ジャックの交渉
「お願い?」
「俺は見てのとおり、酒が大好きなんだ。どうか、死ぬ前にもう一杯だけ酒を飲ませてくれないだろうか」
憐れな表情を作って請うジャックを見て、赤い瞳の悪魔は了承した。
奇特な人間の最後のささやかな願いくらいは、叶えてあげても構わないと思ったのだ。
ところが、ジャックは自分の財布を覗き込んで「あぁっ」と悲痛な声を漏らした。
「…どうしたの?」
「お金が足りないんだ。さっき店員にはきっちり払うように釘をさされたし、死んでしまうならツケるわけにもいかない。…あぁ、かわいい悪魔さん、赤い瞳が美しい悪魔さん。さっき君は変身することができると言っていたね?どうか6ペンスコインに化けてくれないだろうか。お願いだ、最後に一杯だけ飲みたいんだ」
財布の口を、赤い瞳の悪魔に向かって広げたジャックがそう頼み込んだ。
深い緑の瞳が悲しげにゆらめくのを見て、彼女は1つため息をついて了承した。
変身の術等のちょっとした話をしっかり聞いてくれていたのだな、と感心したからだ。大抵、悪魔は自己中心的で相手の話など聞きはしない。
目を閉じて6ペンスコインをイメージした赤い瞳の悪魔は、ぽふんと小さな音を立ててもくもくと煙を出した。
煙がはれると、6ペンスコインとなった悪魔はジャックの掌にちょこんとおさまっていた。
「どうかしら?」
コインの出来栄えを問うた赤い瞳の悪魔に対して、ジャックは「あぁ」と低い声で頷いた。
先ほどまでの紳士然とした表情を消し去り、にたりと笑いながら掌のコインに素早く銀の十字架を押し付け、財布に捻じ込んだ。
「はははっ。ありがとうかわいらしい悪魔のお嬢さん。俺の願いを叶えてくれて。おかげで、うまい酒が飲めそうだ。もっとも、この酒が人生最後ってことにはならないだろうけどな」
「このっ…人間の、分際で…!私を騙したのね…!」
銀の十字架は、赤い瞳の悪魔はじゅわじゅわと魂が焼けるような痛みを感じさせた。コインから元の姿に戻るどころか、身動きさえ取れそうにない。
苦痛に喘ぐ赤い瞳の悪魔に、ジャックはせせら笑った。
「まさか悪魔がこんな手にひっかかるなんてね。…いやいや、騙そうとしたわけじゃないんだ。偶々、俺の財布には金がなかったから、君にコインに化けてもらっただけ。そしたら、偶々、財布の中に十字架が入っていたんだ。いつもは入っていないんだが、今日は10月31日、ハロウィーンだろう?そして明日は新年の11月1日だ。いくら普段礼拝に行かない俺でも諸聖人や殉教者の方々を悼む万聖節の日とその前日くらい十字架を持ち歩くさ」
これは不幸な偶然が重なった事故みたいなものさ、とジャックはのたまった。
声音だけは悲しげな響きを持っており、ともすれば本当に不幸な偶然なのだと説得されそうになる。しかし赤い瞳の悪魔には見えていないが、言葉と裏腹に緑の瞳には嘲りの笑みが広がっていた。
「いいから…ここからだしなさい!十字架を、離して」
「…ああ、すぐにでも出してあげたいよ!本当に不幸なことだ。けれども、お嬢さん、事故とはいえ君は怒ってはいないだろうか?俺は君からの怒りの仕返しをされるのではないかと怖くて…。例えば、拷問にかけられるような痛みの中魂をとられるのではないか、とか」
「そんなこと、しない…」
「本当かなぁ?」
「しんじて…!はやく、いたい…」
とにかくこの焼けるような痛みから解放されたい赤い瞳の悪魔が必死に言葉を重ねるも、ジャックは「うぅん」と悩ましげな声をあげた。
「お嬢さん、あなたがそうだとは思っていないのだけれど、一般的に悪魔は約束を破るものだと聞いているんだ。開放した瞬間に…ってどうしてもよくない未来を想像してしまうな」
「そんなことない…。悪魔は契約に縛られるから、約束を破ることはできないわ…本当よ!」
力の強い悪魔ならば、あの手この手で契約をかいくぐることができるだろうが、赤い瞳の悪魔にはそんな力も、頭脳も持ち合わせていない。
人間は約束に縛られないが、悪魔は約束をすれば、必ず守らなければならないのだ。
痛みに耐えながらそう説明をしても、なおもジャックはどうしようかなぁと暫くぶつぶつ独り言を呟き、「そうだ」と名案を思いついたと言わんばかりに声音を明るくした。
「俺も約束は守る男だ。お嬢さんに魂はあげるけれども、やはり開放してすぐは報復が怖い。だから君の怒りが風化する頃にこの魂をあげよう。そうだな、10年後に魂を取りにおいで」
「…わかった、約束する。だから、開放して…」
息も絶え絶えな様子で力なく赤い瞳の悪魔が頼むと、ジャックは「約束だよ」と念を押してようやく財布からコインを出し、銀の十字架を離した。
変身する力すら保てない赤い瞳の悪魔は、ぽんっと軽い音ともくもくと立ち上がる煙とともに、もとに姿に戻り、荒い呼吸を繰り返した。
全身を駆け巡る呼吸もままならない鋭い痛みから、じくじくと鈍い、しかしまだ我慢できる痛みに変わった頃、赤い瞳の悪魔はつとめて冷静な口調で切り出した。
「約束どおり、今は魂をとらない。けれども、10年後の10月31日に必ずあなたの魂を渡してもらうから。約束どおり!」
「もちろんだとも。先ほどは偶然とはいえ悪いことをしたね、お嬢さん。今日は早く帰って身体を休めたほうがいい」
申し訳ないとふわふわの金髪を揺らして頭を下げ、さも同情している表情で、ジャックがいけしゃあしゃあと言った。
赤い瞳の悪魔は、ジャックを睨み付けそうになるのをぐっと堪えて低い声で静かに伝える。
「10年後覚えていなさい、ジャック」
まるで小物の捨て台詞のようだと、言い放った後に自分でも思った赤い瞳の悪魔は、「あくまでもう用がないから次の獲物を探すのだ」という体に見えるように、つんとした表情で、できるだけしずしずと厳かな雰囲気を漂わせて壁を通り抜け、ジャックのもとから去った。
店の外に出ると相変わらず街は仮面をつけた者達が陽気に笑いあっていたが、彼らに目もくれず、赤い瞳の悪魔は現世を蝙蝠の羽で勢いよく駆け抜ける。
空を飛ぶと、未だに全身が銀の十字架のせいでぎしぎしと痛む。しかし、痛みよりも怒りが上回っている赤い瞳の悪魔はスピードを緩めることはしない。
「悔しい悔しい悔しい!!人間のくせに悪魔を嵌めるなんて!痛いし悪戯はできないし散々だわ!!何なのあの人間!」
人間の手前澄ました表情をずっと保っていたが、1人になった今そんな我慢をする必要はない。
赤い瞳の悪魔は空を飛びながら大声で怒鳴り散らした。
もし地面があれば地団駄を踏むどころか、地面に転げまわって全身をばたつかせてこの苛立ちを発散させていたであろう。あいにく、ここは空中のため勢いよく飛ぶことで、怒りを紛らわすしかない。
「10年後、何としてもきっちりあいつの魂を刈り取ってやる!」
今頃居酒屋でお酒を楽しんでいるであろう、悪魔よりも悪魔らしい男に、赤い瞳の悪魔は心に堅く誓った。
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