第30話 アヤくんはいつだって

「…鬼?」

「…ひぇぅ」

 目の前に座り込んで嗚咽を漏らしている少女を見て、俺の中に生まれた印象はそれだった。彼女を百人が見たとしたならば、百人が同じ感想を抱くだろう。

 浅黒いが絹の様に柔らかそうな肌、それとは対照的な剛健な印象を抱かせる角。

 鬼と言えば古今東西の伝説に名を連ねる怪物の代名詞だが、彼女の瞳はどこまでも無垢で純粋だった。

 そう、きっと花を手折る事さえ躊躇ってしまいそうな心優しき少女。そんな感じ。

 けれど彼女の肌には少女に相応しくないいくつもの生傷が垣間見えた。

 裂傷、擦過傷、挫傷…ランタンで照らされたいくつかの傷からは血液が溢れ、ぬらりと舐めるように光を反射しているのが実に生々しい。

 背後にいる二人の少女も目こそ逸らさないものの激しく動揺しているのが背中越しにでも伝わってくる。

 しかしこの場で一番動揺しているのは何を隠そう、この少女に他ならない。

 目には恐怖や悲しみではなく困惑が浮かんでおり、腰を抜かしたまま後ずさりを試みてすらいる。

「…さ、ない…」

 僅かに口が動いた。くぐもっていて一部しか聞こえなかったが、その言葉には只ならぬ感情が込められていた。

 場に緊張が張りつめる。

「殺さないで…おねがい…なんでもするからっ…あなた達の相手だって一生してあげるから…っ、ご飯ももらえなくたっていい、だから命だけは…ぁ」

 絶句した。たった今、目の前の自分よりいくつか年若い少女は何と言った?

 聞き間違えでないのであれば、それは実現してはならない願いだ。

 だってそんなの、はならない。その扱いは人間に対してふさわしいものではない。そんなものは奴隷だ。

 飼育され、管理され、利用されつくして殺されるために在る命ではないか。

 少なくとも、現代社会にあって良いものでは到底無い。けれども目の前の少女はそんな命でさえこいねがった。この意味がどれだけのものなのか、明確には論じえない――が、許すべからざる悪であることに微塵の差異も存在しない。

 守らなければ。出会った。出会ってしまった。正直に話そう。

 出会いたくは無かった。自分が育ってきた世界にこんな認識、意識、思想がある事を認めたくは無かった。

 けれど出会ってしまった。目の前で救いを求められてしまった。殺さないでほしいと願われてしまった。それも傷だらけの年下の少女から。

 であれば。

「もう、大丈夫。君は俺が助けるから」

 こういう他はあるまい。偽善者であることは世界で一番自分が理解している。結局今しがた起こした行動も目の前にある弱者の力になりたい、そんな自己満足で利己的な思考によるものだ。決して世界全員を幸せに、なんて崇高な願いじゃない。もっと小さくて情けなくて、おまけにくだらない意地に他ならない。


 それでも尚、手を伸ばさずにはいられない。これはきっと俺の人間としての性だ。

「にぃちゃんに任せとけ、なんとかしてやる」

 絶望に歪んだ表情をする少女のくすんだ金髪をそっと撫でながら努めて明るい口調で語りかけると少し安堵したかのように表情が柔らかくなった。

 尤も、次の瞬間には四肢から力が完全に抜けて気絶してしまったようだが。

「…その子、どうするの。宮野クンのことだからあたしは何も言わないけど。

 きっとアクシデントは怒ると思うよ。別に見捨てろって言ってるんじゃない。けど、どう見たってこの子の角は…信じがたいけど、鬼だとしか思えない」

「…アヤくん。私も佐原さんと同意見です。最終的な決定権はアヤくんにあります。ですが、この子の存在はきっと不幸を呼びます。あらゆる噂、ゴシップ、悪評がアヤくんを苦しめると思います。私は別に構いませんが、アヤ君にその類の攻撃が行われるのはあまり賛同できません。例えば里親なんかに…」

「…ごめん。二人とも俺の事を考えてくれてるってのはよく分かる。心配だって。この子のことも大切に思った上での発言だってことも。

 だから、これは俺のエゴだ。自己満足の利己的な正義感。いいことをした気持ちになりたいだけって言われたらそれだけなのかもしれない――」

 だが、それでもなお。

「――でも、いや、だからこそ貫きたいんだよ。目の前でこんな風に苦しんでる自分より幼い子がいるんだ。確かに世界中の同じ境遇の子達に全く同じように向き合えるかと問われたら、答えは否だ。けど、目の前の助けを求める声が聞こえてるのに、ほかの人にその存在を預けて自分はもう何も気にしない…そんなことができるほど器用じゃないんだよ、俺は。

 頼む。許してくれとは言わない。





                        見逃してくれ」



























 *****

 きっとこれは私の嫉妬。人間として生まれた時点で付き合っていかなければならない負の感情。今まではほとんど感じることが無かった感情だったけれど、この感情という物は非常に厄介なものらしい。


 だって――いい人であるはずの佐原さんも、悪い子ではないはずのこの鬼の子も、優しいおっとりしたお姉さんでさえ――




「…邪魔だなぁ」




 そんな風に思ってしまった。思えるようになってしまった。

 私はこの歪み切った感情を、どうすればいい。ねぇ。アヤくん。

 アヤくんはそう、いつだって…傍にいてくれるよね?

 *****



 運命は。歪み始める。

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