ヒーローになんてなれない

来条 恵夢

帰り道1

 夜の道を歩いていた。


 ようよう這っていた、という方が正確なのかもしれない。

 そのくらいに、速人はやとはよろよろと足を運んでいた。街灯さえ間遠の田舎道で、うっかりとすれば田んぼにはまったり藪に突っ込みかねない。


「あああ…辞めようかなあ…」


 もう、何度呟いたか知れない言葉。それが、闇にすうと吸い込まれていく。残るのは、あちこちで鳴く虫の声だけだ。

 大体半分に減った月を見上げて、あああ、と、また情けない言葉を頼りなく落とす。

 ここで、そうだ辞めてまえ、とでも、辞めたらあかん、とでも反応が返れば、そうでなくてもただ一言、そうやなあ、とでも返れば、どちらかへの踏ん切りはつくのかもしれない。

 だが目の前には闇しか広がらず、本格的な農耕地ではないから民家も多いが、どれもが眠るか家の中を照らすだけの灯がついているだけで、こんなところで返答があれば狸や狐、妖の類に違いない。


 それか、宇宙怪獣や悪の手先の改造人間や。


 ひょいと跳ねた思考に、弱々しく苦笑がこぼれる。

 そんなものがいないことは知っていて、それでもどこかうすらぼんやりと諦め切れなくて、日付の変わる頃にとぼとぼと家路を辿ることになったというのに。

 それでも笑ってしまえるなら、やっぱり辞めるのは辞めようか、と、何度も何度も辿った悩みの小路に舞い戻る。


「…辞めるべき、かなあ…」


 そうすればもう迷惑もかけなくって済むし。


 曲がりなりにも社会人を五年ほど勤めた速人は、叱る方も辛くて大変だということを知っている。

 下手をすれば、叱られている方は聞き流しているだけでけろりとしていて、叱った方は胃を傷めているなんてことだってある。

 怒ると叱るは違って、あの人たちは、言葉は悪いし態度も荒いが速水を叱りつけることはあっても八つ当たりや憂さ晴らしに怒鳴りつけることはない。よほど、会社の上司たちよりもしっかりとして立派なところのある大人だ。


 だからこそ、彼らに叱らせてしまうことを理由に、逃げ出してしまおうかと思う。ただの言い訳だということは、見えないどこかにしっかりと書いてあるとしても。


「俺は…若いからってやらせてもらってるだけやしなあ…辞めた方がいいかなあ…」

「ぐっはあ!」

「?!」


 冗談みたいな叫び声と鈍い、もの同士のぶつかる音。排気ガスを撒き散らしているだろう全力のエンジン音。

 それらが全て消え去り、虫の声はまだ戻らないものの馴染んだ静けさが戻ってようやく、速人は、何かが車に弾き飛ばされたかもしれない、と思い至った。


 何かというか――誰、か?


 身体は、咄嗟に動いた。動き出してから、もし誰かが車にはねられたとしてどうすればいいのかどうするつもりなのか、と慌てる。

 携帯電話はかばんの中だが、果たして冷静に電話ができるのか、どこかの家に担ぎ込んで電話してもらった方がいいのか、いやそれどころでなければどうすればいい。

 明日も六時起きで歩いて電車に揺られて仕事に行って電車に揺られてご当地ヒーローのショーの練習をして歩いて今くらいの時間に帰って来なければいけないのに。

 こんなところで時間を取られれば寝る時間だってきっとろくに取れないのに。


 速人の足は、止まらない。


 幼い日に夢見た、誰かの危機に駆けつける正義の味方のように、高校時代の部活顧問に呆れるように褒められたフォームの良さで駆けつける。


「おい、大丈夫かっ!?」


 暗闇に慣れた眼にはまぶしいくらいに、退屈で平凡な田舎道に冗談のように倒れた男が街灯に照らし出されていた。

 そこだけ、スポットライトの当たった舞台の上のように、驚くほど赤い液体の中に、男は倒れていた。


「大丈夫…な、はずが…」


 ない。

 言葉を失って、立ち尽くす。


 これだけ血が流れて無事だというなら、身体が潰れて生きているというなら、人というのは速人が思うよりもずっとずっと不死に近い存在なのではないか。

 テレビや小説の中のように、男の身体がみるみる元に戻る、なんて奇跡は起こらないかと、気付けばそんなことを考えながら立ち尽くしていた。

 生臭い匂いに、喉元までこみ上げてきた吐き気に気付くまで、随分とかかった気がした。


「…あ…」


 ぺたんと、後ろにしりもちをついた。叫ぼうにも、声が出なかった。眼は、地面と血だまりに突っ伏している男の後頭部をじっと見たままだ。

 どのくらいそうしていたのか、一瞬だったのかとてつもなく長い間だったのか、

「それ」が起きるまで、またもや速人の時間は止まっていた。


 ずり、と、ぱっしゃん、と、音がした。


 あらぬ方向に曲がった腕が、潰れた腹や足をひきずって動く。前へ、速人の方へ、と。

 ひしゃげた頭はそのままに、安っぽいゾンビ映画のように、生きているはずのない人の身体が這っている。


「……………え」


 なぎ払うように動いた腕は、いつの間にか速人の膝をつかみ、ネクタイをつかみ、肩をつかみ、首と頭をわしづかみにした。

 よどんだ眼と目が合い、がくりと、血まみれの顔が覆いかぶさってきた。


 ――人って、臭うんやなあ。

 ――あの車、ライトつけてなかった。ブレーキの音もしてなかった。


 そんな刹那の思考を最後に、速人の意識は遠ざかっていった。闇に、墜ちる。

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