わんざ

成実 希

 高一の夏、姿を消した母親が、まともな恋も知らない息子の元に、女の匂いをさせて帰ってきたーーー

 夏休みの校庭は、佐和田さわだ純一じゅんいちの体を足元から焦がした。

 砂が敷かれた地面からの照り返しが思いのほか強く、純一は上原うえはら茉美まみから逃れるように、校庭の隅に一本だけ植えられた桜の木陰に入った。

 興奮した茉美も口を閉ざすことなく純一の後をついてくる。もう随分前から、彼女が何を話しているのか、純一の耳には全く入ってこなかった。

 桜の大木には何匹もの蝉が止まっているらしく、その鳴き声が幾重にも重なる。

 途切れることのない一定の音は、静けさと紙一重だ。

 音源に近づく時に意識はするが、鳴りっ放しの音の中ではそれが基本的なバックグラウンドノイズとなり、いつしか気にならなくなる。

 純一の頭の中はすぐに無音になり、パクパクと口を開く茉美の顔だけが視界に入っていた。

 「ねえ、何とか言ってよ」

 茉美の口がそう動いたように見えて、純一は「わかった。いいよ」とだけ答えた。

 「本当に、いいのぉ!」

 茉美が口を尖らせた。彼女は目の前までにじり寄ってくると、純一の腕を掴んで揺さぶった。

 「夏休みだよ。もう高校生なんだし、一泊くらい、いいじゃない。私と遊びに行くの、そんなに嫌? 別れてもいいって思うくらい? おかしいよ、純一。そんなに家の手伝いが大事なの?」

 無音だったはずの世界に、突如、茉美の声が響いてくる。どうやら純一は、「一緒に遊びに行かないなら別れる」とでもいうような彼女なりの究極の選択に、あっさり同意したようだった。

 「俺、遊ぶ時間も金もないって、最初に言っただろ」

 「わかってるよ。だから放課後とかにちょっと話したりするだけで、デートもしたことないし、プレゼントが欲しいって言ったこともないでしょ。だけど夏休みだよ。ちょっとくらい遊びに行ったって、お家の人、許してくれるんじゃないの?」

 「だから、そういうことじゃなくてさ‥‥」

 「水着、買ったんだよ。すごくカワイイの。純一に見せたくて買ったんだから」

 十分前にも聞いた話だった。また同じ話が繰り返されるのかと思うとうんざりする。

 茉美は押しが強い。欲しいものにはどこまでも食らいつき、決して諦めない。彼女にとって純一もその一つだったのだろう。休み時間のたびに教室に押しかけ、それでも相手にされないと、自転車置場で待ち伏せた。

 「彼女と遊ぶ時間も金もない」と断る純一に、「学校で会うだけでもいい」と言い、さらに「誰とも付き合う気はない」と返すと、「彼女だなんて思ってくれなくていい」と、それ以上断りようのない答えで純一を追い詰める。逃げる口実も与えない余りの執拗さに、純一は根負けしたのだった。

 熱を帯びた大気の中で、花柄のビキニだとか、ハイレグだとか、純一を煽る茉美の声が、再び遠くなっていく。

 徐々に反応が乏しくなっていく純一に、茉美はさらに詰め寄ろうとした。そして一歩踏み出したローファーの下で、何かが潰れるのを感じた。それは青白い羽を閉じたまま、殻から半分だけ体を出した蝉の死骸だった。

 「もう、やだッ。最悪ッ!」

 ヒステリックに叫ぶと、ローファーの裏を何度も地面に擦り付ける。それでも足元から上がってくるぞわぞわとした感触を拭いきれず、苛立ちが増幅してきた。

 「もういい。純一とは別れる。マジ最低ッ!」

 茉美はそう言い放つと、校門に向かって駆けて行った。

 純一の耳に、再び蝉の鳴き声が響いてくる。

 太陽が一段と高くなり、気がつけば純一の靴の爪先まで熱線が照射していた。

 その先に転がる潰れた蝉を求めて蟻が列をなしている。純一は蝉の死骸を摘み上げると、草むらに投げ入れた。ターゲットを見失った蟻は忽ち列を崩し、新たな行き場を求めて散っていった。


 工場のドアを開けると、蒸し上がった赤飯の匂いが純一を包み込んだ。

 蒸し暑い夏の外気よりも、さらに温度も湿度も高くなった空気を、胸いっぱいに吸い込む。ほのかな醤油の香りが、祖父の富夫とみおが作る赤飯の出来の良さを教えてくれた。

 この辺りの赤飯は、小豆の煮汁に米を浸した赤いおこわではない。小豆の代わりに金時豆を入れた醤油ベースの味付けで、目出度いことがなくても食卓に上る。古い食習慣と切り離されて、日常的に食されていた。

 佐和田の家は古くから続く餅屋だった。

 母屋に連なる工場で、正月用ののし餅や慶事用の祝い餅、餅菓子や赤飯を製造販売する。

 工場内には竃がいくつも並び、十人近い職人たちが朝から晩までもち米を蒸した。特に杵つきの餅は人気商品で、年末には農閑期の男たちを臨時で雇わなければ注文を捌けないほどだった。

 だが純一が小学校に入った頃から家業は徐々に先細り、今では八十歳に手が届こうという祖父母が細々と赤飯だけを作っていた。それでも大手の工場で大量生産されるものより美味しいと評判で、隣町のスーパーに卸したり、近隣の家庭からの注文を受けたりと、仕事が途切れることはなかった。

 母屋にまで流れてくる赤飯の匂いを、純一は疎ましいと思ったことがない。

 味付けは醤油と酒と砂糖だけという極めてシンプルなものだが、富夫は地元のあらゆる製造元から調味料を取り寄せ、独自の調味液を作り出していた。それをその日の気温や湿度に合わせて分量を加減する。調味液を含んだ米と金時豆は、ヒノキの和蒸籠で蒸し上げられ、鉄釜では出せない風味を赤飯に加えた。

 シンプルだからこそ一定の味を保つのが難しい赤飯が、昨日と同じ味に仕上がる。それは、この家がまだ安泰であることの証しのように、純一には思えた。

 「へえ、帰ってきたがあ」

 工場に入ってきた純一に、富夫が声をかけた。

 「うん。ちょっと学校に用事があっただけらすけ」

 「せっかくの夏休みらねか。ゆっくり遊んできてもいいがあよ」

 純一はそれには答えず、「うまそうらね」と、たった今テーブルの上に降ろされた蒸籠を覗き込んだ。つやつやとした米の一粒一粒がぷっくりと膨らみ、適度な粘度と食感を想像させる。

 富夫は手袋をしたまま、そのひとつまみを純一の口の中に押し込んだ。

 「なじら?」

 「うまい。豆の柔らかさも調度いいね」

 「そうらろ。今日も上出来らて」

 富夫は自分の仕事に満足そうに微笑んだ。

 「俺、着替えたら配達行ってくるすけ」

 そう言って工場を出ようとする純一を、富夫は引き止めた。そして大きな前掛けの脇から作業着のポケットに手を入れると、中から四つに折りたたまれた千円札を取り出した。

 もう片方の手で純一の手を掴み、蒸気で湿った千円札をしっかりと握らせる。

 「どいが?」

 「ちっとだけど、小遣いにしれて」

 「いいよ。毎月ちゃんと貰ってるし、今月分もまだあるすけ」

 「婆さんがああなってから、おめさんに、しかも手伝わしたすけさ。取ってけて」

 戸惑う純一に千円札を押し付けると、富夫は次の蒸籠の準備を始めた。

 純一は「ありがとうございます」と大声で礼を言うと、自分の部屋に戻って札の皺を掌で丁寧に伸ばした。そして机の引き出しの中から菓子の空き缶を取り出し、まだ手をつけていない今月分の小遣いと一緒にしまいこんだ。


 祖母の治子はるこはひと月ほど前から腰を痛めて床に伏せっていた。

 工場の入口のわずかな段差に足を取られ、濡れた床で滑って腰をしこたま打ったのだった。幸い骨折に至らずにすんだが、その日から赤飯のパック詰めや配送、帳簿の整理など一切の仕事が富夫の肩にのしかかった。

 それまで純一には一切手伝いをさせたことがない富夫だったが、さすがに一人で賄える量ではなかった。見兼ねた純一の申し出を有り難く受け入れ、材料の下準備と配達を頼むことにした。

 純一は幼い頃こそ祖父の仕事を興味深げに見ていたが、いつしか工場へ立ち入らなくなっていた。工場は富夫にとっての聖域であり、子供が気安く踏み込んではいけない場所であると、次第に思うようになったからだった。

 それもあって、富夫に頼りにされることが、純一の自尊心を少しだけ高めていた。

 「婆ちゃん、腰、なじら?」

 純一が声をかけると、奥の寝室で寝たきりの治子は背を向けたまま手招いた。

 「純ちゃん、窓開けてくれて」

 エアコンは体が冷えると言って、いつもは古い扇風機をつけているだけなのだが、富夫がここのところの暑さを心配したのだろう。室温は快適に保たれていたが、外熱を遮断するためにカーテンが閉められた部屋は、真夏の昼間と思えないほど暗かった。

 「外、暑っちいよ」

 純一はジリジリとした外の暑さを思い返したが、それ以上に気が滅入りそうな部屋の暗さに、思い切って窓を開けた。

 一斉に蝉の鳴き声がなだれ込んでくる。代わりにつけた扇風機が、その鳴き声に負けじとブーンブーンと音を立てた。まだ涼しい室内の空気が、窓から勢いよく流れ込んできた空気と攪拌される。

 「ああ、生き返ったて」

 治子は両手を上げて伸びをすると、窓の外の柿の木に目をやった。

 「今年はいっぺえ、留まってるがらねか。ワンワンいって、やかましいがぁ。純ちゃんはもう、わんざ集めてねえがぁ」

 「子供の頃の話しらろ。もう集めてねえて」

 「そうらねえ、もう高校生らもんねえ」

 純一は窓から身を乗り出して柿の木に手を伸ばすと、腰板のなかほどの高さについている蝉の抜け殻を摘んだ。

 樹皮が程良く剥がれた古い木は産卵するのに適しているらしく、夏の夕方などに、蝉が尻と尻を突き合わせて交尾しているのを見かけることがある。そして幼虫になった後も、よほど安心できる場所なのか、この柿の木で脱皮する蝉は少なくなかった。

 わずかでも力を入れたら粉々に崩れてしまいそうな抜け殻を、純一はそっと手のひらの上に乗せた。

 背中がパックリと割れ、主を失った抜け殻は、無事に成虫になった証だ。なかには脱皮の途中で力尽きたり、天敵に襲われて命を落とす蝉も少なくない。土の中で幼虫のまま長い時間を生き、子孫を残すためだけに命をかけて地上に出てくる。抜け殻は、地上での一つ目の危機を乗り越えた印なのだと、純一は父親に聞いた覚えがある。

 「今年はずっと涼しかったすけさあ、ここ二、三日で急に鳴き出したみてえら」

 手に取った抜け殻を柿の木の木の股に置くと、純一はそう言った。

 「そうかねえ。暑っちいなるが、待ってたんらね。だあすけ、こんな昼日中から、必死んなってメス呼んでるがぁよ。ほかの蝉に負けんようにしねえと、メス捕まえらんねえすけさ」

 「蝉のオスは競争力激しいすけね」

 「そいがぁよ。メスは一回しか交尾しねぇろう。オスはいろんなメスとするくせさぁ。まぁんで、オスは人も蝉も一緒らこてね」

 「爺ちゃんは違うろ」

 「そいがぁけどさあ。人間のメスもいっぺんに、しかも産めたらいいがぁけどねえ。婆ちゃんも、もう一人ぐれえ、無理しても産んどけばさぁ‥‥」

 治子の顔が曇る。体の自由が利かなくなってからの治子は、どんな話をしても、最後には『もう一人産んでおくべきだった』という後悔の念を口にした。

 産卵の話のあたりからその流れがよめた純一は、「人間が蝉みたいに何百個も産んだら大変だろ」と、笑い飛ばしたくなる気持ちを抑えた。

 治子はただ、純一に親族の一人も残せなかったことを申し訳ないとでも思っているのだろう。老いてなお、それほど悔いの残る気持ちに、純一は軽口を叩けなかった。

 「もう、窓閉めるよ。今日はしかも、暑っちいなるすけ」

 純一が窓を閉めると、フィルターがかかったように蝉の鳴き声が和らいだ。だが治子は、磨りガラスの向こうに消えた蝉の姿を、いつまでも見ているようだった。


 川風の強さにハンドルを取られそうになりながら、純一は自転車のペダルを漕いだ。

 日本一の長さを誇る大河に架かる橋は一キロ以上に及ぶ。夏は涼を感じられる絶好のポイントだが、強風になると逃げ場がない。それでも行きにダンボールを積んで走った時よりは、はるかにバランスが取りやすかった。

 軽自動車で川向こうのスーパーに行く治子に代わって、純一は富夫の古い自転車で配達に行っていた。高校の入学祝いに買ってもらったクロスバイクでは荷物が積めないため、やむを得ずママチャリに乗ったのだが、クロスバイクに比べて走りが重く、荷物のバランスをとるのにも手こずった。

 こんな時、十五歳という年齢が恨めしい。車の免許も取れなければ、たいていのバイトの募集は十六歳以上ときている。お前はまだ子供なのだと、自分が無力であることを思い知らされているようだった。

 誕生日が来たらバイクの免許を取ろうかと、純一は考えてみた。だが免許を取得した途端、富夫がバイク屋を家に連れてきそうな気がして、すぐにその考えを振り払った。これ以上、祖父母に経済的な負担をかけたくはなかった。


 純一が配達から戻ると、工場に富夫の姿はなかった。

 家の玄関にまわると、女物の靴が入り口を向いて二足並んでいる。ヒールのないフラットシューズとローファーは、どちらも若々しいデザインで、富夫や治子の客にしては珍しかった。

 配達が終わったことを伝えようと、居間の障子戸を静かに開くと、仏壇に手を合わせていた女が振り向いた。

 「純一? 純一よね」

 女は不意に立ち上がった。カーディガンの長い裾が広がり、柑橘系の香水の匂いが部屋に広がる。富夫が鼻を押さえ、顔を伏せた。

 女は両手を広げ、純一に真っ直ぐに向かってきた。その手が両頬に伸びてくるのを察知して、純一は後ずさった。派手な化粧をした女の顔に、見覚えはなかった。

 怪訝そうに距離をとる純一に、女は言った。

 「忘れちゃっても仕方ないか。もう十年も経っちゃったものね。私も年をとっちゃった」

 行き場を失くした手を自分の両頬に当て、女はわざとらしく嘆いてみせた。

 「玲子れいこだ」

 富夫が抑揚のない声で言う。

 女はにっこり笑って、純一の手を取った。

 「大きくなったわねえ。でも、あの頃の面影は残ってる」

 純一は、女の顔をぼーっと見つめた。

 この人が、俺の母親‥‥。

 子供の頃に抱いていた母親のイメージと、目の前に立つ女の姿が一致しない。派手な花柄のワンピースで着飾り、長い付けまつ毛をパタパタと瞬かせる女が、自分の母だというのか‥‥。

 いつか対面する日が来ることを、想像しなかったわけではない。子供の頃はすぐに迎えに来てくれるものと待ち焦がれ、思春期には絶対に会ってやるものかと反発した。だがどんな時も、想像の中の母は自分の過ちを悔い、純一に泣いて許しを請うた。

 「ごめんねえ。お母さんを許してくれてえ」

 あるいは、

 「許して欲しいなんか言わんねえて。だあろも、純一の傍にいさせてくれてえ」

 そう謝罪する母に、自分はどう答えるだろうかと想像し、そのたびに正解を探してきた。

 ところが実際に目の前に立つ女は、自分のしたことを悪びれる風もない。そのギャップをどう埋めるべきか、純一にはわからなかった。自分は怒るべきなのか。それとも失望して無視を決め込めばいいのか。幾つもの感情が心の底で渦を巻き、取るべき行動が決められない。

 それに何より、年をとったとはいえ母親の顔を覚えていなかったことが、純一にはショックだった。想像の中で純一に縋り付く母の泣き顔が、ひびでも入ったようにパラパラと崩れていく。

 「嫌だなあ。そこまで変わってないつもりなんだけど」と、玲子はやはり嘆く風を装ってみせた。そして、「花純かすみはどう? 覚えてるでしょ?」と、傍に座る少女の肩を抱いた。

 花純は二歳年下で、別れたのは彼女が四歳になったばかりの頃だったと思う。コロコロと太っていて、ゴム鞠のように跳ね回り、どこに行くにも純一の後をついてきた。時々足手まといになって突き飛ばしても泣きもせず、すぐに笑顔をつくって純一の機嫌を取ろうとする。その作り笑いのいじらしさに、結局放っておけなくなるのだった。

 目の前の少女に、もはやその面影はない。細い体で背筋をピンと伸ばし、凛として純一を見上げる。少女の方も、純一に対して何らかの情を感じているようには見えなかった。

 純一が無言で会釈すると、少女もそれに合わせた。

 「仕方ないか。二人とも小さかったしね。でも心配ないわ。血を分けた兄妹なんだし。昔みたいに、すぐに仲良くなるわよ」

 部屋を覆い尽くすぎこちない空気を気にする様子もなく、玲子は明るい声でそう言った。

 「婆さんにも、挨拶して来なせや」

 富夫は、そろそろ仕事が気になりだしたのだろう。柱時計を見て玲子にそう言うと、テーブルに両手をついて立ち上がった。夕方、足腰が辛くなった時の富夫の仕草だった。

 「工場に戻るがけば、俺も行くすけ」

 純一が富夫に声をかけたのは、力仕事の手伝いが必要だろうと思っただけではない。玲子と花純を目の前にして、今だに態度が決められない自分の逃げ場を、工場に求めたからでもあった。

 だが富夫は、それを制した。

 「今日はもう、手伝いはしんでいいすけ。おめさんは、一緒に婆さんとこ行けて。そいで、二階の客間に二人の布団を敷いてやりなせ」

 富夫が居間を出て行くと、純一は二人を見ずに「こっち」と、奥の寝室へと向かった。

 古い廊下の羽目板がギイギイと音を立てる。純一と会った時とでは勝手が違うのか、玲子は花純の手を取り、黙りこくったまま純一の後に従った。わずか十数メートルが、純一には長く感じられる。

 純一は襖を開けるとやや言葉につまり、「婆ちゃん、お客さん」とだけ言った。『母』と『妹』という言葉を、まだ本人たちに重ね合わせることができなかった。

 「どちらさんらろかね」

 治子は純一に体を支えられてゆっくりと体の向きを変えると、玲子の顔に目を見張った。そして、「おめさんは、向こう行ってれて」と純一を追い出した。

 純一はその言葉に安堵した。暫くすると治子の大声が聞こえてきたが、どんな言葉で罵っているのか聞くまでもない気がした。


 居間の柱時計の音が、二階の純一の部屋まで響いてくる。いつもなら気にも留めない音が、妙に耳についた。

 建て付けの悪い窓を開ける音。扇風機のスイッチを切る音。布団を捲る音までが、客間から聞こえてくる気がする。夜九時には寝静まる祖父母の部屋からは聞こえることのない音だった。

 布団に入って目をきつく閉じても、純一は寝付けずにいた。

 すると客間のドアが開き、ドタドタと二人分の足音が近づいてきたかと思うと、純一の部屋のドアが開いて、明かりが点いた。

 パジャマを持った玲子と客用の布団を抱えた花純が、入り口に立っている。

 「階段から落ちそうになっちゃった。廊下も階段も真っ暗なんだもん。あの階段、客間の真正面だったのね。あんな低い手すりじゃ危ないわよ。ねえ、純一、そう思わない?」

 玲子のテンションは、昼間会った時と変わらなかった。気まずさを隠すために、富夫の前で虚勢を張っていたのかもしれないと、善意に受け取ろうとしていた純一はますます混乱した。ここに至っても、想像とのギャップを埋めようとしている自分が、急に愚かに思えてくる。

 「何か用ですか?」

 「久しぶりに一緒に寝ようと思って。ほら、積もる話もあるでしょ。夕食だって、せっかく家族水入らずで食べようと思ったら、純一、急な配達が入ったとかでどこかに行っちゃうんだもん。お義父さんはお義母さんと食べるっていうし、結局、花純と二人で駅前のレストランに行ってきちゃった。あんなところに、おしゃれなお店ができたのねえ。ここら辺も随分変わって‥‥」

 「出てってください」

 純一は、できるだけ感情を抑えて言った。

 「頼むから、出てってもらえませんか」

 「やだ、照れることないでしょ。それに、その敬語。他人行儀で、傷ついちゃう」

 悪びれもせず、女子高生のような口ぶりで話す玲子に、純一は呆れた。自分の母親は、こんな無神経な女だっただろうか。子供の頃の記憶を辿ろうとするが、それらしい玲子の姿は何一つ浮かんでこない。

 「その匂い、部屋にこもると困るすけ」

 純一は、玲子が入ってきた時から、昼間と同じくらい強い匂いを放つ香水が気になっていた。だが玲子は、純一が何のことを言っているかわからないとでもいうように首を傾げると、自分の服をクンクンと嗅ぎ、匂いの元を探ろうとした。

 「香水のことじゃない」

 無愛想に、花純が言う。

 「ええ? あっ、もしかして、彼女に誤解されたくないとか? 大丈夫よ。この程度の匂い、移り香にもならないわ」

 「違う。その匂いで、鼻がやられるすけ。昼間、爺ちゃんも鼻押さえてたろ。工場には絶対行くなよ。仕事の邪魔になるすけ」

 「ああ、そうね。そうだったわね」

 玲子は、漸くこの家のしきたりを思い出したようだった。だが大人しくなった玲子とは逆に、花純が感情を高ぶらせた。

 「行くわけない、工場なんて。呼ばれても行かないし、第一、私たちをあの人が呼ぶわけない」

 「花純、お爺ちゃんのこと、あの人なんて言わないで」

 玲子が嗜めても、花純は返事をしなかった。そして右手の指先を包むように左手で強く握った。

 その仕草に、純一は幼い頃の花純の思い出が蘇ってきた。

 子供の頃、純一にとって工場は遊び場だった。玲子は仕事の邪魔になるからと度々純一を引き止めたが、ドアの外から覗く彼を富夫は手招いた。そして大きな鉄釜の脇に小さな木箱を置くと、純一をその台に上がらせて、ふつふつと煮える金時豆の鍋を覗かせてくれた。

 「どうら? 美味そうに煮えてるろ。純ちゃんも大きくなったら、こうやって豆煮るかね?」

 「にるッ」

 「父ちゃんは会社勤めが良いがらすけ、純ちゃんは爺ちゃんと餅拵えようなあ」

 「うん、こしらえる」

 当時はまだ職人が何人もいて、純一がおうむ返しにするのを、「良い跡取りができそうらねか」と囃し立てたりした。そして、餅の切れ端を焼いてくれたり、休憩時間には遊び相手になってくれたりもしたのだった。

 だが花純が歩けるようになって、どこへ行くにも純一の後をついて回るようになると、富夫は純一を工場に入れなくなった。

 少しもじっとしていない花純の安全や、衛生上のことを考えれば当然のことだが、工場だけが遊び場だった純一にとっては、唯一の楽しみを奪われたも同然だった。

 花純が三歳になった頃だった。

 純一は彼女が寝入ったのを確かめると、工場に向かった。

 昼休みの工場は誰もおらず、蒸籠から上がる湯気で白く煙っていた。

 純一はテーブルの下に片付けられていた木箱を釜の脇まで持ってくると、豆が煮えるのを覗き込んだ。ぷっくりと膨らんだ豆が小さな泡に転がされ、踊っているように見える。ただそれだけのことでも、純一は見飽きることがなかった。

 暫くして台から降りると、背後に花純が立っていた。開けっ放しにしていたドアから入ってきてしまったのだろう。花純は純一を真似て、木箱に足をかけようとする。

 「花純はダメ!」

 純一がそう叫んで花純の手を強く引っぱると、彼女は尻餅をついて大声で泣き出した。

 その声に気付いた富夫が飛んできて、釜の前で手足をバタつかせる花純を怒鳴りつける。

 「また、おめえは、こんなとこで遊んで。痛い目みんと、わからんがあけぇ」

 そう言って花純の右手を掴むと、その指先を鉄釜の縁に押し当てた。「ギャーッ」と、まさに火がついたように花純は喚いた。

 富夫が何故、そんなふうに花純を懲らしめたのか、純一には理解できなかった。

 確かに花純はまだ分別のない幼子で、躾けは必要だったのかもしれない。だが、他に方法があったのではないか。それに、花純が工場に来たのはドアを閉め忘れた自分のせいだ。そもそも誰もいない工場に入ってはいけないと、ずっと前から聞かされていた。罰を受けるのは自分の方なのだ。

 なのに自分は、泣き叫ぶ花純をただ見ているだけだった。

 小さな過去の記憶が、純一の心に棘を刺す。

 あの時、既に父親は亡くなっていたが、玲子が富夫にどのような態度をとったのか、純一は知らない。躾けだとしてもやり過ぎだと抗議したのか。それとも舅には従うしかなかったのか。

 花純はそれ以来、工場に近づかなくなり、富夫の前では一言も言葉を発しなくなった。

 まだほんの幼子だった花純にあの時の記憶があるとは思えなかったが、無意識に体が覚えているのだろうか。目の前で右手の指をさする花純が、純一には急にいじらしく思えた。

 「ねえ、エッチな本って、どこに隠してるの? 彼女の写真も飾ってないし、年頃の男の子の部屋らしくないじゃない」

 やけにベッドの下を覗き込んでいると思ったら、純一の男子としての成長に、玲子は興味を示していた。

 「そんなものないよ」

 「じゃあ、彼女は?」

 「いない」

 茉美のことは一切、頭になかった。別れ話を切り出された後だったからではない。仮に付き合っていたとしても、玲子に話すつもりはなかった。

 「もうすぐ十六歳になるっていうのに、つまらない子ねえ」

 それは意外な言葉だった。

 自分の存在など忘れてしまったかのように何の音沙汰もなかったのに、ひと月後の誕生日を覚えているのか‥‥。

 「花純はねえ、もう彼氏がいるのよ。バスケ部のキャプテンで、女子の人気投票ではいつもトップ3に入る男の子。その子に告白されたのよ。ねえ、花純」

 花純は気まずそうに、黙って頷いた。

 「彼氏ができてからますます綺麗になっちゃって。最近、胸も大きくなってきたみたい」

 玲子はそう言いながら、Tシャツの下に隠れた花純の未発達な胸を両手で持ち上げた。花純は「もう、やめて」と、身をよじってその手から逃れようとしたが、玲子はしつこく戯れついた。

 性に対して明け透けなところは治子に似ているのかもしれないと、純一は思った。父は、母親と似た性質の女と結婚したのだろうか。だが玲子にどんな魅力を感じたのか、今の姿からは理解できなかった。

 「私もまだまだイケてると思うんだけどなあ」

 玲子は花純の体を弄りまわすのに飽きると、今度は自分の両胸を持ち上げた。大人の女のたわわな胸が、襟ぐりの広いブラウスの胸元から覗く。

 目のやり場に困った純一は、いよいよ我慢できず、「もう出てけて」と語気を強めた。そして客用の布団をくるくる丸めると、廊下に放り出した。

 玲子は「本当、つまんない子」と言ってまだ居座ろうとしたが、花純に背中を押されて部屋を出て行った。

 純一は窓を全開にして座布団を振り回した。香水の匂いで淀んだ空気を追い出したかった。だが鼻腔に溜まった酸っぱいレモンの香りは、どんなに息を吐き出してもいつまでも消えなかった。


 翌日、朝食の時間になっても、玲子と花純は起きてこなかった。少なくとも数年間はこの家の嫁として生活していたはずなのに、この家の生活習慣に合わせるつもりはないらしく、家事をしようとする気配もない。それが一層、玲子への態度をあやふやなものにさせた。

 純一は、起きてこない二人を放って、治子がいる奥の寝室に三人分の食事を運んだ。

 治子が動けなくなってからの食事は、主に純一が作っていたが、魚を焼いたり、出来合いの惣菜を買ってきたりと、簡単に済ませていた。

 三人の食事は会話もなく、テレビのニュースの音だけが薄く聞こえる。それは純一が子供の頃から変わらない。食事中は喋るなというのが富夫の教えで、話好きの治子もそれに従っていた。

 だがこの日は、誰もが押し黙ることを自分に課しているようだった。口を開くと感情を制御できなくなってしまいそうで、玲子の顔を見るなり大声をあげた治子も、純一が口元に運ぶスプーンを黙って口に入れていた。

 工場では何かと純一を気にかける富夫も、その日は黙々と仕事をした。

 純一に豆の炊き具合を確認させることも、米の分量を計らせることもない。話しかければそれなりに答えてくれるが、互いに玲子の話題に触れることはなかった。

 昼近くなって純一が家に戻ると、玲子が冷凍庫のドアを開けて、氷を頬張っていた。

 「この家、暑いわねえ。田舎だから、もっと涼しいかと思ってたのに。夜中に何度も目が覚めちゃった」

 その言葉が、この土地を離れて長いことを物語っていた。

 「エアコン、つければ良かったろ」

 どこに住んでいるのか聞く代わりに、純一は言った。

 「花純が寒がるのよ。今時の若い女の子は体温が低いのかしらねえ」

 「朝飯は?」

 「うちは、朝食べないから」

 玲子の言葉に宿る悪気のない棘が、いちいち純一の心に突き刺さる。やはりこの女に近づいても何も良いことはないのだと、バランスを崩しそうな心に言い聞かせる。

 「そう‥‥」

 そのほかの言葉を飲み込んで、純一は冷蔵庫の中を覗いた。

 昨夜作った大根の煮物と、コロッケの残りがある。あとは今朝の味噌汁を温め直せばいいだろう。三人の食事ならこれで充分だ。自分は今まで通り、爺ちゃんと婆ちゃんとの生活のことだけを考えればいい。

 スカスカの冷蔵庫の奥から流れてくる冷気が、純一の気持ちを鎮めてくれる。

 だが玲子は、そんな気持ちなどお構いなしに、思いついたように口を開いた。

 「あっ、でもお昼は美味しいもの食べたいし、少し町を見て回りたいから、純一、一緒に出掛けない?」

 胸の奥に押し留めていた思いが飛び出してこないように、純一は注意深く答える。

 「俺、爺ちゃんの手伝いがあるすけ」

 「そんなこと言わないで。お願い。ねっ、ちょっとだけ。ちょっとだけなら平気でしょ」

 玲子は純一の手を取り、自分より背が高くなった純一を見上げてねだるように言った。

 その甘えた仕草に、抑えていた感情が苦い胃液とともに上がってくる。

 純一は、不意に掴まれた手を「放せて」と振り払った。振り払われた玲子の手が、戸棚のガラスにぶつかり、小さなひびを入れる。

 「どうしても、行かなきゃいけないところがあるの」

 玲子は赤くなった手をさすり、俯いたままそう言った。


 昼食の準備をしてから出かけるつもりで、純一がコンロに火を点けると、富夫が「そんげん、しんでいいから、早く行けて」と、玲子と出かけるように促した。富夫は純一の意に反して、玲子といる時間をつくってやろうと気を遣っているようだった。

 仕方なく、純一がタクシーを呼ぼうとすると、玲子は「その前に、ちょっと寄り道」と言って、大通りまで歩いた。通りの左右を見回し、少し歩いてはまた引き返す。その後を花純がいちいちついて回った。

 「何探してるがあ?」

 目的が分からず駆り出された純一は、いい加減苛ついて玲子に尋ねた。

 「この辺に酒屋さん、あったよね。名前‥‥何だっけ」

 「ああ、菊屋酒店。コンビニになったがあ。酒ならコンビニでも売ってるよ」

 「いいお酒が欲しいの、一升瓶の」

 「あそこのコンビニならあるて。菊屋さんがオーナーらすけ」

 純一がそう言うと、玲子は来た道を戻り、すっかり様変わりしたコンビニに入っていった。

 照りつける真昼の太陽から逃れるために、純一も店の中に入ろうとしたが、自動ドアのボタンに手をかけてやめた。玲子の顔を見た店主が不快そうな表情をするのが、店の外からでも見て取れたからだった。

 小さな町だ。玲子が帰ってきたことなど、すぐに町の噂になるだろう。そしてその噂に自分も巻き込まれることになる。また鬱陶しい日々が訪れるのだ。

 純一はため息をついた。

 店の中で酒選びに迷っている玲子を、店主はレジの奥から眺めていた。

 佐和田の家とは古くからの近所付き合いをしていて、純一が買い物に行けば、「賞味期限が近けえんだぁさ」と、内緒で惣菜を袋に入れてくれる。「コンビニの赤飯なんて食えたもんじゃあねえて」と、週に一度は赤飯を注文してくれる、気のいい店主だった。

 その彼が、玲子に近づこうともせず、ただ静観している。それは、好奇の目というよりは、忌むべきものと関わりにならないよう注意しているという目だった。

 自分は何か大切なことを忘れているのではないか。

 純一は遠い過去の何かに不安を覚えた。


 喧しいほどの蝉の鳴き声が、体感温度をさらに上げる。密集した住宅街にあって何本もの大木が立ち並ぶ寺の境内も、蝉が逃げ込む恰好の場所となっていた。

 佐和田家の墓は、川沿いの土手を背に建つ寺の一画にあった。

 日傘をさした玲子が、参道の玉砂利に足を取られてよろける。すると、片手に一升瓶を下げた花純が、もう片方の手ですかさず玲子の腕をとって支えた。

 コンビニから一升瓶を抱えて出てきた花純に、純一は「持とうか」と声をかけた。だが花純は「平気」と断った。まるで母からの大事な預かり物を触らせまいとでもするように思えて、純一はそれ以上声をかけるのをやめた。

 母娘とは、何か特別な関係性の上にあるものなのだろうか。

 献身的に映るその姿に、純一は思った。

 父の墓参りに行くことを知らされたのは、コンビニの前でタクシーを呼ぼうとした時だった。「確か、花屋さんはお寺さんの前にあったわよね」と、玲子が聞いた。

 「もうすっかり変わってるんだもん。お父さんのお墓、わかるかしら」

 玲子が甘えるように純一を見上げる。純一は聞こえないふりをして、目の前に止まったタクシーの助手席に乗り込んだ。

 長い参道を通って墓地の入り口まで来ると、玲子は「思い出したあ。こっち、こっち」と、日傘をくるくる回しながら小走りで花純を呼んだ。花純は、「走らないで」と、日陰のない墓地の中を重い酒瓶を抱えて玲子を追った。

 二人が墓に向かうのを見送って、純一は寺に備え付けの桶に水を入れた。一気に捻った蛇口から勢いよく放出された水が、辺りに飛び散る。

 「わぁっ!」

 思わず出た場違いな大声に、純一は自分でも驚いた。どこか気持ちが高揚している。その時は、太陽にキラキラと輝く冷たい水の粒のせいだと思っていた。

 純一が水桶を墓に持って行くと、花純が墓石に落ちている葉っぱや花びらを手で払っていた。どこからか風に吹かれて飛んできたのだろう。蝉の抜け殻が一つ、花立てに引っかかっている。

 「わんざらね」

 純一の言葉に、花純と玲子がキョトンとした。

 「何、『わんざ』って」

 玲子が聞く。今度は、純一が首を傾げた。

 「わんざ。それ。蝉の抜け殻のこと、『わんざ』って言うろう?」

 「初めて聞いたわ、そんな言い方。方言かしら。でも、お年寄りにしか通じないんじゃない?」

 「父さんも言ってたろ。俺、父さんに教えてもらった気がする」

 「そうだったかしら。よく覚えてないわ。でもきっと、川のこっち側だけよ、そんな方言使うの。実家のあたりじゃあ、そんな言い方しないもの」

 玲子は、川の向こうの農家の生まれだった。地理的にそう離れた距離ではなく、川の両岸の町は、ほぼ同じ歴史を歩んでいる。現在も同じ市内で、方言もほとんど変わらないはずだった。家や集落によって訛りの程度や使う頻度は多少異なるが、全く通じない言葉があるというのを、純一は初めて知った。

 そして同じ家の中で共通しない言葉があるということに、何とも言えぬ違和感を覚えた。

 別々の慣習で育った二人が、結婚して一つの家庭をつくる。二つの慣習はいずれ混ざり合い、新しい家の慣習となるのではないか。それとも夫の家に入ることで、妻は古い慣習を捨てるのだろうか。

 高校生の純一に夫婦のことなど想像しようもない。だが、わずか数年でも佐和田の嫁であった玲子が、家族の共通の言葉をもたず、標準語のイントネーションで話すのを聞くと、初めから家の慣習に染まる気などなかったのではないかと思えてくる。

 何でもないように見える家の中の小さな亀裂が、時を経て徐々に大きくなっていく。その亀裂を跨いで両方のテリトリーで生活することはできないのかもしれない。

 「そういえば、うちの実家、どうしてるかな? まだ畑やってるかしら」

 柄杓で墓石に水をかけながら、玲子が聞いた。

 「知らない。付き合いねえすけ」

 「そうか。そうだよね。お互い、気まずいよね」

 『お互い』じゃないだろ、と純一は口元を結んだ。母として嫁としての務めを勝手に投げ出したのは玲子であって、佐和田の家は一方的に迷惑を被ったのだ。

 嫁が逃げたことは、すぐに町中の噂になった。その頃ちょうど職人が一人辞めたこともあり、その男と駆け落ちしたという噂も立った。いつの間にか客足が遠のき、縁起が悪いと慶事用の餅菓子の注文は全く途絶えた。

 買いに来る客がなければ職人の仕事も無くなる。腕の良い和菓子職人が店を去り、餅菓子の質が落ちて売り上げが落ちる。いよいよ給料が遅配するようになって、さらに職人が辞めていく。

 どうにもならない事態に頭を抱え、富夫は辛うじて隣町のスーパーに赤飯を卸すことで、工場を守ってきたのだった。

 詳しい事情は知らされなかったが、純一は大好きな工場の活気が徐々になくなっていくのを目の当たりにしてきた。

 そして彼自身、母親に捨てられた子供として、暫くの間、同情と好奇の目で見られた。

 だが近所の子供達が大人達の陰口を真似て囃し立てても、「全部嘘だすけ、信じんなて」という富夫の言葉に従った。どちらの言葉が嘘かなど、追求してはいけない気がしていた。

 そんな歳月を、半ば他人事のように話す玲子に苛立ちが沸き起こる。水を汲みながら感じていた気持ちの高ぶりは、もう純一の中から消えていた。

 「享年、二十七歳かぁ」

 墓誌を見て玲子がため息をつくと、「若かったんだね」と、花純が呟いた。

 「私の方が年上になっちゃった。こっちは嫌でも年をとるっていうのに、お父さんだけズルイよね。私もまだ二十代なら良かったのになぁ。ほんと、花純の若さが羨ましいよ」

 「私は‥‥」

 言いかけて、花純はやめた。口をキッと結んで、溢れそうな言葉を飲み込んだ。

 きれいに洗い流した御影石の表面から、水分がみるみる蒸発していく。

 二人に続いて純一も手を合わせたが、父に話すことは何もなかった。報告も、期待も、願いも、したところで何も変わらない気がして、ただ無心に手を合わせた。


 寺の裏の土手を登ると、視界が一気に開けた。どこまでも続く土手の下には、豊かな水をたたえた川が流れている。川風がさやかに吹いて、玲子のスカートの裾を揺らした。

 緩やかな斜面の草の上で玲子が腰を屈めると、花純はバッグからタオルを取り出して、玲子の尻の下に敷いた。

 「河川敷の橋の下で、学校帰りにお父さんとよくデートしたの。学校が違ったから、どっちかが来るまでずーっと待ってた。会えた日は手帳に丸をつけたりして。あれはあれで楽しかったな」

 河川敷のサッカー場を駆け回る若者たちを見て、玲子は言った。

 「でも夏休みになると、会えなくなるのよねえ。畑仕事を手伝わなきゃいけなくなるから。それでもどうしても会いたくなって、夜、家まで押しかけたこともあった。お父さんの部屋の窓ガラスに小石を投げて、気づいてくれるまで待ってたのよ」

 玲子は隣に座る花純に向かって話しかけたが、花純は黙って足元の草をむしっていた。

 父親の直己なおきが亡くなったのは、純一が五歳の時だった。交通事故だったと聞いている。純一は棺の中に横たわった父の姿を薄っすらと覚えているが、きっと花純は記憶にないだろう。

 子供の頃の写真は玲子が持って行ったのか、純一は見たことがない。玲子がいなくなった日から、玲子のことだけでなく、直己のことも話題にしてはいけない気がして、二人のことを祖父母に尋ねたことはなかった。玲子が花純に話して聞かせているところをみると、花純も父親の話はあまり聞いてないのかもしれないと、純一は思った。

 「私、もう本当に農家が嫌で、早く結婚したくて仕方なかったの。だから自分からプロポーズしちゃった。お父さん、まだ大学生だったけど、いますぐお嫁さんにしてって。私、高校卒業してすぐ結婚したのよ。なのに、呆気ないよね。私達を置いて逝っちゃうなんて」

 まただ。純一は思う。この人といると、忘れたはずの痛みを思い出す。玲子もまた、純一を置いていった人間であることに変わりはないのに。

 「俺、先に帰ります」

 純一の口調が冷たくなる。二人の後ろで川を見つめていた純一を、玲子は見上げた。

 「純一は‥‥、純一は、お爺ちゃんの仕事、継ぐの?」

 「わかりません。今は赤飯だけだし、経営していくのは難しいだろうから」

 どうでもいいように思える玲子の質問にも腹が立ったが、その程度にしか答えられない自分も苛立たしかった。

 「なんでそんなこと聞くんですか」

 「何故って‥‥、子供の頃の口癖だったから。お父さんはサラリーマンになったから、僕がお店を継ぐって。お父さんが休みの日も、ちっとも一緒に遊ばなくて、お爺ちゃんの膝の上から全然離れないんだもの。お父さん、すごく寂しがってたのよ」

 「子供の言うことなんて、たいした意味ないでしょ。それに父さんのことも、正直、あんまりよく覚えてないから」

 「そうかあ、意味なかったのかあ」

 ため息混じりに玲子は言った。そして今度こそ帰ろうとする純一を、再び引き止めた。

 「ねえ、どうして何も聞かないの。聞きたいこと、あるでしょ」

 純一は答えられなかった。何から聞けばいいのか。聞いてしまっても自分は冷静でいられるのか。これまで育ててくれた祖父母に悪いのではないか。頭の中でぐるぐると自問自答する。

 「そっちこそ、俺に話すことがあるんじゃないですか」

 暫くして純一がそう言うと、玲子は目を逸らした。

 「お腹すいちゃった。我慢してたけど、もう限界。純一、話はまた今度ね」

 玲子はそう言って、スカートの裾をひらひらさせて立ち上がった。尻に敷いていたタオルについた草を払うと、洗剤のような匂いに混じって草いきれが立ち上る。その時になって初めて、玲子が香水をつけていないことに純一は気づいた。

 夏の蒸せ返るような風に乗って、流れてくるほのかに甘い玲子の匂い。

 「いつまで、居るがぁ?」

 ふと玲子への質問が頭に浮かんだが、純一は言葉にしなかった。


 玲子が現れて以来、家の中の空気がピンと張り詰めていた。誰かの話し声や物音に敏感になり、自分が不用意に発した言葉が誰かの耳に入るのではないかと用心深くなる。祖父母と三人で暮らしている時とは別の静けさが家を覆い尽くしていた。それは夜になるとより露わになり、皆が息を殺して長い夜をやり過ごしているように思えた。

 だが玲子は別だった。かつての嫁は、実の娘が出戻ってでも来たかのように自由に振る舞い、その張り詰めた空気をかき乱した。

 純一が風呂から上がって自室に戻ると、玲子がタンスの引き出しを開けていた。驚いて「何?」と聞くと、「バスタオル、どこにあるの?」と聞きながら、なおも引き出しの中を物色する。「俺の部屋にはないよ」と、引き出しを閉めようとすると、玲子は中から黒いボクサーパンツを取り出して、「純一の勝負下着?」とニヤけた。

 「もっと派手なの履きなさいよ。女子受けするやつ」

 目の前にひらひらと翳されたパンツを、純一はもぎ取った。

 「バスタオル、後で持って行くすけ、先、風呂入れて」

 それでも立ち去りがたそうな気配に、純一は玲子の背中を押して部屋から追い出した。

 背骨を覆う薄い肉の感触が手のひらに伝わる。治子をマッサージする時に感じる弛んだ肉とは異なる張りのある皮膚の感触。茉美がペタペタと体をくっつけてくる時の感覚とも違う。

 手のひらがビリビリとするこそばゆさに耐えられず、純一は急いで階下に行くと、石鹸をつけて何度も手を洗い、乾いた喉に水を流し込んだ。

 「バスタオル、二人分、棚の上に置くから」

 客用のバスタオルを脱衣所に持って行くと、純一はできるだけ無愛想に風呂場の中に声をかけた。

 「ありがとう。純一も一緒に入らない? 背中、洗いっこしようよ」

 風呂場の中で玲子の声が反響する。

 純一がすでに風呂に入ったことも、玲子と入るなどありえないことも承知の上で、わざと怒らせようとしているとしか思えず、

純一はその誘いに無言で答えた。

 「ほんと、つまんない子ねえ」

 脱衣所にいる純一に聞こえるように、玲子は声を張った。

 その言葉も無視して部屋に戻ろうとした時、脱衣籠の中の下着が目に入った。パンティが小さく畳まれ、その上に二つの山型の形のままブラジャーが置かれている。カップが大きく、ベージュのシンプルなデザインは、着ている服から想像できないほど地味だった。

 昼間、川風に乗って流れてきた甘い匂いは、何の匂いだったのだろう。

 純一はゆっくりと下着に鼻を近づけると、息を大きく吸い込んだ。

 あの時の匂いとは少し違う気がする。少しだけ、すえた匂い。汗か、体臭か、線香の匂いも混じっているだろうか。もう判然としないが、六歳まで嗅いでいた匂いも、こんな感じだったのだろうか。

 純一は、さらにクンクンと鼻を近づけ、ブラジャーのトップの膨らみに鼻先を擦り付けた。そして匂いを嗅ぎすぎて感度が落ちた鼻を離すと、歯を立ててやさしく噛んだ。自分がどんな記憶を辿ろうとしているのか、純一にもわからなかった。

 その時、脱衣所の扉が音を立てて開いた。

 「変態ッ」

 侮蔑の目で睨みつけた花純が、押し殺した声で罵った。

 純一は、「違う。誤解だ」と花純を追いかけた。だが、花純はその手から逃れようと、家の中を闇雲に歩く。古くなった家の廊下がギイギイと軋んだ。富夫と治子の耳にも聞こえているのではないかと思うと、純一の体が緊張する。

 祖父母が眠る奥の部屋に近づきそうになった花純は、急に方向を変えると二階に上がっていった。花純もまた、純一とは違う理由で二人を気にしていた。

 「待てって。待てって言ってるろ。花純!」

 客間に閉じ籠ろうとする花純に、純一は思わず名前を呼んだ。すると花純は踵を返し、純一に凄んだ。

 「呼び捨てにしないで。名前を呼ばないで。変態のくせに!」

 「違う。あれは‥‥」

 そう言いかけたものの、言葉が続かない。自分にさえ理解できない行動を、説明できるはずもなかった。

 「兄弟なんていらない。今までずっと幸せだったのに。どうしてこんな家に来なきゃいけないの」

 花純は高ぶる感情を無理に抑えようと声を落とした。だが、一度口をついて出た言葉を止めることはできなかった。

 「アンタの事なんて覚えてない。この家の記憶もほとんどない。あるのは、この家が嫌いだったってことだけ。今もそう。みんな大っ嫌い。もう帰りたいよ」

 花純が興奮するほど、純一は冷静になっていく。

 そうか。この家を離れても、ずっと幸せだったのか。だからあの人はあんなに能天気で、人生を謳歌しているように見えるのか。

 純一は、花純の言葉がストンと腑に落ちた。

 いつまで居るかなんて、聞かなくて良かった。聞いたところで何も変わらないと、自分に言い聞かせたばかりじゃないか。

 それでもつい期待してしまう自分の甘さを、純一は戒めた。


 玲子と花純は毎日昼頃起きてきて、昼食をとりに外出しては、夕食が終わる頃に戻ってきた。

 墓参りの帰りに、玲子は「また話そう」と言ったが、あの日以来、純一の部屋に来ることはなかった。

 脱衣所でのことを、花純が告げ口したのかもしれないと思ったが、それならそれで構わなかった。玲子がどう思おうと、誤解を解くほどのことではない気がした。

 富夫も玲子の存在を気にかけることもなく、いつも通り釜の前に立っていた。

 一つの家の中に二つの家族が生活し、互いに干渉しない。それが当たり前に感じられるようになった頃だった。

 純一が配達から戻ってくると、家の前に男が立っていた。長身の若い男で、体に合わないスーツが細い体をさらに貧相に見せる。男は生垣の前を所在なさそうに行ったり来たりしていたが、ママチャリを降りて隣の工場に入る純一と目が合うと会釈した。

 「誰かに用ですか?」

 飛び込みの営業か何かかと思い、純一は声をかけた。

 「ええ、花純さんに」

 中学生の花純と男の関係が想像できず、純一に不信感が芽生える。それを男も察知したらしかった。

 「今、携帯で連絡して、ここで待つように言われましたので」

 明らかに年下の純一に、男は敬語で話した。だがそれで警戒心が解けるわけはなく、純一はわざと語気を強めた。

 「俺の妹に、何の用でしょうか?」

 すると男は、急に笑みを浮かべた。

 「もしかして、純一君?」

 「そうですけど‥‥」

 「そうかあ、君が‥‥」

 「あの、どちら様ですか?」

 「ああ、失礼。僕、新村にいむらと言います。君のことはお母さんから聞いていて。一度、きちんと話をしたいと思ってたんだ」

 そう言うと、新村と名乗る男は胸ポケットから一枚の写真を取り出し、純一に見せた。

 裏庭の柿の木を背景に、子供の頃の純一と花純、そして若かりし頃の両親が写っている。

 玲子は子供達の目線に合わせるように腰をかがめ、尻を横に突き出していた。サイドにスリットの入った膝上のタイトスカートの裾が持ち上がり、細く長い足がひときわ目を引く。花純が保育園の制服を着ているところを見ると、父が亡くなる直前の写真だろう。玲子がこの若さで未亡人になったことを、純一はあらためて思い知らされた。

 「ウチとどういう関係ですか?」

 純一がそう聞こうとした時、花純が玄関から出てきた。新村は花純の姿を見つけると、待ち焦がれていたように駆け寄った。

 「連絡してくれてありがとう。心配してたんだ、急にいなくなるから。それで、玲子さんは?」

 「今、ちょっと出かけてて」

 自分たちの様子を近くで伺う純一を気にして、花純は言葉を濁した。だが新村は、ますます焦りを募らせた。

 「まさか、病院に行ったんじゃないよね。玲子さん、何でも一人で決めちゃうとこあるから。だとしたら、取り返しがつかないことに‥‥」

 「大丈夫。お母さん、そんなこと考えてないと思う。するなら、とっくにしてると思うし。第一、こんなところに来てないよ。戻ってきたら、ちゃんと電話させるから。敦史あつしさん、ホテルで待ってて」

 「そうだな。杞憂だな‥‥。連絡もらうまで、いろんなこと考えちゃってさ。でも、花純ちゃんの言う通りだよな。ダメだな、僕は。こんなだから頼りにされないんだろうな」

 「そんなことないよ。もう、敦史さんったら、本当に心配性なんだから」

 そう言って、花純は笑った。クシュッと鼻に皺を寄せる笑い顔は、子供の頃の作り笑顔のままだった。

 だが花純の話の何が作り話で、何が事実なのか。長い間離れて暮らしていた純一には判断できない。それに、新村が言った『病院』『取り返しが付かないこと』という言葉がやけに引っかかった。

 あの人は、何のために戻ってきたのだろうか。

 心の奥に無意識に押し込めていた疑問が、純一の中にぽつりと浮かんでくる。

 「じゃあ、また後で」と、新村が帰ろうとした時、工場のドアが開いた。工場から出てきた富夫は、振り返った新村の顔に目を止めると、何かを思い出したように顔を強張らせた。花純は反射的に、新村の後ろに隠れた。

 新村は富夫に真っ直ぐ向き直ると、「ご無沙汰してます」と、深々と頭を下げた。

 その姿に、純一は既視感を覚えた。

 それが新村だったかどうかは定かでない。

 工場の前で、若い男が富夫に頭を下げる姿。その鼻先で、ピシャリとドアを閉める富夫。啜り泣く女の声。そのぼんやりとしたイメージが浮かんでくる。それは現実だったのかもしれないし、いつか見た夢かもしれない。

 ただその時の視点が、富夫の傍からであったことは確かだった。

 富夫は新村を家に入れると、お茶を持って行った純一に、竃の火を落とすように言った。

 純一は工場に入ると、燃え盛る火に灰をかけた。グツグツと煮立っていたお湯は徐々に静まり、室内を覆っていた蒸気が冷え始める。テーブルには次の蒸籠の準備ができていた。

 昼日中から、竃の火が消える。それだけのことが、純一をひどく不安にした。

 暫く待っても、富夫が工場に戻ってくる気配はない。玲子や花純との関係も聞きそびれたままで、純一は自分だけが蚊帳の外に置かれている気分になった。

 待ちきれずに家に戻ると、花純が居間の外で聞き耳を立てている。純一と目が合うと、彼女はバツが悪そうに階段を上っていった。

 純一も外から様子をうかがってみるが、話し声は全く聞こえない。逆に、富夫がこちらの気配を察しているのではないかと気になって、自分の部屋で待つことにした。

 「あの人、お母さんの男だから」

 二階に上がってきた純一に、花純が唐突に声をかけた。

 「えっ?」

 花純が待っていたことにも、彼女の蓮っ葉な言葉にも、純一は驚いた。

 「知りたいんでしょ、敦史さんのこと。お母さん、いつまでたっても何も話さないし、話さないとずっとこの家にいることになりそうだから。ほんと、いざとなったらヘタレなんだから」

 「男って、付き合ってるってことか?」

 純一の質問に、花純は大袈裟に呆れてみせた。

 「ただ付き合ってるだけの男が、昔の嫁ぎ先まで女を探しに来るわけないでしょ。お母さん、敦史さんの子供を妊娠してるの。アンタにとっては、父親の違う兄弟ができるってこと」

 花純は吐き捨てるように言った。父親の違う兄弟ができるのは、花純にとっても同じはずなのに、自分と純一とでは立場が違うとでも言いたげだった。

 だが純一は、実感がわかなかった。何の衝撃も感慨もない。

 「どこかの知り合いの家に子供が生まれる」

 そう聞かされたのと変わりはなかった。驚きもしない純一に、花純はさらに続けた。

 「十年も一緒に暮らしてるんだから、今までできなかったのが不自然なのよね。もっと早くつくればよかったのに」

 「十年って‥‥」

 「物心ついた時から、私たちずっと一緒にいたの。六畳ふた間の狭いアパートで、ずーっと一緒」

 そして花純は、純一を挑発するように言った。

 「お母さん、敦史さんと駆け落ちしたのよ」

 駆け落ち。あの男と? そうか、あの男のせいで、母親は家を出て行ったのか。

 純一は、何故か冷めていた。男への恨みも、母親への怒りも湧いてこない。長い間、心の奥底でモヤモヤとしていた疑問が一つ解消したような、妙にすっきりとした感覚だった。

 父親の一周忌の法要が終わって間もない頃だったと思う。母と富夫が激しく言い争っていたのを、純一は覚えている。そしてその次の日、母は花純を連れて出て行った。自分は富夫に抱きしめられて、いつまでもその胸に縋り付いていた。あの時、富夫と治子が傍にいてくれなかったら、自分はどうなっていただろうかと、純一はこれまでも度々考えた。

 「子供ができたことを伝えるために、わざわざ来たのか、あの人‥‥」

 淡々と聞く純一に拍子抜けし、花純はまた吐き捨てるように言った。

 「って言うか、結婚の報告? 多分だけど‥‥。子供ができたら、籍入れないわけにいかないでしょ」

 そこまで聞いて、純一は漸く自分の立場を理解した。

 母親に別の家庭ができるということは、佐和田との関係が一切絶たれてしまうということだ。今まで幻として記憶の中に存在していた母が、実像を伴って現れたかと思ったら、今後は他人になるということではないか。

 既に離れて十年が経っているのだから、あらためて捨てられたところで傷ついたりはしない。そう頭ではわかっていても、どこか割り切れない思いが純一の心を縛る。

 「結婚だって、もっと早くすれば良かったんだよ」

 黙り込んだ純一のことなど気にも留めず、花純は独り言のように言った。

 「小さい時からいつも一緒で、お母さんがいない時も、遊びに連れてってくれたり勉強教えてくれたりして。家に下宿してるお兄さんだって、ずっーと思ってた。なのに今になって、子供ができたなんて言われて。‥‥マジ、告んなくて良かったよ」

 純一は、「兄弟なんていらない」と言った花純の言葉を思い出した。

 あれは自分のことだけでなく、新村との間にできた赤ん坊のことを指しているのではないか。新村が花純の淡い初恋の相手だとしたら、あの人は何て酷な宣告をしたのだろうか。

 「新村さんのことを忘れるために、彼氏をつくったのか?」

 純一がそう聞くと、花純は唇を噛んだ。

 「忘れるためっていうか‥‥当てつけ?」

 「誰に?」

 「二人に。カッコイイ彼氏見せつければ敦史さんが嫉妬してくれるかもしれないし、そういう敦史さんの姿見てお母さんが嫉妬するかもしれないし‥‥」

 「しないだろ」

 「だって、お母さん三十四だよ。男って、若い女に欲情するもんでしょ。私がきれいな大人の女になったらどうする? お母さんより私を選べば良かったって思うでしょ。そうなったらお母さん、絶対嫉妬するよ。でも私に彼氏がいたら、敦史さんは私に手を出さないだろうし、お母さんが誤解することもないでしょ」

 「手を出すって‥‥」

 純一は花純の言い草に呆れた。

 花純の話は明らかに矛盾していたが、それに気づかないほど彼女はムキになっていた。そもそも自分がきれいな女になると想定しているあたりが滑稽だった。

 だがそんな理屈でもつけなければ、これから先、新村を父親として受け入れることができないのかもしれないと、純一は思った。

 「それは嫉妬させたいんじゃなくて、あの人を安心させたいってことだろ」

 純一にそう言われて、花純が目を瞬かせる。

 小さい頃から母親だけを唯一の肉親として生きてきた花純にとって、玲子は絶対的な存在だった。だから玲子が新村の子を身ごもったと知った時も祝福しようとした。来たくもない佐和田の家にもついてきて、玲子の体を気遣い、新村には心配ないと伝える。玲子のいない世界など考えられなかったからだった。

 それを、記憶の欠片もなかった兄に言い当てられて、花純は気恥ずかしかった。

 「自分の気持ちも大事にしろよ。カッコだけで男を選ぶと後悔するぞ」

 「カッコだけじゃないから。後悔なんてしないから」

 鼻に皺を寄せて、花純は笑った。純一が知っている作り笑いだった。ふと、花純もずっと何かにしがみ付いて生きてきたのかもしれないと思うと、その笑顔に胸が痛んだ。


 暫くして、階下から玄関の扉が開く音がした。

 階段を駆けおりる花純の足音がして、純一も自室のベッドから飛び起きると、そのあとを追った。

 大通りの手前で新村に追いついた花純は、「敦史さん!」と叫んだ。振り返った新村は、花純のことを忘れていたようで、慌てて駆けてきた。その顔には疲れが滲んでいる。

 「何かあったの、あの人と?」

 「いや、何でもない。ごめんね、心配かけて。一度、ホテルに戻るよ。玲子さんが帰ってきたら、連絡くれるかな」

 「わかった。ねえ、ほんとに大丈夫?」

 「ああ、何でもない。ただ僕が焦りすぎてたんだなって反省してね。花純ちゃんは、何も心配いらないから」

 そう言って帰りかけた新村の視界に、純一が入ってきた。

 「純一君も、ごめんね。君とは、玲子さんと一緒の時に話をしたほうが良さそうだ。あらためて機会を設けてもらうよ」

 項垂れて帰ろうとする新村の背中に、純一は声をかけた。あらためて会う機会など来ないように思えた。

 「新村さん!」

 声を掛けたものの、頭の中は何も整理されていなかった。何をどう聞けば誰も傷つけずにすむのかと考えると、その先の言葉が出てこない。

 「純一君、また今度‥‥」

 新村が言いかけた時、純一は咄嗟に口を開いた。

 「生まれは、どこですか?」

 「えっ?」

 あまりに唐突な質問に、新村は戸惑った。その表情に、純一はしまったと思ったが、押し通すことに決めた。

 「ええーっと、そのー、新村さん、訛ってねえし、二人も方言とか話さねえすけ。‥‥ここら辺じゃあ、『蝉の抜け殻』のこと『わんざ』っていうがぁよ。新村さんは、何て呼ぶがぁかと思って‥‥」

 「‥‥『蝉の抜け殻』、だね」

 質問の意図を図りかねながらも、新村は答えた。

 「僕は、川の向こう、君のお母さんと同じ町の生まれだよ。方言は町を離れてから自然と使わなくなったかなあ。玲子さんも同じだと思う」

 徐々に距離を詰めてくる純一に、新村は言葉を選んで慎重に答えた。

 「あとは、玲子さんがいる時にゆっくり話そうよ」

 「そうですね‥‥すいません」

 「いや、僕の方こそ、ごめんね」

 新村はそう言うと、右手を差し出した。体が細いわりに、手のひらはゴツゴツとして分厚かった。握手をすると、純一の手はその手にすっぽりと包み込まれた。


 日が傾き始めると、蝉の鳴き声はますます勢いを増した。

 町の生活音が落ち着き始めるなか、メスを呼ぶのに適した気温になるまで待っていた蝉が一斉に鳴き始める。灼熱の下では、蝉も交尾しない。

 純一は、裏庭の柿の木を見上げた。木の高さは、新村に見せられた写真とさほど変わっていないようだった。だが木肌は所々剥け、根元は下草に覆われている。草をかき分けると、幾つもの蝉の抜け殻が仰向けに転がっていた。

 バカな質問をしたと思う。新村がどこの生まれでも構わないし、『わんざ』を知っていようがいまいが、どうでもいい。聞きたいことは、もっと他にあったのではないか。

 だが新村のその答えが、彼と自分が別の集合体に属していることを教えているように純一には思えた。

 玲子と花純と新村と赤ん坊‥‥。そこに自分は入っていないだろう。そもそも自分が属すべき集合体はあるのだろうか。

 つまらない思い込みだとわかっていても、心の中に芽生えた不安を拭い去ることができない。

 柿の木の根元でじっとしていた純一の視界の端で、何かが動いているのを感じた。窓から部屋の中を覗くと、治子が手招きをしている。施錠された窓の外から、「そっちに行くから」と手振りで伝え、純一は玄関に回った。

 「腰が痒くてしょうがねえてえ」

 部屋に入るなり、治子は言った。パジャマを捲ると、湿布の周りを掻きむしったらしく、ミミズ腫れになっている。

 純一はぬるま湯を入れた洗面器とタオルを持ってくると、尻までズボンを下げて、湿布を剥がした。

 治子の腰は肉がこそげ落ち、腰骨が浮き上がっていた。人生の盛りをとうに過ぎたその体に、皺だらけの皮膚が辛うじて張り付いている。少し力を入れると皮膚ごとずるっと剥けそうで、純一はタオルを押し当てるようにやさしく拭いた。

 「こって気持ちいいてえ。悪りぃねえ、こんな世話までさしてさあ」

 「何言ってるがぁて。湿布、暫く貼らんでおくね。薬塗っておくすけ」

 純一が、湿布を貼り続けて赤くなった皮膚に軟膏を塗ると、治子は聞いた。

 「誰かお客さんだったげらね」

 「新村さんっていう男の人」

 純一は隠さなかった。自分が言わなくても、富夫の口から聞かされるだろう。下手に隠せば、自分が気にしていると心配させてしまうことになる。

 「何だてがぁ?」

 「じいちゃんが話してたすけ、俺は聞いてねえがぁ」

 「玲子は一緒にいなかったがぁ?」

 「一人だった。‥‥一緒の時に話がしてえって言われた」

 その戸惑うような口ぶりに、治子は何を伝えるべきか迷った。

 新村のことは当然だが、これまで玲子についても話したことはない。当時六歳だった純一にどんな記憶が残っているのか、治子も富夫も確かめたことはなかった。いや、確かめるのが怖かった。

 「あれは‥‥、玲子は、高校の時分からモテてたみてえでさあ。純ちゃんの父ちゃんも、一目惚れしたんだて。でも内気なもんだすけ、声掛けらんなくてさぁ。そうしたら、玲子から言い寄られたんだってさ。あれはさあ、そういうところ気がまわるっていうんだかねえ。自分に気がある男を捕まえるがぁが、上手んがこてさ」

 治子は探るように話した。黙って聞いていた純一は、気持ちを紛らわすように、話の途中で治子の腰をさすり始めた。

 「女っていうがはさあ、生まれつき、そういう本能みてえなもんが、あるがぁて。だあすけ、純ちゃんも少しは遊んだほうがいいがぁよ。ちいっとは、いろんな女の子と付き合ってさ。ああ、子供はつくらんようにしねえとだけどさ。男を幸せにする女を選ぶがぁよ」

 意外な話の流れに、純一はクスリと笑った。

 「俺、まだ高校入ったばっかりだよ」

 「今から気をつけんとさ。直己は高校生の時分に玲子と付き合ったがぁよ。大学生の時には、純ちゃんがもうお腹の中にいてさ。玲子が高校卒業してすぐに、結婚式挙げたこってさ。まあ、二人とも若くて綺麗で、お人形さんみてえらったけどさ」

 純一の手が止まる。柿の木の前で撮影した写真の中の両親が、純一の頭の中で急に動き出した。

 ちょこまかと動き回る花純をようやく捕まえて、正面を向かせる母。シャッターのタイマーが短すぎて、横顔しか写っていない父。純一は家族の準備が整うのを、カメラを見据えて大人しく待っている。そんなワンシーンが頭に浮かんでくる。

 自分がどうやって生まれてきたのか。生まれてきたことで誰かに迷惑をかけたのではないか。ずっと口に出せなかった心の中のモヤモヤの、濃い霧の一画に穴が開いたようだった。

 「婆ちゃん、俺、育てるの大変だった?」

 「なんも。体は丈夫らったし、勉強もできるがぁ。手のかからん子らったさあ。だあろも、純ちゃん、男前らろ。これからが心配らて」

 「俺、男前らねえて」

 「純ちゃん、付き合ってる女の子いねえがぁ?」

 「振られた」

 「まあまあ、純ちゃんを振る女の子なんか、いるがぁね」

 「告白されて付き合ったがぁけど、気がついたら振られてた」

 「縁がなかったってことらこて。純ちゃんなら、モテるすけ大丈夫らろ」

 治子は慰めの言葉を、嬉しそうに口にした。

 純一は、茉美のことを素直に話したのが、自分でも不思議だった。

 放課後、学校の図書館や校庭などでしか会わないことが不満だった茉美は、「私たち、付き合ってるんだよね」と、よく確認してきた。そして純一が黙ると、やたら腕や太腿に触れてきて、悪戯っぽくキスをしてきた。それでも純一が求めないと、下半身に手を伸ばしてくる。純一がその手を掴み、「付き合うって、こういうこと?」と聞くと、「だって、近くにいるときくらい、彼氏だって実感したいもん」と拗ねてみせた。

 茉美の気持ちに応えるのが面倒になり、告白を受け入れたことを後悔したが、かといって別れ話で揉めるのも億劫だった。だから校庭で別れを告げられても、何の感情も湧かなかった。恋愛なんて、何の悩みもない人間があえて苦悩するために、自ら嵌っていく落とし穴のようなものだと、クラスメートたちを見て思っていた。

 「爺ちゃんはモテた?」

 「そりゃあ、こってモテたて。だけどあの通り真面目な人でさ。終いにはちゃーんと、婆ちゃんを選んでくれたがぁ。だあすけ、婆ちゃんも爺さんのこと、ちゃーんと男にしてやったこってえさ」

 治子は誇らしげに満面の笑みを向けた。

 「やるねえ、婆ちゃん」

 「そうらろう? 爺ちゃんは、幸せもんのがぁよ」

 自分で言うところが治子らしいと、純一は思った。だが、富夫はそれを否定しないだろう。照れながらも、「ああ、そうだそうだ」と素っ気なく答えるに違いない。

 「もう充分らて」

 治子にそう言われ、純一は腰をさする手を止めた。

 そして治子の体の向きを変え、部屋を出て行こうとした時、背後から声がした。

 「爺ちゃんの事、勘弁してやってくれて」

 「えっ?」

 純一は振り返ったが、治子は目を閉じて身じろぎもしなかった。

 純一はあえて聞き返さなかった。今、少しだけ靄の中から覗いた景色を消してしまいたくなかった。


 工場の換気扇から、湯気がもくもくと吹き出している。今日最後の赤飯は、まだ蒸し上がっていないようだった。

 純一が富夫の手伝いをしようと工場のドアの前に立つと、中から話し声が聞こえた。

 「おめえさん、赤飯の匂いは大丈夫らかね」

 「ええ。白米とか煮物の匂いは駄目なんですけど、赤飯は不思議と」

 「こって昔のことだてがに、体が覚えてるかね」

 「そうかもしれませんね。純一の時も花純の時も、赤飯の匂いでつわりがひどくなったことはありませんでしたから」

 声の主は、富夫と玲子だった。二人が穏やかに話していることが、純一には意外だった。

 「今日も会ってもらえませんでした」

 玲子が力なく言う。

 「まあ、毎日ご苦労らねえ。だあろも、花純の姿を見せれば、ご両親も気が変わるがらねえかねえ」

 「それでも駄目だったら、花純を傷つけることになりますから。新村の実家も近いですし、自分の生まれた町なのに、実家のまわりを歩くのは辛くて‥‥。花純まで白い目で見られるんじゃないかと思うと、あの子が可哀想で‥‥。もうこれ以上、あの子を傷つけられません。せめてあの子だけでも私が守ってやらないと‥‥」

 それ以上聞いていられず、純一はドアを開けた。母親らしいことを口にする玲子が急に癪に障った。

 「知ってるがぁ? 新村さん、花純の初恋の人だって」

 玲子は純一の姿に驚きながらも、小さく頷いた。

 「花純に謝ったがぁ? もう充分、傷つけてるろう。自分が気づいてないだけで、いっぺえ傷つけてるがぁよ。何が、『これ以上傷つけられない』だよ。ふざけんな」

 花純の心配をしているような口ぶりで、母親を責めている。それは純一にもわかっていた。だが自分の幼稚さを承知していても、はけ口を見つけてしまった怒りを抑えることはできなかった。

 「そう怒るなて。玲子もいろいろ考えて、うちに来たがぁて」

 富夫が玲子を庇う。

 それが純一には釈然としなかった。

 孫を置いて出て行った嫁を、爺ちゃんは怒っていないのだろうか。小さな子供を押し付けられ、十年も育てなければならなかったことを、迷惑だと思っていないのだろうか。

 「花純から聞いたんでしょ、再婚のこと」

 玲子は申し訳なさそうに言った。

 「聞いた。お腹ん中に、あの人の子がいるがぁろ」

 「うん。だから、結婚して新村の姓になりたいと思ってる。でも、純一が嫌だって言うなら、赤ちゃんのことも考える。まだ、間に合うと思うから‥‥」

 この人は、何もわかっていない。そんなこと誰も望んでいない。自分の母親に、そんなことして欲しいと思う子供などいない。

 無視しようとしてもできず、知らぬ間に蓄積していた怒りや悲しみや自己否定の痛みが混然となって、体の奥からこみ上げてくる。

 「捨てるだけじゃ足りなくて、今度は子供を殺す気んがぁ!」

 純一の怒気に、玲子は弁解できなかった。

 「俺の許可なんか、必要ねえろ」

 「でも純一も手続きしないと、苗字が別になっちゃうし。花純は手続きして新村の籍に入れるから、純一だけが‥‥」

 「俺だけ置いてったがんに、今さら苗字が何らてがぁ」

 純一の声が震える。

 できれば何も言わずに、いなくなって欲しかったのに。婆ちゃんから聞く思い出話だけで良かったのに。今まで振りまかれた幾つもの毒を忘れようとしていた努力が、泡と消える。情けない自分を、爺ちゃんにもこの人にも晒してしまうことになる。佐和田の家の中だけでも良い子でいたかったのに、もう自分がいる価値など、どこにも無くなってしまう。

 純一の喉を熱い塊が塞ぎ、視界が涙で滲んだ。

 その時、黙り込んだ玲子の代わりに、富夫が口を開いた。

 「違うがぁて。純一は置いて行かれたがぁねえの。俺が、玲子を追い出した時に、おめさんを離さんかったの」

 「違います、お義父さん。純一が、お義父さんを選んだんです」

 純一を宥めようとした富夫を、今度は玲子が庇った。

 純一は二人の顔を見比べた。目の前にある真実を、どちらが嘘でも構わないとは、もう思えなかった。

 「純一ももう高校生だから、本当のことを話すね。傷つけることになるけど、ごめんね」

 玲子は純一の目を真っ直ぐ見ると、そう前置きした。そして、出て行った日のことを話して聞かせた。

 玲子が新村と知り合ったのは、直己の葬儀から数ヶ月経った頃だった。

 新村は直己の後輩で、二人は卒業後も付き合いがあったのだという。新村が同じ町の出身だったこともあり、玲子は直己を思い出す度、新村を訪ねるようになった。それが互いの町の噂になり、佐和田の家業の障害になったために、富夫が激怒した。

 「子供達を連れて、この町を出てけ!」

 二人でいるところを見咎められた新村は、家の前で遊んでいた純一と花純に、勢いで「一緒に行こう」と手を差し出した。その時、花純は新村の隣にいた母親に抱きついたが、純一は富夫の陰に隠れたのだった。

 玲子が連れて行こうとしても純一はその手を振り切り、「お爺ちゃんといるがぁ!」と泣き叫んだのだという。

 話し終えると、「ごめんね、純一。ごめんね」と、玲子は何度も頭を下げた。

 純一は呆然としていた。

 子供だったとはいえ、全ては自分が選んだことで、勝手に誤解していただけだったのだ。

 「だから今度こそ、ちゃんと償いたいと思ってる。新村もそう言ってるの。高校卒業したら、東京で一緒に暮らしてもいいし。今すぐ行くなら、編入の手続きとかするし。ねっ、純一はどうしたい?」

 玲子の言葉に、富夫も心配そうに純一の顔を覗き込む。

 「‥‥わからない」

 長い沈黙の後で、純一はそう答えた。玲子はそれ以上、何も言わなかった。富夫も黙ったまま俯いていた。

 換気扇がカラカラと回る音だけが、工場に響いた。


 純一は、両手で自分の頬を叩いた。

 気がつくと風呂場の鏡を見つめ、ぼーっとしている。体を洗おうとしてシャワーの蛇口を捻ったものの、さっきから目の前を勢いよく流れる水に何度も意識を奪われていた。

 シャワーの熱で鏡が曇っている。お湯をかけると、呆けた顔が水の流れに溶けていった。

 自分は何を望んでいるのか。何をどう考えたらいいのか。頭の中が整理できず、気づけば思考が停止している。

 そんな自分に苛立って、シャワーを水に切り替えると、一気に頭からかぶった。体が一瞬で緊張する。冷水を浴びながら頭を振ると、心なしか気持ちがすっきりとした。

 その時、風呂場のドアが勢い良く開いた。

 「冷たいッ。いくら夏だからって、風邪ひくわよ」

 Tシャツにホットパンツ姿の玲子だった。

 「何だよ!」

 驚いた純一は、風呂桶の中のタオルを慌てて取り出し、下腹部を隠した。

 「背中、流してあげようと思って」

 玲子は、純一の足元に置かれたラックの上のスポンジを取ろうと、手を伸ばした。

 「いいよ、そんなことするなて」

 純一はその手を阻もうとしたが、「転んだら危ないでしょ」という玲子の一言に大人しく従った。

 ボディソープをつけたスポンジが、優しく背中を撫でる。くすぐったさと気恥ずかしさで、純一は玲子が映り込む鏡を直視できなかった。

 「そんなカッコして、大丈夫んがぁ?」

 「夏だから全然平気。でもさすがに水はかぶれないかな」

 玲子は悪戯っぽく純一の横顔を覗き込んだ。水で冴えたはずの純一の頭が、熱を帯びる。

 「ねっ、純一は体、大きい方?」

 「そうでもない」

 「これから伸びるんじゃない。お父さんもそうだったから。肩甲骨にホクロがあるところなんて、お父さんそっくり」

 玲子は、同じ場所を何度も撫でた。成長途中のそう広くもない背中はすぐ泡にまみれた。

 「お父さんはねえ、前向きで思いやりがあって。在学中に私が妊娠したことを知った時も、卒業したら結婚するから、私を退学させないでくれって、大人達を説得してくれたの。東京の大学に通ってたんだけど、地元に帰ってきてくれて。私はお父さんに頼りっきりだったから、亡くなった時、もうどうしていいかわからなかった。純一と花純の世話もお婆ちゃん達に任せっきりで。お父さんとちゃんとお別れもできなかった。‥‥弱いお母さんで、ごめんね」

 顔を上げると、鏡に映る玲子の顔が、水滴で歪んで見える。

 ふと葬儀の記憶の断片が、純一の脳裏に蘇った。

 佐和田の家で執り行われた葬儀に玲子は参列しなかった。

 病院から戻ってきた遺体の顔を見て、「違うねかて。これは直己さんらねえろう。どっか別の人らろ」と取り乱し、玲子は部屋にこもった。事故の怪我で、死化粧をしても傷が残っていたのがショックだったのだろうと、富夫と治子が話していた。

 参列者の手前、喪主の玲子が顔を見せないわけにはいかなかったが、部屋から引きずり出そうとすると泣き喚くため出棺にも参列できず、結局、最後のお別れもしないまま直己は荼毘に付された。

 純一と花純は治子に手を引かれ、火葬場の釜の中に入っていく棺に手を合わせた。

 あの時すでに、妻であり母である玲子の心は砕け散っていたのかもしれない。

 「新村さんって、どんな人?」

 直己の思い出に浸ってしまったのだろう。背中の手が止まった玲子に、純一は聞いた。父親の思い出が玲子を過去に引き戻すなら、もう何も話さなくていいと、純一は思った。

 「優しくて、責任感があって。見た目は全然違うけど、気質はお父さんに似てるかな」

 玲子の手が、再び動き出す。少しだけ背中を擦る力が強くなった気がする。

 「あの人、いい父親になってくれるげら?」

 「お腹の子の名前、今から考えてる。それに、花純を育ててくれたのも、半分は新村なの。私、夜スナックで働いてたから、その間、よく面倒見てくれて‥‥」

 「スナックで、働いてたがぁ?」

 純一は驚いた。

 玲子は、水商売をしていた母親に純一がショックを受けたのだと誤解して、慌てて弁明した。

 「スナックっていっても、地元の人が仕事帰りに寄るような店なの。へんなことするようなお店じゃないのよ。ほら、お母さん、一度もお勤めしたことないし、就職活動だってしなかったし‥‥。はじめの頃はスーパーのレジ打ちとかビルの清掃とかしてたの。だけど失敗ばっかりで、すぐクビになっちゃって。私、本当に何にもできなかったのよねえ」

 世間知らずの若い玲子が、知らない土地で必死に生きようとしている姿が、純一の頭に浮かんだ。

 「新村さんは? 助けてくれなかったがぁ?」

 「彼も実家を飛び出して、慣れない土地で仕事を探す毎日でね。私たち母子を連れてきたことに、ものすごく責任を感じてた。だから、できるだけ負担にならないようにって思ったの。でも結局は、花純を預けることになっちゃって。‥‥それが良くなかったのよね。ずっと傍にいてくれる年上の男性に憧れるのって、当然のことだもの。もう少し花純の気持ちを考えてあげれば良かった」

 玲子は、純一が責めたことを重く受け止めているようだった。

 「あれは、花純のことにかこつけた自分の気持ちだ」とは、純一も今更言えなかった。

 「新村さん、仕事は何してるがぁ?」

 気まずさに、純一は尋ねた。

 「コンピューターのプログラマー。今、ゲーム作ってるらしいよ」

 「だすけ、スーツが似合ってなかったがぁね。稼ぎは、いいがぁ?」

 「どうかな。でも、妊娠がわかってからは仕事を辞めろって。今は、花純と二人で養ってもらってる」

 「見た感じよりしっかりしてるがぁね」

 「純一‥‥」

 不意に、玲子が鏡に映る純一に目線を合わせた。

 「そんなに新村のこと、心配? 私や花純のことは? 私に聞きたいことがいっぱいあるんじゃないかと思ったのに、彼のことばっかり」

 「心配なんかしてねえて。幸せそうらし。それに、俺も花純も、母さんが思ってるほどガキじゃねえすけ」

 純一の『母さん』という、ただその一言に、玲子の胸は震えた。

 「‥‥もう流すね」

 シャワーの水が温まるのを確かめて、玲子は背中についた泡を手で流した。

 立派に育った十五歳の息子の背中。もう二度と、こうして触れることはないだろう。

 水滴を拭うふりをして、溢れそうな涙を隠す。

 シャワーの蛇口を閉めて、玲子が出て行こうとした時、唐突に純一が呟いた。

 「俺‥‥」

 項垂れた背中が、急に頼りなく見える。

 「俺、この家に居ても良いがろか。いつまで、この家に居られるがろか」

 それは純一の切実な訴えであり、玲子には、自分の勝手な願いに対する答えのように思えた。

 「いつまでも居て良いんじゃない。お義父さんもお義母さんも、それを望んでると思うよ」

 「そうかなあ‥‥」

 「そうよ。だってここは、純一の家じゃない」

 純一の背中が小刻みに震える。濡れた髪の雫と一緒に、目頭から水滴が落ちるのが、玲子には見えた。

 「湯冷めしないようにね」

 そう声をかけると、玲子は口元を手で押さえて風呂場を出て行った。それ以上いたら、嗚咽が漏れるのを純一に聞かれてしまいそうだった。


 蒸籠の蓋を開けると、醤油の香ばしい匂いが工場内に立ち込めた。

 「今日も良い出来だて」

 富夫が目を細めて蒸籠を釜から降ろすと、椅子に座った治子が団扇であおいだ。

 「まだ腰、痛むがぁろ。無理しんで良いがぁよ」

 「こって休ましてもらったて。それに、久しぶりにお爺さんの炊く赤飯の匂い嗅いだら、寝てなんかいられねえこってさ」

 富夫は湯気の立つ赤飯をつまんで、「あーん」と、治子の口の前に差し出した。

 「まあまあ、こんげ優しくしてもらって、どうしようばね」

 「いいっけぇ、はや食べてみれて」

 富夫が治子の口に赤飯を押し込む。

 「いい塩梅だこと」

 治子は皺だらけの顔で笑った。

 「婆さんと一緒に、もうちいっと頑張らんとらすけさ」

 「働けるうちは働くこてさ。大事な孫のためだもの」

 治子は両手で、節くれだった富夫の手を握った。


 蒸し暑かった夏が終わろうとしていた。

 川向こうのスーパーへの配達を終え、純一はママチャリで長い橋を渡っていた。ひたすらペダルを漕ぎ続ける体に、川風が心地良い。

 毎日の配達で太腿がひとまわり太くなった気がする。もっと筋肉をつけたいし、もっと背が高くなりたい。父親の遺伝子を受け継いだなら、母が言うように、もっと大きな体になれるだろうか。ささやかな期待で、ペダルを漕ぐ足に力が入る。

 風呂で背中を流してもらった翌日、玲子は佐和田の家を出て行った。

 出て行く前に仏壇に手を合わせた玲子に、富夫は古いアルバムを持たせた。

 「嫌だけば、持って行かんでもいいども、花純が生まれた時の写真もあるすけさ」

 富夫は、純一と花純の写真を分けていてくれたようだった。アルバムの表紙には、それぞれの名前と生年月日が、富夫の達筆な字で記されている。

 「私、一枚しか写真持ってなくて。ありがとうございます」

 玲子はそのアルバムを、大事そうに胸に抱えた。

 花純は玲子の分の荷物も持つと、玲子が深々と頭を下げる後ろで、「お世話になりました」と、初めて富夫に挨拶した。純一が荷物を持とうとすると、「迎えがいるから平気」と、やんわり断った。そして二人分の旅行バックを両手に、玲子に寄り添って歩いた。

 純一が離れてついて行くと、大通りを曲がったところで新村が待っていた。新村は二人に駆け寄ると、花純から荷物を受け取り、待たせていたタクシーのトランクに詰めた。そして純一に向かって深々とお辞儀すると、小さく手を振る玲子の腰に手を添えて、タクシーに乗せた。

 タクシーのドアが静かに閉まる。新しく誕生する家族を乗せて、タクシーは純一の前から走り去って行った。

 その光景があまりに幸せそうで、純一は胸が痛かった。

 工場に戻ると、富夫が水に浸した米を笊に上げていた。純一が手を貸そうとすると、「本当に、いいがあ?」と聞く。

 「全部、爺ちゃんのせいだ。玲子は悪くないがぁよ。爺ちゃんの仕事のことらけば、心配ないがぁよ。じきに婆ちゃんも良くなるし。おめさんは、自分のこと一番に考えなせえよ」

 そう言う富夫の隣りで、治子が相槌を打つ。

 「考えてるよ。考えて、ここにいることにしたがぁ。だって、赤飯の匂いがしねえとこなんか、寂しいろう」

 決して強がりではない。自分はこの家で生まれ、富夫と治子に育てられた。自分の家族は生まれたときからずっと、ここにいたのだ。

 「純一は、いい男になったねか」

 富夫は白衣の袖で、目頭に滲んだ涙を拭った。

 純一は、今まで一度も富夫に叱られたことがない。それはこの家より他に行くところがない自分が、二人の機嫌をうかがって大人しくしていたからだと思っていた。だが、富夫自身の負い目がそうさせたのだと、その苦しみに初めて気がついた。

 「うちはさあ‥‥」

 「なんら?」

 「女に振り回されるのは、うちの家系らねかて。爺ちゃんも、婆ちゃんに振り回されたがぁねえがぁ」

 純一は、わざと悪態をついてみせた。富夫は少し戸惑いながら、「仕方ねえさあ。婆ちゃん、いい女だったすけさ」と惚気てみせた。

 外から流れてくる蝉の鳴き声を、三人の笑い声がかき消す。

 今年はたくさん『わんざ』が見られそうだと、純一は思った。


                                 〈了〉

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わんざ 成実 希 @shinn-shinn

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