第2章

[13]

 1月23日。

 夜の捜査会議の後、真壁はちょっとした知識を仕入れることにした。西口の駅前に差しかかったとき、津田に何気なしに「覗いてみるか」と言った。向かった先は駅前のデパートの時計売り場だった。

 閉店間際の時間、真壁は何食わぬ顔で津田と2人、ガラスケースに収められた高級ブランド品を何点か眺めた。ふと被害者が身に着けていたものと似たような腕時計が眼に留まり、真壁は値札を見て驚いた。普通の乗用車が1台買える。2人は声も出さずに、こそこそと引き揚げた。

 デパートを出てから、津田が「時計って高いものなんですね」と呟いた。先日、調書を取った妻の絵里によると、諸井の小遣いは月で約4万。事件当夜に着けていた腕時計は生前のガイ者いわく夏のボーナスをはたいて中古で買ったらしいが、あの桁ならバーゲンで半額になることはあっても、子どもが2人いる中年のサラリーマンには高すぎるように思えた。

 犯行の様子からして行きずりの線が濃厚だが、ホシは諸井を殴っただけで、現金の入った財布も高価な腕時計も奪っていない。単にホシが気づかなかっただけなのか、被害者が身に着けていた腕時計の値段はさすがにちょっと気になった。

 終電前の時刻、まだ駅周辺にはいくらか人通りもあった。

 真壁と津田が地下街から東口へ出た。歩道に7人ほどの男女が信号待ちをしていた。信号が青に変わる。人の塊が崩れて歩きだし、散っていく。

 その時、交差点へ歩き出した男が1人、ジャンパーのポケットに突っ込んでいた片手をひょいと出した。

 2人が立っていた位置から10メートルほどの距離があったが、真壁は男の手から何かが落ちたのが見えた。とっさにスプーンだと気付いた。

 真壁は駆け出し、落ちた小さなスプーン1つを拾い上げた。後ろから走って来た津田も交差点の半ばまで進んでいた男に追いついた。

「おい!このスプーン、ゴミか」

 男が振り向いた。30代前半の顔だった。ひょろりとした柳腰で、髪を茶色く染めている。男は薄目を開けたが、その焦点は定まっていない。《ラリっているな》と思う暇もなく、いきなりこちらへ突進してきた。一瞬のうちに、ナイフのような刃物が見えた。

「この野郎!」

 真壁がとっさに男の腕をからめ取り、ねじ上げる。ナイフが音を立ててアスファルトの上に落ちた。わずかな通行人が何ごとかと見ている。信号が赤に変わり、通りの車からクラクションを鳴らされる。真壁と津田は急いで男を両脇から引きずり上げ、走り出した。

 署に連行した男は当直の署員の手ですぐに身ぐるみを剥がされた。凶器のほか、約0.5グラムの乾燥大麻が入ったビニール袋を所持していた。指紋や写真を取った後、真壁は男に数発平手を見舞って眼を覚まさせ、取調室の椅子に座らせた。

 きっかけは、拾ったスプーンの先端をたまたま鼻に近づけた津田が急に顔面蒼白になってトイレで吐いたことだった。真壁は漠然とした直感を抱え、家に帰らず署の道場で寝泊まりしていた十係の古参、吉岡を起こした。過去に生活安全部の薬物担当にいたことのある吉岡はスプーンを鼻に近づけて「コカインだな」と言った。

 真壁の脳裏に、閃光がひとつ走った。事件当夜、路上で拾ったプラスチック製の小さなスプーン1本。その解答はこれかもしれない。

 コカインを吸引するときは少量の粉末を鼻孔に入れるために、耳かきやスプーンの柄の先を使うのが普通だ。どこでも手に入り、簡単に捨てられる。

 コカインをスプーンで吸引するグループがこの界隈のどこかにいる。事件当夜も、現場周辺にいたのだろう。いきなりナイフを突き出した今夜の男のような輩が、あの夜もラリってぶらついていたのだろう。

 取調は地元を知り尽くしている所轄の当直に任せ、真壁は聞き役に回った。割り出さなければならないのは、コカインを買う場所。吸う場所。吸っている仲間の名前。

「真っ赤な明かりがぶらぶら揺れててよ、その明かりからミミズみたいなのが何本も出てくるんだよ。そのミミズが七色に光ってだんだん膨らんで長くなって、そこら中で躍り始めるのさ・・・」

 男はそんな話が延々と話し続けた。所轄の当直は《こんな奴の話をまともに聞くなんて正気か》といった視線を送ってきたが、真壁は気にも留めなかった。

「ああ、楽しいよ。ほんとにウキウキする。だのによ、誰かが声をかけられたりするとさ頭が爆発するんだよな。気持ち悪いんだよ。邪魔するな、俺の回りに来るなって叫ぶんだ、俺はむしゃぶりつきたくなるんだよ・・・」

「おい、今のは何だ?」真壁は言った。

「ああ」

「おい、むしゃぶりつくってのは?おい、こら!寝るな!」

 真壁は男の顔を何度か張った。男は怒ったり笑ったりを繰り返し、またしばらく話を続ける。やがて薬が切れ始めたのか、今度は冷汗を垂らしてガタガタ震え出した。とてもまともな話が出来るような状況ではなくなり、取調を何度か中断した。どうにか男の氏名が三谷透、下馬に住んでいることを確かめた頃には、外が薄明るくなっていた。

 真壁は開渡係長と相談し、三谷をいったん放り出すことにした。そして、後を尾ける。中毒の程度からみて、半日もたたないうちに三谷は必ずどこかへ行く。薬を吸える場所に決まっている。

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