第3章

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 1月26日。

 真壁は午後8時過ぎに会議室の席に着き、タバコを吸おうとすると、灰皿が吸殻で溢れかえっていた。部屋中にたちこめる紫煙に、津田が隣で咳き込んでいる。

 ゴミ箱はどこかと眼を巡らせると、いつも見えるはずの顔がひとつ欠けていた。夜の捜査会議の前は集中力がすでに切れているのか、いつも呆けたような顔で出涸らしのお茶をすすっている吉岡の姿がない。

 真壁は前の席で、新聞を読んでいた杉村の肩をつついた。

「吉岡のオッサンがいない」

「いないだと?」紙面から顔を上げ、杉村も辺りを見回す。「おい、あのオッサン、どこへ行った?」

 吉岡と組んでいたはずの所轄の刑事を呼びつけると、1時間ほど前に署の前で別れたという頼りない返事だった。杉村が訝しげな眼をよこすうちに、遅れて到着した所轄の捜査員2名が入ってきて、着席したと同時にしばしひそひそ話の声が立った。

 つい数分前、パトカーの無線で殺人、または傷害事件が発生したと伝えていたらしく、場所は世田谷区下馬の都営団地とのことだった。真壁は無意識のうちにひっかかるものを感じ、耳をそばだてていたが、幹部席の開渡係長が「報告、始め」と机を叩き始めて、思考は途切れてしまった。

 地どりの報告は連日、『成果なし』が続いている。被害者の携帯電話からは、電話帳リスト、通話記録などからも怪しい線は出て来ない。現場を中心に半径300メートルの範囲にある全ての防犯カメラもチェックしたが、犯人の姿など影も形もつかめず、情報提供もゼロ。自分たちが無駄な線を追っていると感じ始めたとたん、苛立ちや諦めが蔓延し、精神衛生上よろしくない状態になってくる。

 突然、幹部席の方から机を拳で叩く音が響いた。秦野だ。

「ホシが逃げてるんだぞ!事件発生から何日、経ってると思ってるんだ!くだらんヤク中の男のケツを追っかけてるヒマがあったら、ホシにつながる線を早く見つけ出せ!」

 口さがない桜井が「現場と初回の会議すっぽかしたの、どこのどいつだ」とぼやく。杉村と馬場の主任ふたりは、知られたくもない内偵を大声でバラされ、仏頂面を浮かべている。田淵は眼に涙を浮かべ、大欠伸。清宮はペンで爪の垢をほじくっている。

 そのとき、会議室に顔を出した誰かが「外線から電話です」と真壁を呼んだ。杉村をはじめ、十係の眼がぐるりと動いた。

 刑事部屋で取った外線電話からは、ざわざわした喧騒と一緒に、行方不明だった吉岡の渋い声が飛び込んできた。

「下馬で殺しだ。都営団地前」心なしか声の調子が高い。「ガイシャ、誰だと思う?」

「今、どこにいるんですか?」

「ガイシャは三谷透だぞ。さっき、死亡が確認された」

 真壁は一度にいくつもの質問をくり出した。

「どうやって殺されたんですか?ホシは?目撃者は?」

「銃弾を2発、胸に食らった。ホシは自首してきた。藤枝組のチンピラ2人」

 真壁は反射的に「すぐ行きます」と電話を切って、刑事部屋を飛び出していた。

なぜ三谷が、藤枝組のチンピラ2人に撃たれたのか。逮捕時に中野の照会センターに総合照会をかけたとき、三谷はA号(前科・前歴)で3件、Y号(薬物使用歴)で5件ひっかかったが、いずれも軽微な案件ばかりで、ヤクザに睨まれるような怪しい筋は確認できなかった。

 また、吉岡が自分だけにこの件を通したのはなぜか。捜査に対する基本的なとらえ方が違うのは必然だが、十係の主任ふたりは、吉岡にとって何かとやりにくい相手なのかも知れない。

 捜査会議を無断で抜け出し、真壁は署の外でタクシーを拾うと、すぐに携帯電話と受令機のイヤホンが鳴り出した。行方をくらました自分を捜査本部が呼んでいるのだったが、それを無視してタクシーの座席で座り続けること40分、午後10時前に真壁は世田谷中央署の前に降り立った。

 ひっそりと明かりの灯った警察署の玄関前に、数人の報道関係者が立っていた。署員が戸口に立って入口をふさいでいる。一歩も歩き出さない内に、目敏い記者連中の眼がこちらへ向いた。その中には、大学生の頃からなじみのある男の顔があった。

 富樫誠幸。全国紙の東都日報に勤める社会部記者で、警視庁捜査一課の「番記者」でもある。真壁は指一本、自分の口に当てて『だめだ』と示すと、富樫は白い歯を覗かせて微笑んだ。

 会議室前の廊下で、本庁の顔見知りと出くわした。向こうが先に「おい、君!」と声をかけてきた。「君、担当が違うんじゃないか・・・」

 真壁は「コッチの応援に回るようにと、本庁の指示です」と無表情で言いのけ、捜査本部の置かれた会議室に身を滑り込ませた。

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