第66話 『当然』の冷たさ

「こ、こうか…ぬっ、うぅ…丁寧にこう動かすんだな…?」

「あっ…もうすこし優しく…」

「そう、なのか…?こんなに大きいの…はじめてで…」

 それはそうだろう。普通はこんなになんて扱わないし、持っている人だって少ないはずだ。でも大は小を兼ねる。

 大きくて立派な物に対応できるなら小さなものだって余裕のはず。折角教えるならそれくらいはできるようになってもらわないと教え甲斐がない。

「優しくだな…滑らせるように引いて…むっ、難しいぞ宮野…」

「だめです、よ…将来殿方のためにしてあげなきゃいけないときがきっとくるはずですから。ここで練習しておきましょう…?もし今日で上手くできるようにならなかったら俺が何回だってに付き合います」

「あ、ありがとう宮野…面目ない。本当は大人のあたしがやってやんなきゃ、いけねーのに…。あたし、教えられるばっかで…」

「大丈夫です。知らないことを知ろうとすることの何が恥ずかしいんですか。何回でも最初から俺が教えてさしあげます。だから肩の力を抜いて…?」

 少し小柄な黒髪の女性の背後に立ち、抱きしめるような形になっている高校生。優しく耳元で囁かれるたびに、黒髪の女性はびくりと身を震わせて耳を朱色に染める。

 震える手つきになれば一回り大きな掌がしっかりとその手を掴み、正しい動作へと修正する。おおよそ教師と生徒間で行われるような行為ではない。

 そしてそれを咎める者は何処にもいない。そう、いないのだ。いわば禁断の領域。性域サンクチュアリと言い換えても構わない。

 誰もが息を呑み、注目してしまうような状況にあっても二人は冷静で全力だった。

「――いたっ、っつ…結構いったなコレ…」

 の上に血がこぼれ落ちる。具材から出ていた水気と混じり合ってその色は薄まって広まる。白いまな板の細かな傷をたどるようにして広がるその紅は大地にしみる雨水の如しだ。

 …なんて詩的に表現している暇もない。冷水で洗って絆創膏だ。本当は消毒もするといいんだけど別にお肉とか扱ってるわけじゃないし大丈夫。物理的な方は少なくとも。もっと重要な方は精神的な、メンタル面に対するダメージ。つまるところ包丁を扱うことに忌避感を覚えてしまうことが問題なのだ。

 子どものころの経験が将来を形作ると言われていることの根幹には『第一印象』というものがその後を左右するという性質が隠れている。

 例えば今回の例でいえば、ほとんど包丁を使って料理をしたことがない黒崎香蓮せんせいという人間が、初めて扱った包丁でケガをしたとする。

 そうすると『また怪我をしてしまうのではないか』という恐怖や固定観念などの形成を助長してしまいやすい。それによってやる気が削がれたり、怖さからよりその行為に距離をとろうとしてしまうこともある。

 だから正直スタートにしてこれは重大な問題であると思ったのだが…。

「わりぃ宮野、絆創膏取ってくれ。あたしは洗っとくから」

 そういってキュイ、と子気味いい音を立てて蛇口をひねると、銀の管から透き通った液体が流れだし、シンクに跳ねる。そこに傷口を晒した先生が「いてっ」と顔をしかめたのは見なかったことにしよう。

 手早く緑十字の印が付いた白い救急箱の隅に入っていた指用の絆創膏を取り出してフィルムをはがす。

「あ、貸してくれ。それぐらい自分で貼れる。流石にそんなお子ちゃまじゃない」

「そういうのいいんで。ティッシュ渡すんでこれで水気きってから指出してください。俺が貼ります」

「子供扱いすんなっ、ての!気持ちはそりゃあ、嬉しいけど…でもなんか悔しくて」

 気持ちは分かる。先生にも大人としての意地や矜持プライドっていうものがあるんだろう。俺だって年下の子にこうやって教えられたらちょっと悔しい。

 けどそういうのは本当に必要ない。得意な人が苦手な人に教えることなんていくらでもある。それは先生の職場である学校でだってそうだ。むしろそういった学び舎ではその活動を促進しなきゃいけない。

「練習中なんですからいいんですこういうのは。自分でできるようにならなきゃいけないことは教えますが…別にこういうのは人に頼ったっていいんです。上手になればこういうケガだって減ってきますから」

「そういう…もんなのか?」

「そういうもんですよ。ささ、もうすこしで完成ですから頑張りましょう?」

 そういうと先生はこくこくと頷いて再び包丁を手に取った。

 当たり前のことだって思うかもしれないけどこれは実はすごいこと。俺が同じ立場なら同じようにできたかは分からないと思う。姉さんが教えるときは本当に時間をかけてくれていたから怪我をするころには料理が一通りできるようになっていた。

 だから俺の場合は怪我をすることと料理への忌避感は結び付かないのだが、先生はそうじゃない。

 先生は本気で頑張ろうとしてる。なんだかんだいろいろ言われ続けて来たのかもしれない。知らんけど。こうして俺がいろいろ教えずとも、包丁の持ち方から火加減、

 分量など、なんでもかんでもこの先生は聞きに来ただろう。

 だからこそ俺は応援したい。少なくとも先生が妥協するか諦めるかをするまでは。

 結局のところエゴかもしれないが、そのエゴでも突き通せば何らかの形は帯びてくるに違いない。

「指が伸びてますよ。先生。何事も基礎からです」

「分かってる…いや、そうだな。ありがとう。猫の手、だな?頭ではわかっちゃいるんだがどうにも体が上手く…動かなくてな」

「分かりますよその気持ち。自分も最初は姉に何度も注意されてました。普段あんなにふわふわしてるんですけど、本気で何かをするときは妥協を許さない人で…」

「意外だな、あの人何も考えて無さそう…ってーとまた違うか。なんかその、だな。なんやかんや甘やかしてくれそうなタイプな気がしてた」

 作業をする手は見る方がはらはらする程に拙いけれど、お話の方は順調だった。黙々と作業を集中して行うことが悪いとは言わないけれど、プロじゃないならその辺は気を張りすぎる必要はない。料理は楽しくやってこそだ。

 その楽しみ方はそれこそ十人十色なわけだが、分かりやすいのはこうしてお話しながら作業することだ。家事が仕事になってはもったいない。自分たちの事をしてる間くらいは気楽にいくことが大切なんだ。







「朝ごはんできてるよー!」

「今日のご飯はアヤくんですか?ありがとうございます!死にます」

「しなないで、おねえちゃ」

「テンション高いですなぁ、いいことですぞ」

「ママも久しぶりに元気あるから原稿やっちゃおうかしら!」

「主。青少年の前でお仕事の話はおやめください。教育に悪いです」

「別にいい。アタシはそういうの気にしない」

「…?なんだっけ?宮野の母さんのお仕事って。今日も綺麗ですね」

「お母さんの事褒められるとおねぇちゃんも鼻が高いわぁ」

「大丈夫かなぁ…変なとこあったら怒られるかな…」

 わいわい、がやがや。そんな言葉が表現として完璧であろうか。皆が食卓を囲み、朝ごはんを食べている。今日の朝ごはんは卵焼きや納豆、味噌汁にごぼうのきんぴら、ホウレンソウのお浸しといった一般的なメニュー。ちなみに作ったのは俺と先生。

 先生が恥ずかしいからって言う理由で内緒にしとくように指示されてるから何も言わないけど、人が頑張った分が自分の評価になるのって微妙な気持ちにはなるよね。

「ねー宮野!おかわり!」

「はいはい…箸の持ち方が違うのとあんまり溢さずに食べろってのだけ伝えとくぞ…?別に料理は逃げやしないから焦って食うなよ」

 まぁ別にいいですけど。丁寧に食べた方がお上品ですわよ。

 その点近衛は正反対だ。スポーツやってるから結構食うのかと思ってごはんはいっぱい用意してたんだが、どうやらおかわりの様子は無いみたい。背筋を正して礼儀正しく食べてる。余ったら余ったで活用の仕方はあるから構わない。

 そして普通にびっくり…いやよく考えると当たり前なんだが、灯がめちゃくちゃよく食う。最初は物足りなそうに茶碗を眺めているだけだったのだが、姉さんに声をかけられて初めて遠慮せずに食べるようになった。

「おにいちゃ、いっぱい食べても、おこらない?われ、悪い子じゃない?」

「いっぱい食べるがいい。つーかきくのは明川にきいたほうがいいぞ。こいつの金で食ってるんだし」

「はー?水臭いこと言うなよ嬢ちゃん。好きなだけ食えよ、腹減ってんだろ?」

 こくこく。

「じゃあ食えよ!とりあえず迷ったら食っとけ。いつ食えなくなるか分からないんだ。明日死ぬかもしれんしな。死ぬ時になって後悔したってどうしようもねえってじいちゃんが言ってたぞ。じいちゃんも自分の残した遺産で人を腹いっぱいにできたら幸せだろ、多分」

「あり、がと…ございますっ。おにいちゃ、おかわり」

「ごめんママちょっと泣けてきた…年を取ると敵わんね…」

 ちょっと俺も胸が暖かくなった。もうこの気持ちだけでおなかいっぱいって感じまである。嘘です。食べます。

 でも本当に俺はいい友人を持ったと思うよ。

 そんな感じでみんな思い思いに食事を楽しんでいた。ちなみに姉さんは納豆を嫌な顔をして遠ざけてる。姉さんは色々食事に関して調べようとするし、その価値を理解しようとしてるけどどうしても納豆だけはだめみたいだ。仕方ないね。人間だからね。

 先生の方はというと、こちらも特殊だ。すっごい人の食べる様子を気にしてて肝心の自分の食事ができてない。何度目になるかはもうわからないが、やっぱり印象と違った。普段はきっちりしてて家でも完璧だと思ってたんだがそれは思い込みだったらしい。

「変な感じ…してないかな…」

「どうしたんすか、先生。やけにそわそわしてますね」

「だってお前っ、気になるだろ…?そりゃ食材を切るのと簡単な味付けくらいしかしてないけど…」

「だめですよ」

「いやそうかもしんねーけど!気になるじゃんっ!」

「違います。人の話は最後まで聞いてください」

 この言葉は灯の受け売りなんだがな、それでもまぁ伝える価値はある。俺自身の言葉に置き換えるんだ。先生はこの状況でなんかこう、子犬みたいに丸くなってる。別にそれはそれで魅力的な女性ではあるんだが、にしたって縮こまってるのは良くない。

 だって俺は先生の助けになろうと決めたので。

「なんだ、お前、あたしに説教でもする気じゃ」

「いやまぁそうなんすけどね」

 皆食事を終えて散らばっていった空間。この家を利用するときの決まりとして自分のことは自分でする、というものがある。別に誰かがしたくてするのは構わないが、特にそうじゃない場合には自分で料理から片付けまですべてすることになっている。

 そのため皆は今流しか割り当てられた部屋か散歩かでいなくなっていて、食事の進んでいない先生と少しまだ残っている俺の二人しか食卓には残っていない。

 なので多少は説教でもしたって別にいいでしょ。

「その、自分をすぐに貶めるのやめません?そうやって自分は大したことはしてない!って言って自分はすごくないって言うの」

「だって実際――」

「実際にどうかなんてのは正直どうでもよくてですね。もちろん自分自身の意見をもって、謙虚に取り組む姿勢は大切なことです。ですが結局こういうのって自分が上手になりたくてやってるわけですよね。だったらまず自分を褒めましょうよ。

『これしかできなかった』って落ち込むより絶対『これができた!』って褒める方が楽しいしその行為を好きになれます。好きこそものの上手なれってのは本当で、自分がやりたいって思えるものはすごく上手になるんです。逆も然り。

 だからそんなに落ち込まないでください。自信をもってとは言いません。自信はやっているうちに自然と付随してくるものですから。だからどうか自分をほめてください」

「そう、か?でも、ほんとにそうでもないって思っちゃうんだよ、あたし」

 俯きがちに俺の言葉をかみしめる先生。別に責めてるつもりはないのであまり凹まれても困るのだが。正座の形で綺麗に折りたたまれた足の上で拳を握り、力を入れて感情を整理している。その瞳はあらぬ方向に何かを探すように泳いでいて、憂いを帯びているように思えた。

 多分怒ってるんじゃなくてどうすればいいのか分からないという状況なのだろう。

 何もそれは恥ずかしいことじゃない。誰だってそう思うことはある。

「じゃあ、こうしましょう。俺が先生を褒めてあげます。初心者ながらもすごい頑張ってる先生の姿はとても素敵でしたよ」

 そういって意を決して先生の頭に手を置いて髪の毛の流れに沿って撫でてみる。怒られたり嫌がられたりするかな…とも思ったけど、大人しくされるがままになってくれているからしばらくこうしていよう。

「不器用な手つきでしたが、まだ見ぬ誰かのために、そして自分自身のためにそういった技能を磨こうとする精神は本当に尊敬に値します。前も申し上げたかもしれませんが、自分ならケガをした段階で放り投げているかもしれません。それでも手を抜かず、ひたむきに慣れない作業と向き合うのはとても大変なことなんです。だからそれができる先生はすごいんですよ。偉いです」

「…っ、うぅ…」

「…泣くほど嫌でしたか、申し訳ありません気が付かず、シャワーでも浴びてこられますか?俺の手で触れられたままじゃ嫌でしょうから――」

「――違うっ!そう、じゃない。いっつも、あたしできるのが、当たり前って思われてて、っ…!そうじゃなきゃ、変だって…ずっと言われてたから…わりぃ、生徒にこんな話…」

「続けてください。お願いします」

 こんな風に弱さを見せてくれるというのは人間が相手に心を許したときだけだ。人間というものは警戒している相手の前ではぼろを出さないようにできている。

 ぼろを出したり口を滑らせたりするということはどこか自分の中で相手に心を許しているということなのだ。だからここで無理やり心を閉ざさせるのは互いによろしくない。俺だってもっと先生の事は知りたい。

 それは変な意味じゃなく、人として。偶然出会った二人の人間として興味を持ち、相手と友好関係を築きたい、そう思っている。だから。

「先生のこと、もっと教えてください。知りたいんです。どんな人生を生きて来て、何が嬉しくて、何が悲しいのかまで。お願いします」

「…っ、だからそのっ、あんまり褒められたことなくて…、親にもミスばっか責められて、っ…だれもあたしを褒めてくれなくて…っ、だからあたしがせめて誰かを褒めてやろう、って…教師になったんだっ!」

 そう、だったのか。

 確かに先生の言葉にあるように、先生は基本なんでもできそうな雰囲気を出している。てっきり俺は先生が実際にそういう風になんでもできるのか、自分から意図して何でもできるような雰囲気を出しているものかと思っていたが、そうじゃなかった。

 その雰囲気というかオーラみたいなものはもともと生まれつき持っているもので、そのせいで今までずっと苦労してきたんだ。その経験が先生に褒めるという行為の存在、ひいてはその温かさというものを見失わせてしまっていた。そういうことなんだろうさ。

「先生が必要以上に生徒を叱ろうとはせず、どんな生徒にも歩み寄って褒めようとするのはそういう理由があったからなんですね」

「う、っ…ごめん、宮野…あたし、もっと頑張らなくちゃいけないのに、生徒にもっと広い世界を見せてやんなきゃ、いけないのに…情けない姿ばっか見せてて…」

「情けない…?ここまで努力して前を向こうとしている人を情けないだなんて馬鹿にするやつがいたら、俺はぶん殴ってやりますよ。努力している人に文句を言っていいのはそれ以上に努力した人だけ。そして努力したやつは絶対同じように努力している人を馬鹿にはできないんです。その苦しみを知っているから。

 …だからそんな風に苦しまなくてもいいんですよ。『頑張れ』だなんて無責任なことは言いません。もう十分頑張ってるんですから。たまには弱音を吐いたっていいんです。だれも褒めてくれないって言うなら飽きるほど褒めてあげます。

 ――よく頑張りました、少し休憩しましょう」

 しばらくは先生は嗚咽を漏らしていた。そんな彼女の頭を優しく撫で続ける。その双眸から零れ落ちる涙はきっと裕福な家庭で、どんな苦しみも味合わないままのうのうと生きてきた俺みたいな人間には共感できない。言葉だってどこか薄っぺらいし、心に届くかどうかすらわからない。

 そして、だからこそ届けたい。安らぎを、優しさを、ぬくもりを知っている人間にしか紡げない言葉で、凍った心を少しでも、溶かしてあげたい。

 それが俺にはできるんだから。

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