第104話 結衣ちゃん

 すっかり暗くなった帰り道。

 吹き抜ける風は強くはないものの涼やかで少し肌寒い。

 車通りはまばらで、普段の喧騒が姿を消した街の中を、いつもとは違う人と歩いていた。

「…何も送ってくれなくてもよかったのに」

「そうもいかないだろ。こんな夜遅くに女の子一人じゃ危険だし」

 俺と丸宮以外が休むという未曾有の事態に見舞われた俺たち。授業が終わった後にも丸宮は自習して帰るらしいので俺もそれに付き合い…こうして一緒に塾の校舎を出てきたわけだ。

 隣を歩く丸宮は赤いマフラーに思いっきり顔を埋めて不服そうにしていた。

「アンタと一緒の方が危険かもしれないわよ」

「うわ、なんてこと言うんだお前」

「実際そうじゃないの?私を何処かに連れ込もうって魂胆じゃないわよね?もう11まで押してるわよ携帯」

「110番リーチやめてください」

 ちらりと見えた丸宮の携帯の画面には、白い文字で1が二つ並んでいた。本当に通報をするつもりらしい。警戒されすぎでしょ俺。

 だが丸宮からこうして警戒されるのは別に初めてではない。むしろいつも意識されているので、変に気を許される方が反応に困るというものだ。

 丸宮はツンツンしてるくらいで心地いいのかもしれない。

「…流石に冗談よ。アンタが悪意を持ってないってことくらい分かるわ」

「本当だろうな」

「なんでアンタが疑ってんのよ」

「なんでってそりゃ…いっつも俺の方ちらちら見て話しかけるなってオーラ出してたじゃんか。いきなり距離が詰まると困惑するっていうか」

「は?何よアンタ童貞なの?バッカじゃないの?」

「ええ…?違うのか?」

 あれが警戒でなければなんだと言うのか。言いたいことがあれば話せばいいし、特に何もないのならこちらに注意を払う必要もない。

 教室に入った瞬間こちらに視線を送ってくる丸宮の姿はめちゃくちゃ見た。塾に行ってその丸宮と遭遇しなかったことの方が少ないかもしれない。

 …いや、冗談じゃなくて。

 本田先生に「めちゃくちゃ意識されてんじゃん、頑張れよ」とか笑いながら言われたことは数知れない。やっぱり誰の目からしても明らかなのだ。

 エレナは好きな感情の裏返しだとか照れ隠しだとか言っていたが絶対そんなことはない。

「…忘れて。でもアンタにしては気が利くじゃない。女の子を送っていくだなんて」

 この話はお気に召さなかったようで話題転換を要求。随分横暴なお嬢様である。

 ただ送ってもらえることに関しては不満はないらしい。それどころかお礼まで述べてくる。

 やっぱり暗い夜道を女の子一人というのは心細いもんなんだろう。いっつもこいつどうやって帰ってるんだ。

「別に普通だろ。お前可愛いし変なやつに目をつけられたら困る」

「こ、困る…?他の男の人から私が狙われたら困る?」

 え、なんでこの状況でそんな表情になるの?目がキラッキラしてるんですけど。

 期待するような眼差しを向けられても、俺は満足のいくような答えを返すことはできません。つーか困るでしょ。心配だわ。

 ただでさえ宝石みたいな整い方をした女の子なのだ。少々性格というか言動というか、そういったものに棘があるのは否めないにしても、彼女に興味を示す人物は少なくないはずだ。

「当たり前だろ。お前に目をつけてるやつなんかそこらじゅうにいそうなもんだが」

「そ、そう?お世辞は上手なのね」

 あ、ちょっと照れてる。可愛い。顳顬あたりの髪の毛をくるくると指先でいじってる様子は、先生に褒められるシャイな子供みたい。

 …俺が知ってる丸宮ってのはほんの一部だったんだな。

「丸宮って意外と表情豊かなんだな。教えてもらってるときにも思ってたけど、想像以上によく笑うというか」

「仏頂面の方が良かった?」

「そんなことない。知らない丸宮の一面が見えて嬉しいよ。俺の中での丸宮といえば、真剣な表情で常に机に向かう女の子ってイメージしかなかったし。いっつもすごく頑張ってる人だなってのは思ってたけど…なんかこう言ったら失礼かも知んないが、同い年の女の子なんだなって思ったよ」

「頑張ってる…って、思ってくれてたの?本当に?生意気なガリ勉とかじゃなくて?」

「な、なんだよ急に。近い、近いから」

「いいから!」

『頑張ってる』と口にした瞬間迫ってくる丸宮。小さな掌は俺の服の裾をガッチリ掴んでる…え。何?地雷踏んだ?

 とはいえ下手に嘘をつくとまともな状況には絶対ならないような気がしたので、そのまま続ける。

「生意気とか思うわけないだろ俺ができないのに…いっつも頑張ってるだろ。そうじゃなきゃあんな点数取れないし」

「て、点数が取れなかったら頑張ってることにはならないってこと?」

「なんで不安そうにしてるんだよ…別にそんなことはねえよ。点数は確かに努力の指標として重要視されるけど、それが全てを表すわけじゃない。俺は自習室をお前みたいに無茶苦茶使ってるわけじゃないけどさ。お前が誰よりも必死に問題解いて、質問しに行ってるのちゃんと見てるからな」

 目の前で興奮気味に詰め寄ってくる丸宮に動揺しながらも俺は言葉を続ける。

 あ、今目の前の信号赤になった。渡れたのに。

 若干ショックを受ける俺。でも丸宮にはそんなのどうでもいいらしく、俺の話を真剣に聞いている。

「…ふん。分かってるじゃない」

 で、聴き終わった後は満足げに鼻を鳴らす。なんだこいつ。

 なんかちょっと気になるので目の前にあるほっぺを微妙につまんでみる。

 お、柔らかい。

「なぁ丸宮」

「何よ。あとその丸宮ってのやめなさいよ」

 ほっぺには文句ないんかい。

 他の呼び方…あ、玲を見習えと?

「なぁマル」

「何?女の真似事?やめなさい」

 違ったらしい。しかもなんかメラメラ燃えてそうな雰囲気。

「…どう呼んで欲しいんだよ」

「そんなのアンタが考えなさいよ」

「…結衣?」

「…悪くないわね。結衣ちゃんって呼びなさい」

「ちゃん?」

「…嫌?」

 急に上目遣いを始める丸宮、もとい結衣ちゃん。

 なんかこう、一気にキャラ変わったなこいつ。

 正直周りから何言われるかわかったもんじゃないので困るんだが…面白そうではあるので乗ってみる。

 体制を変えて彼女の耳元に口を持っていって囁く。

「結衣ちゃん」

「な、何よ…一応用件があるなら聞いてあげるわ」

 すっごい照れていらっしゃる。一週間前の俺が見たら絶対目の錯覚を疑うレベルだ。俺の知っている丸宮…じゃなかった、結衣ちゃんはほんの一部でしかなかったらしい。

 …これ元の呼び方に戻すとどうなるんだろ。

「丸宮」

「うっさい、ゴミ屑、生きてる価値なし」

 なんだこの変わりよう。もはや丸宮という呼称は許されなくなってしまったのだろうか。もはや別人格が宿ってすらいるかもしれない。

 丸宮という勉強に集中する真剣な生徒。

 結衣ちゃんという歳相応の反応を見せる女の子。

 …でもこの歳で女の子のことちゃん付けて呼ぶの恥ずかしいな。もっと俺が年上だったりしたら適切なんだろうけど、同年代だし。

「そんなに丸宮って呼んだら怒るのかよ」

「おこる」

 ぷんぷんと頬を膨らませて怒りをあらわにする結衣。ラインスタンプにしたら文字を何も入れなくても怒っているという意思表示ができそうだ。可愛い。

「でも俺が塾で、みんなの前でお前のこと『結衣ちゃん』って読んだらどう思う?」

「恥ずかしいに決まってるでしょ……って確かに困るわね。これ」

「ようやく気がついたか。このままだとお前のことを呼べない。困る」

 俺が呼ぶたびにこんなに照れてると意思疎通もままならない。

 結衣サイドも困るだろう。あまり照れる姿は見られたくないだろうし。



「…じゃあ私と二人だけの時は結衣ちゃんって呼んで。それ以外は丸宮でも妥協するから」



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