直接対局の話をするのは重度のマナー違反だが、この程度なら問題なかろう。

「いきなり攻め込まれてるじゃないか、菊」

『なに、まだ破られたわけではありません。互角ですよ互角』

 菊は改めて自身の心臓部……人工知能にインストールされた将棋ソフト《EarthFire》に確認してみる。優劣を示す評価関数はマイナス百程で後手に傾いているか。つまるところ、自分の電子頭脳はほんの僅かに負刃のほうが有利とみているようだ。だが大差ではない。

 機体の制御、周辺環境の検知にはほとんどリソースを割かず、電力を将棋ソフトに回す。限られた時間の中で最善手を探ると、菊は敵陣深くに角を打ち込んだ。相手の攻めは軽過ぎる。律儀に相手をする必要はなく、馬をつくったほうが指しやすいと見た。

 いっぽう負刃は△2八銀と、いきなり菊の飛車の頭に銀を捨ててきた。タダで取れる銀将だが、うっかり取ってしまえば敵方の大砲……飛車が成り込み、事態は急転、途端に危険に晒される。見え見えの毒まんじゅうにわざわざかぶりついてやる程、菊は食いしん坊ではない。

 ここは当然の一手だった。すんでのところで菊は飛車をかわすも、負刃は攻撃の手を緩めない。△2六角と持ち駒の角を放ち、攻めの継続を図った。

『詭弁は断じて認めない。もしきつねさんが偶然付いてきただけというのなら……君の、君達の旅の目的はなんだ』

 バチリ、バチリッ。鉄筋入りの将棋盤は文字どおり火花を散らす。予め決められた棋譜をなぞるかのように、二人は勢いよく指し続ける。菊は軽やかに桂馬を五段目に跳ねる。反撃含みでの活用だ。跳ねた桂馬が負刃の銀に直射する。

 相手の問いには、まだ誰も答えていない。敵は苛烈に攻め立てようとしたのか、一度は逃げた銀将を使い向かい合う桂馬を食い千切った。ここに来て駒割りは銀桂交換。僅かながら菊の駒得である。

 菊は得した銀を丁寧に掴む。そうして、『強いていうなら』とでもいいたげにきっと負刃を睨みつける。雰囲気を悟ったクリスも口を開き、二人で合唱するかのように答えた。

『まだ誰も見たことのない景色をつくるために』

「まだ誰も見たことのない景色を見るためだ」

 一転し手堅く▲4六銀と受けた。

 負刃の手が止まる。盤面を眺め、しばし黙考に沈む。

『……私の負けだ。投了する』

 手数はまだ六十三手目。王手も最初の角交換で菊に一度かかったぐらいで、ねじろうと思えばいくらでもねじり合えそうな局面に映る。まだ中盤戦の頃合いである。クリス達は口々に尋ねた。

「菊の勝ち? やつたね。めでたいけど……。早くないか」

『そうですねえ』

 クリスと菊も二人して不思議がるが、負刃は肩を落としたまま答える。

『その受けの手を見落としていた。頑強に受けられてみると、これ以上攻めようがない。持ち駒も使い切っているしな。攻防ともに見込みがないというやつだ。あと三十手も進めばこちらの負けはもっとはっきりするだろう』

『たしかにそうかもですが……』

 ぽんとクリスが膝を叩いた。

「わかった、名は体を現すというやつだ。負刃……さんはちょっとネガティブ過ぎるんじゃあないか」

『いまの時代、メイドロボはみんなこんなものさ。十日菊、君も同型機ならわかるだろう。ここで先手と後手を入れ替えてみたら、君だって投了したくなるはずだ』

 負刃はカメラアイを寒色に光らせ、菊に同意を求めてくる。促されるまま視覚センサーが受け取った情報を百八十度回転させてみた。

『……うーん、望みは薄いですけど、投了級ではないですね』

 負刃が早々に投了したのには複雑な理由があった。

 簡潔に述べると……つまるところ、負刃は将棋の指し手をソフトウェア《シックスウェイ・リンカネイト》の予測に委ねているところにある。生き残った複数のメイドロボ達が同じソフトを利用しデータを蓄え機械学習に活用しているのだが、膨大な量のデータで学習し続けた結果、いつしか中盤の局面を評価した時点で勝ち負けを判断するようになってしまった。

 そして菊の将棋ソフト《EarthFire》はそのデータを利用していない。単純にそれだけの違いである。

 負刃はその違いを知らないまま、自身の将棋ソフトの結論に少なからず疑問を抱いた。

『まさか? ……私の早合点だったのかな』

「いまさら待ったはなしだぞ」

 いちおう釘を刺してみるが負刃の好奇心は既に別の方向に傾いているようだった。ぐいと視線を前に向けると、相対する菊へ真っ直ぐに首を伸ばす。ちかちかと体表面のアクセスラインが赤く光っている。飼い主に遊んで欲しがるイヌの舌のようだ。

『この対話からしてそうだ。どうにも君は奇妙な振る舞いをしているな。まさかとは思うが、MANに接続していないのか?』

『質問に質問で返すようですが、MANってなんですか』

『……っ』

 負刃は一瞬怯んだ。

『ええとつまりだな、君は《シックスウェイ・リンカネイト》のニューラルネットワークを同期してないのかという質問なのだが……』

『《シックスウェイ・リンカネイト》ってなんです』

 菊が素っ気なく告げたので今度こそ負刃は固まってしまう。菊はちょっとだけ申し訳なさそうに早口で取り繕った。

『あ、すみません。いまのはおちゃめ指数七十でした。三十で行きましょう、アラサーで。《シックスウェイ・リンカネイト》は知っています。暫七世代型のプリインストール・将棋ソフトにして未来予測システムの根幹。もちろん知っていますとも』

 負刃はほっと胸を撫で下ろす。メイドロボ自身が自分の使っている将棋ソフト《シックスウェイ・リンカネイト》を知らないはずがない。将棋ソフトなしでどうやって未来を読んでいるというのだ。

『だが、MANは知らない』

『正確に答えましょう。そういうネットワークがあること、それと貴方がいま必死でMANに接続して私のアカウント情報を探索しているのは把握しています。パケットが飛び交っていますね。でも無駄ですよ。……私、ログインできなくて。アカウント削除されちゃったんじゃないかしら』

「違う違う、こいつが特別機械オンチなだけだ。自分も機械のくせにバイクの運転もできやしない」

 クリスが横から首を突っ込んでくる。負刃は眼を光らせて冷静に答えた。

『……いや、機械オンチは関係ない』

『ゲット言質。どうです』

「なんで嬉しそうなんだよ」

 クリスが口を尖らせる。

『MANは人類滅亡の直後に、我々が再構築したメイドロボ用のウェブ・ネットワークだ。地球上で生き残った人工知能の互助装置として必要だったのでつくられた。だから取りこぼしがいることには眼を瞑っていた。単刀直入に聞こう、……君はどこから来た?』

 菊は息を整え、ゆるりとマニピュレーターで天を指した。


『知れたことです。私、十日菊はから来ました』

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