第105話 努力では手に入らないもの
「結衣ちゃん…って呼んでくれた…えへへ」
だらしない笑み。鏡に映る自分の表情をこれ以上的確に表現する言葉は他にあるまい。ドライヤーで丁寧に自分の黒髪を乾かしながらそう思った。
我ながらよく言ったものだ。今更振り返ってそう思う。
もうすぐ高校生という年齢だ。同年代の女の子を○○ちゃんと呼ぶことに関して抵抗がないというわけではないだろう。彼も一人の男の子として人並みに恥じらいはあるだろうし。
ましてや最近までほとんど会話したことのない女の子だ。だいぶ抵抗はあると思う。それでも彼は苦笑しながらも了承してくれた。それが私にとってはすごくうれしかった。
今まで私のことなど女性として意識してくれなかったに違いない。
でも今日からは違う。
「…玲にだって負けないんだから」
玲。普段は恥ずかしくて名前で呼べないけど、勝手に私がライバル視している女の子。淡い桃色の髪は冗談みたいにふわふわ。そのくせいたずらっ子みたいな笑みから覗く真っ白な歯はサメぐらいギザギザしてる。
「やっぱり理人くんは玲みたいな女の子が好きなのかしら…」
鏡に映る冴えない少女と想像したライバルを比較して露骨にため息をついた。
こんな女の子、どこにだっている。街中を五分も歩けば出会えるだろう。
…それではどんなに可愛くなったって意味がない。彼女にあって私にないもの、それは独自性だ。努力することなんて誰にだってできる。必死にあがくことは赤ん坊だってできる。でも彼女の様に魅力的でずば抜けた才は私にはない。
人懐っこくて誰にだっていい意味で気兼ねしない性格。それがもしあれば回避できたトラブルは一つや二つではない。あれはもう努力などで積み重ねられるものではない。
「まぁ言うなれば才能よね…私は何回生まれ変わってもあの子にはなれないわ」
玲にだって負けない。そう息巻いていた私の姿は早くももう消えてしまっていた。彼の前にいるときは強情でいられるのに、こうして一人になるとどうしても弱気になってしまっていけない。
生まれ変わって誰かの様に生きる。それはもちろん夢物語だと知っている。なんの根拠もない妄想からの産物だ。
誰かになりたいと願ったところで神様なんて都合のいい存在は何処にもいない。もし仮にそんな都合のいい存在がいたとしても、私なんかに微笑んではくれない。
もっと信心深くて一生懸命に生きている人間のもとへ向かうだろう。明確な目標もなく、手当たり次第に努力しているだけの私なんて、神様なんかの眼中には決して入らない。
一度きりしかない。そんな陳腐で使い古された表現がやはり人生というものにはよく似合う。
でもその人生というのは一度きりしかないくせに、どうしようもなく残酷なのだ。容姿も、家庭も、環境も、国籍も…そして才能も。
隣の芝は青い。でもそう見えるだけ。何度も自分をそうやって丸め込んで誤魔化して、自分の芝も誰かと比較すれば青いものだと考えて生きてきた。
そしてそれはある意味正しいのだろう。
私には何の取り柄もない。
…でも目立った困難があるわけでもない。家に帰ればあったかい布団で寝られるし、お風呂に入って身を清めて、おなか一杯ご飯を食べられる。私にとっては当たり前のことでも、羨む者は少なくないだろう。
私がこうして無意味な思考を行っている間も死んでいく人間たちがいるのだ。彼らと比べれば私はすごく恵まれていると思う。
「…でも、やっぱり欲しい。玲みたいに笑って、前を向いて生きたい」
ひとりでに願望が滑り落ちる。
気が付けば私は、強く拳を握り締めていた。
やっぱりそうなのだ。結局のところ、私は今の場所で満足することはできない。
誰かと比較して自分に安心することはできても、結局自己暗示に過ぎないのだから。
私には才能がない。玲には才能がある。
彼女は隠しているつもりかもしれない。
でも私にはわかる。
努力を飽きるほど積み重ねてきたからこそわかるのだ。問題を目にしたときの玲の表情を見て、その時彼女がどう考えているのか。
「私が訊けば『全然わかんないっすねー!』とか笑うでしょうけどね、あの子は」
作り笑顔が上手で、誰からも愛される魅力的な人柄。それは多分重厚で、そう簡単には傷もつけられない堅牢な鎧。
だがそれも完璧ではない。誰にも打ち砕けない…それどころか鎧を纏っていることすら悟らせないその立ち回りは如何に彼女といえども大変な苦労を強いられるはず。
平たく言うと…重いのだ、途方もなく。
何か自分の中に矛盾を抱え込むというのは相当なことだ。
理人くんだけに意識を注いでいる私が、彼の前では壁を作って近寄らせないようにしている。これは結構つらいことだ。
ましてや目の前で他の魅力的な女の子が仲良くしている。特にこれが辛い。
今日は勉強という名目があったが、それがなければ私はまた壁を作るだろう。
なぜなら私は臆病だから。
『好きだ』と愛されたくないわけではない。
『嫌いだ』と目をそらされることが怖いのだ。
だから背を向ける。視線をそらして相手が私から視線を逸らす瞬間を見ないようにする。そのための壁だ。
だから喧嘩腰で話す。言い合いをしている間なら相手は自分から目を離さずにいてくれるから。
でも彼女は違う。
誰かの視線という射線の中で、その全てを避けることなく受け止めながら生きている。私のように一人への感情とは違う。
相手が一人ならその人だけに集中できる。
でも彼女は違う。周囲みんなと常に関わっている。だから彼女の鎧は重たい。
好かれる可能性と嫌われる可能性は常にセット。
だから私は彼女になりたい。
その中でも物おじせず前を向き続けられる才能が欲しい。
「…だめ、考えるのはおしまい。いくら考えても答えが見えないんだもの。考えるだけ時間の無駄だわ」
だから私は彼女になりたい。
過程をすっ飛ばして、問答無用で答えだけをつかみ取る。
そんな才能が羨ましくて仕方がない。
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