林檎の木
「それでアバル、君は10年前とあまり姿が変わっていないようだね?」
「10年やそこらで姿が変わるわけないじゃない。人間じゃないんだから。でも、色んな人間の魂を刈ってきたから力は着いてる」
おそらく、とアバルは内心付け足した。
魂と引き換えに何か力を得ているなと感じるのみで、見た目も変わらなければ、新たな能力が目覚めたこともない。
まだまだ魂が足りないのだろうか、と思案しても答えは出てこないのでこれからもアバルはその行為が正しいのだと信じてひたすら魂を地道に集めるしかない。
「へぇ。どんな人間の魂を刈ってきたんだ?」
「別に、どれもこれも似たり寄ったりの人間なんていちいち覚えてない」
屈強な体をしていた粗暴な男も、ずるがしこい知恵を売りにしていた男も、たくさんの取り巻きを従えていた男も、皆アバルが目の前に現れると、みっともなく怯れ、死にたくないと媚びへつらい、そして口汚く罵倒してその生を終えていた。
何人、何十人と相対してきたが、コミュニケーションをとろうとしてきた人間はただ1人もいなかったことを思うと、ジャックはよほどの変人だと改めて思わされる。
「俺もその似たりよったりの1人かぁ。10年も待たせて刈る魂が月並みなもので悪いな」
そう言うジャックを横目に、アバルは黙り込んだ。
あなたのような変人は他にはいない、と言うのも、これから魂を刈る相手に謝るなんて変だ、と返すのもおかしい。
数秒置いて、「悪魔にとって10年は大した時ではない」と静かに呟いた。
「そうか。…でも、人間にとっては10年は長かったよ」
やっぱりあの時、10年じゃなくて1年って言えばよかったかな、と寂しげに森の木々のような深い緑の瞳を暗く歪ませた。
時間が傷を癒す、と言うものの10年という時間があってもダニエルを失った傷は今もなお治ることはなかった。
人を騙して楽にお金を稼いでいるせいで、ジャックが特定の人と親しくなることはない。そのため、新たに傷を癒してくれる存在はついぞできることはなかったのだ。
幸い、見てくれのおかげか、この町の住人の人を疑わない気質のおかげか、住人たちは何度でもたやすく騙されてくれるため、稼ぎに困ることはなかったが。
酒だけが、ジャックを日々現実から遠ざけさせてくれる拠り所だった。しかしもう一つの目的である健康破壊に関しては結果がどうにもふるわない。ジャックの肝臓はどうやら頑丈なようで、毎日浴びるように飲んでも未だに寿命が尽きることはなかった。
「…ところで、どうしてこんな街外れにいたの?」
隣に座っているジャックが儚げな表情をするものだから、そわそわと落ち着かない気持ちになったアバルは話題を変えた。
アバルの様子にふ、と微笑みながらジャックは応えた。
今度は意識的に優しげな表情を作り、思い出を語る。
「今日が俺の最期の日だろう?だからかな。思い出の場所にふと足が向いてね。…ここで、よく親友と過ごしていた」
この林檎の木の下で学校をサボっているジャックを、ダニエルはいつも迎えに来てくれた。
木の幹によりかかりながら二人で何とはない話をしていたこともあった。
赤い果に齧り付いて、その甘さに頬をゆるゆるに緩めたこともあった。
あんなこともあったこんなこともあった、とひとつ語る度にするすると他の思い出も甦ってくる。
黄金色に暖かく輝く幸福な記憶だ。それ故に思い出すのが辛い。
胸の奥を鉈でじゅくじゅくと刺されるような痛みを感じながらも、ジャックは穏やかな表情を貼り付けてアバルに語ってみせた。
「あなたに友が…。…いえ、そのダニエルとやらと最後のお別れをしておきなさい」
親友がいるからといって命乞いしても無駄だぞとけん制すると、ジャックの表情はいっぺんし悲しみに染まった。
「いいんだ。彼は…12年前にこの世から去ってしまったから」
「…」
アバルは余計な発言をしてしまったのだと自覚し、黙り込んだ。
生まれてこの方ずっと1人で生きてきたアバルには、近しい存在が死んだときの感情などわからない。アバルに限らず、享楽的で自分勝手に欲望のまま一時を生きる悪魔たちには誰かを亡くして悼むことはない。
だから、ジャックに共感することはなかったけれども、間違ってしまったのだなと漠然と感じ取ったアバルは居心地の悪い思いをした。
「ダニエルは…本当にいいやつだった。誠実で、誰に対しても優しく、公平で、信仰深くて、皆から愛されていた。彼がこの世を去ったとき神の愛を受けて早くに現世を去ったのだと街中の者が言っていたな」
静かに語るジャックにおずおずと視線を向けると彼の目にはうっすらと涙まで浮かんでいた。びゃっと猫のように飛び上がりそうになる衝動を押さえ、アバルはより一層肩身を狭くした。
「神様のもとに…そう、死んだら本当に人は天国へ向かうのかい?天国は本当に存在するの?」
「…存在するわ。生前正しい行いをした者は天国へ行くことになっている。あなたは…約束によって地獄行きよ。…地獄で他の悪魔に売るんだから」
約束は約束だ。こちらに何も非はないぞと内心自分に言い聞かせながら、アバルはもぞもぞと告げた。
「あぁ、アバルとの約束がなくても俺は地獄行きだっただろうな。…でもそうか、ダニエルは本当に天国へ行ったんだな…」
ぼんやりと確かめるように呟いたジャックは、しばらくしてアバルに向き合った。
「アバル。お願いがあるんだ」
お願いという言葉に、アバルはピンと背筋を伸ばした。彼のお願いによって散々な目に合ってきたのだから、警戒のひとつやふたつするのは当然だ。
眉間に皺をよせるアバルにジャックは苦笑してみせた。
「6ペンスコインに化けてくれなんて言わないさ。ただ、この木に実っている林檎をひとつ取ってきてくれないか?」
「…自分でとってきたらいいじゃない」
「子供の頃ならともかく、木登りなんてもうできないんだ。お願いだよ。最後に思い出の林檎を食べたいんだ」
「…」
親友の死に対する憂いを秘めた深い緑の瞳がまだ少し濡れているのを見つけてしまったアバルは、思案した。
相手は純度の高い魂の穢れたジャックだ。舌先三寸で人々を騙すペテン師。人間に限らず悪魔でさえも陥れる、ろくでもない人間。
そう理解しているはずなのに、先ほど見てしまった彼の儚い表情が脳裏をよぎる。
「十字架だってここから3つも離れた木の下に置いてきている。どうか信じてほしい」
「…わかった」
自身を害する十字架がジャックの手元にない事実に背を押されたアバルは、長考した末についに了承した。
感謝の意を述べるジャックの声を背に、蝙蝠の羽をばさりと鳴らし宙に浮く。
近くの林檎を手にしもごうとすると下にいるジャックから静止された。
「アバル、その林檎はまだはやい。…その枝から三つ上の枝の一番幹に近い林檎がいいな。そう、その葉が一等茂っているところだよ」
林檎の食べごろなど知るはずもないアバルは、指示された場所まで素直に飛んだ。そして悪戦苦闘しながら生い茂る葉をかきわけ果実を切り離したたところで、じゅっと焼け付く痛みが駆け巡った。熱さと痛みと共に指の一本さえ動けなくなった。
何が起こったのかわからず、目の玉をぐるりと動かしたアベルは木の下でにたりと笑うジャックに、悟った。
「…た、謀ったな…!」
ぎりぎりと歯を鳴らし恨み言を搾り出した声は痛みから大した大きさじゃなかったが、ジャックには届いたらしい。先ほどの悲壮な表情など欠片も感じさせない、極悪な笑顔を浮かべていた。
「君は10年経っても相変わらずかわいらしいお嬢さんだな、アバル」
三日月のような目でにたにたと揶揄するジャックが、10年前の彼の姿とぴたりと重なる。
二度も辛酸を舐めさせられるなんて、と焼けつく痛みと怒りで燃え上がるような思いでアバルは叫んだ。
「約束、破らないと言ったのに!…さっさと解放しなさい!」
「守るつもりだったんだよ。ほんの少し前まではね。初めてあった時から変わらず何を考えているのかわかりやすいし、バカがつくほど素直で、悪魔と思えないほどかわいらしい君とのおしゃべりは、楽しかったよ」
時を消費することに苦痛を感じていた日々。
しかしアバルと過ごした10年前のハロウィーンの日だけは、久しぶりに楽しいという感情を抱くことができた。だからこそ、一度の会話でおわらせたくなくて強引な取引を持ちかけたのだ。
「だから今度こそこの命アバルにくれてやってもいいかな、と思ってたんだけど…」
ナイフで今しがた木の幹に掘った十字架を撫でたジャックが、ふ、と困ったような笑みを漏らした。
「天国が実在するなら…俺もそこに行きたいなって。ごめんね。アバルのいる地獄に行きたくなくなってしまった」
眉をさげて参ったなとこぼす様子は、ペテン師と名高い男とは程遠くまるで純朴な田舎のただの青年のようだった。
「俺が天国に行けるようにしてほしい。約束してくれたら解放してあげるよ」
「…悪魔の私が、天国に干渉できるわけ…ない…」
「それもそうか。じゃあこうしよう。俺から魂を刈ることを禁じる。当然だけど解放した後俺に危害を加えるのも駄目。俺が寿命で死ぬのを待ち構えて魂を地獄へ持っていくのも禁止」
「…わかった、わかったから!約束するからはやく解放して…」
ジャックは念のために放り出していたダニエルの十字架を拾い、ナイフで幹を削った。
十字架の模様が消えると、アバルは転げ落ちるようにして下におりてきて木の根元で両手両足を地面につき肩でぜぇぜぇと息をした。
彼女の傍にころりと転がった林檎を拾い上げたジャックは、袖で軽く表面を拭いて赤い果実に噛りついた。
甘いな、とシャクシャクと林檎を食べながらしゃがみこんでアバルに声をかける。
「大丈夫?」
「…大丈夫に決まってるでしょう」
きっとジャックを睨んだアバルは素早く立ち上がり、屈辱を隠しきれない様子で捲くし立てた。
「約束どおり、もうあなたの魂は狙わないから!天国でもどこへでも行きなさい」
「ありがとう」
謝罪のようなお礼を告げたジャックの顔が、あどけない子供のようでアバルは言葉を飲み込んだ。やり場のない衝動を体に任せることにし、くるりと背を向け勢いよく飛び立った。
じゃあな赤い瞳の悪魔さん、と遥か後方で聞こえた穏やかな声が更にアバルを落ち着かなくさせ、彼女は殊更スピードをあげることに専念した。
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