四畳半の箱入り娘
最近嫁さんが今まで以上にマメに掃除をしている。
「私丁度今仕事暇だし。そもそも年末はお互い凄く忙しくて大掃除も予定の半分位しか出来なかったでしょ?」
俺は何故かそれを信じて疑わなかった。
嫁さんは在宅で仕事をしてた、俺は普通のサラリーマン。
お互い稼ぎはそれなりに悪くはなかったから、少し広いマンション借りて四畳半の和室を嫁さんの仕事部屋に使ってた。
忙しいであろう時期でも夕飯の仕度とか家の事は出来るだけきちんとしてくれてたし、少しマイペースな変わり者なのを覗けばとても良い嫁さんだったと思う。
でも俺はこっそり浮気をしていたんだ。会社に来ている派遣の子と。
何故か嫁さんにはバレてないという自信があった。正直嫁さんはちょっとぼんやりしてるところもあったから。
俺は別に嫁さんが嫌いになったとかではなくて、ありがちな理由、嫁さんが完全に家族になってしまって女として見るのが少し難しくなってきてた所だったんだ。
家族として一緒に暮らすにはとても良い嫁さん、でも刺激は半減してきていて、だからたまにちょっと余所で遊ぶのが楽しかった。
嫁さんは以前「そりゃ本音を言えば絶対浮気はして欲しくない、でももしするのなら墓場まで持っていく位、絶対に私だけでなく誰にもバレないようにして欲しい。それ位の覚悟でやって」と言っていた。つまりバレなければ少し遊ぶ位、と思ってたんだ。
だけどある冬の日の事。嫁さんが「大掃除」といきなり言い出してから2~3週間後かな、丁度バレンタインが迫ってきていた金曜の事だ。
この日は遊んでいたわけではなく本当に残業していて帰宅が少し遅くなった。
部屋に入るといつもされているはずの夕飯の仕度が全くされていなかった。
それどころか家中真っ暗で、リビングは勿論キッチンにも寝室にもトイレにも風呂にも嫁さんはいない。
今日は出掛けるとか遅くなるとかそういう話は全くしていなかった。むしろそういう時は必ず早い段階で言ってくれる、そういう嫁さんだったんだ。
焦る気持ちと、不思議な気持ちと、怖い気持ちが一気に心臓を掴んでくる。
窓は開いていなかったけど一応ベランダに出て外を確認した。
うん、大丈夫。
最後に嫁さんの仕事部屋をノックした。
返事はないが鍵は開いていたのでドアを開けた。
倒れているのかもしれない、とその時は思ったから。
ドアを開けて、俺は目の前の光景に息が止まる位驚いた。
仕事部屋から嫁さんの荷物が全部なくなってて、まっさらの空き部屋になってた。
嫁さんは自分の荷物の大半をその仕事部屋に置いていたんだ。それが全部なくなっていた。
状況が全く飲み込めなくてしばらく呆然としていると、ポケットの中で震えるようにスマホが鳴る。
嫁さんからだった。
この時ようやく「なんで最初から電話しなかったんだろう」ということに気が付いた。
淡々とした声で嫁さんは俺を近所のファミレスに呼び出した。
マンションを出る時、なんとなく靴箱を見ると嫁さんが気に入っていた黒のシンプルなパンプスとナイキのスニーカーだけなくなっている。
去年のクリスマスに俺がプレゼントした真っ赤なコンバースは置きっぱなしになっていた。
ファミレスに入ると嫁さんは和膳を黙々と食べていて、俺の姿を確認すると少し困ったような笑顔を見せた。
「………慌てて来たみたいだけど、ちゃんと戸締りしてきた?」
そう聞かれて俺はロボットみたいに無言でカクカクと頷いた。
案の定、浮気がバレていた。
部屋にあった荷物は一先ずほぼ全て実家に送って、仕事に使うノートパソコンと貴重品だけ持って数駅先のビジネスホテルを取っている、と嫁さんは言う。
そこから随分遅くまで話し合った。
浮気相手とはその場で電話して別れ話をした。
少し怒っているようだったが、なんとか了承して貰った。
俺は本当に心から反省したし、嫁さんも「もっと早く話し合えば良かった、夫婦なんだし嫌なことはもっと早く言い合えれば良かった、爆発するまで溜め込んだ私も悪かった気がする」と寂しそうに笑う。
やり直そうと思えばやり直せたのかもしれないけど、あのドアを開けた瞬間の「何もない」という恐怖と衝撃。
全面的に浮気した俺が悪いのはわかってる。
でも何故か目の前にいる嫁さんが物凄く怖く見えてしまって結局別れることになった。
「ケンさん、本当に落ち込んでる時とか本当に反省してる時はずっと俯いて目を合わさないよね、あとタバコも全く吸わなくなる。だから今ケンさんが凄く反省してるのはわかるよ」
嫁さんにそう言われて、そこで初めて自分が家にタバコを置いてきた事に気がつく。
「でも私、ケンさんの浮気に気付いた時に物凄く気持ちが疲れちゃったんだよ。めんどくさいな、って思っちゃった。怒るとか悲しいとか許すとかじゃないんだよ。夫婦なのにこんな気持ちになってしまった以上、またやり直すのは難しいと思う」
とりあえず今夜はビジホに泊まる、色々な処理についてはまた明日以降連絡する、と言って嫁さんはタクシーを止めた。
嫁さんが「とりあえずさっぱり別れられるなら慰謝料とかなくてもいい、相手の女の子とも関わりたくないめんどくさい」と言ったのもあって、思ったより離婚に関する処理は淡々とスムーズに進んだ。
でも俺の気持ちとして「いつか子供が出来た時のために」と2人で貯めてた貯金は折半ではなく8割を嫁さんに渡した。全額渡そうとしたら「ケンさんも引っ越し代ないと困るでしょ、あのマンション高いから1人じゃもう無理じゃん」と言われ、2割だけ突き返された。残り8割が慰謝料、ということだ。
マンションは賃貸だったし、その貯金以外は金目の共有財産は特に無かったから本当に簡単に、淡々と離婚準備は進んだ。
家具についても「私は一先ず実家に戻るから家具はいらない。ケンさんの好きにして」と言われた。
赤いコンバースは嫁さんが自分で捨てた。
ある人には「子供がいなかったのが救い」と言われたけど、子供とかそういうの関係なくやっぱり離婚した直後は辛い。例え子供がいようといなかろうと、自分の浮ついた気持ちのせいで「身近にいたひとりの人間に物凄く嫌われてしまった」のは事実なんだから。
嫁さんとは交際期間含めて6年一緒にいた。友達だった期間を入れたら7年近く。
今、ひとりで夕飯食べるのがめちゃめちゃ寂しい。
自分のせいなんだけどさ。わかってる。でも辛い、言葉にならないくらい辛い。
嫁さん………いや、元嫁さんだった彼女はフリーライターで、今でもたまに雑誌やネットで名前を見かけることがある。
コンスタントに仕事出来てるって事は元気な証だ、それが救い。
そして俺はあの日ファミレスで食べたオムライスが嫌いになった。
罪悪感とか恐怖とか驚きとか色んな感情が混ざって味がしなかった。それどころか凄く不味く感じた。
オムライスってなんとなく「幸せな家族の味」っていうイメージがある。だから尚更食べられない。
俺は今でもひとりだ。
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