第4話

「波帆ちゃん、本当にごめんね。どうしても外せない用事が入っちゃったのよ。先方には伝えてあるから、食事だけでも楽しんできて」

電話口で田中さんが申し訳なさそうに謝っている。予約しているという店の前で私は呆然としつつ、ここで帰るという選択肢もありなのか、一瞬、逡巡した。結局は母親と同年代の彼女の顔を立てるために店への扉を開いた。

先方は私の顔を知っていると田中さんは言っていたが、私は彼女から相手のことを知らされてなかったので、挙動不審に周囲を見回していると、窓際の二人席に座っていたスーツ姿の男性が立ち上がった。

静かに近付いて、長身の男性を見上げる。細面の少し日焼けした顔をした彼は、あなたが、と小さく呟いた言葉を飲み込んで

「宮野涼と申します。本城波帆さんですね」

と空いている席を勧めてくれた。

本日のおすすめという料理と飲み物を注文した後、浅く腰掛けていた椅子に座り直した私に気付いて、ふふ、と宮野さんが表情を崩した。笑うと目尻に皺ができる人だった。

「ごめんなさい。緊張してしまって」

「いや、こちらこそ田中さんに無理を言って、あなたを紹介してもらいましたから」

以前、田中さんと一緒に撮った写真を彼女が宮野さんに見せたこと、その時から気になっていたことを彼は白状した。

「けれど、写真と実物では大きな差がありますね。今日のあなたも非常に綺麗です」

お世辞であれ、褒められることに慣れていない私は熱を持った顔を俯かせた。

運ばれてきた料理に舌鼓を打ちつつ、流れるような宮野さんの話術は、張り詰めた糸を切って私を饒舌にした。

宮野さんは釣りが趣味らしく、嬉々として海の壮大さについて語る彼は小さな子供のようだった。

唐突にあの人が自分の住んでいた街の海がいかに美しかったかを話していた姿が蘇って、あの人とは似ても似つかない宮野さんを私は重ねてしまいそうになり、感じた痛みが私を現実へと連れ戻した。

「大丈夫ですか?」

手を胸にやっていたせいだろうか、宮野さんが心配そうな顔をして私を覗き込んでいた。

「少し昔のことを思い出してしまいまして」

曖昧に誤魔化そうとして頷いてみせると、彼はそれ以上追求せずにあっさりと引き下がった。

一息ついた頃、宮野さんは先程までとは打って変わって歯切れ悪く、僕はいくつに見えますか、と尋ねてきた。

「えっと、26、7くらい、ですか?」

「若く見てくれていたんですね。僕、今年で32歳になるんです」

飼い主に叱られて両耳を垂れた犬のような彼になんと声をかけていいのかわからず、私は思いついたまま言葉を発した。

「でも、宮野さん、嘘は仰ってないですよね。年齢のことだってきちんとお話ししてくださいましたし」

それで十二分です、と微笑めば、宮野さんもぎこちなく笑顔を返してくれた。


送りますよ、と言ってくれた宮野さんの申し出をやんわりと固辞して、私は電車に乗り込んだ。

自宅の門をくぐったのは22時を過ぎようかという時間だった。いつもであればすでに切ってある玄関の外灯は煌々と輝いていて、中で母が今か今かと待ち構えているであろうことは容易に想像がついた。

「ただいま帰りました」

ドアノブを回して扉を開き、一歩を踏み出した途端、私は左頬に衝撃を受けて、玄関先へとたたらを踏んだ。

顔を上げて、仁王立ちをしている母親と真っ向から視線を合わせる。母は怒りを抑えきれない様子で

「何時だと思ってんのよ!」

と、身体を震わせながら叫んだ。

「ここ、玄関だから。大声出すと他所様の迷惑になるよ」

熱くなっていく頬と反面、私は冷静だった。固まったまま動かない母の横をすり抜け、リビングに向かう。

「私、言ったよね。仕事終わってから、田中さん達と食事してくるって」

実際には田中さんは来なかったけれど、約束をしていたのは事実だから、私は暗に報告していたことを突き付けた。後ろから息巻いて入ってきた母は一瞬、身体ごと引きかけて、なんとか留まった。

「でも、時間も時間やろ。途中で抜けさせてもらうこともできたはず」

「誘われて行ったのに、それじゃあ不義理でしょ」

母は言葉に詰まり、私は終わったと思った。

自室に引き上げようと入り口を塞いでいた母の横を頭を下げたまま通り、階段を上がろうとしたときだった。

「あんたには前科がある。お母さんはそれを許したつもりはないから、覚えときや」

消毒液の匂い、青白いナイロンの布、冷たい金属の音、そして意識が薄れていく感覚。

否応なしに引きずり出される記憶は生々しくて、気付けば私は鞄だけを持って家を飛び出していた。


母は追っては来なかった。

とぼとぼと歩き、駅前に設置されているベンチに力なく腰かけた。溢れて止まらない涙を両手で拭う。

罪は罪だ。母の言っていることは間違いではない。

理解はできていても、私は事実を受け入れることが未だにできなかった。

この無人の、寂れた場所で、このまま朝を迎えるのも悪くないと思った。

その時、鞄の中でバイブ音がはっきりと響いた。太腿の上からの振動が続く間、私は怖くて膝を抱えてうずくまっていた。

携帯は一度鳴り止み、また鳴り始めた。

観念するしかないと鞄の中から携帯を取り出した私は驚きに目を見開いた。

「もしもし、どうしたの?」

表示されていたのは『衣笠』の文字。その名の主の声が耳に当てた機械から流れ出した。

「……何があったんだ?」

衣笠は電子音越しでも私の濡れた声に気が付いたらしい。言い訳をするのも馬鹿らしくて、正直に母親と喧嘩をして家を飛び出したことを話した。

「じゃあ、今、お前は外にいるんだな」

「その通りです」

「具体的には?」

最寄りの駅と答えると、彼は、ちょっと待ってろ、と言って通話を切った。

十分と経たないうちに彼が祖父から譲り受けた薄紅色の車が私を迎えに来た。助手席側に近付いて乗り込むと、衣笠が何か言いたげに私を見た。私が言うつもりがないと悟ると、結局、彼は黙ってハンドルを握った。

てっきり家に送り返されると思っていた私は、到着した先が彼の実家だと知ると、なぜと問い質しそうになった。そんな私を見越してか、衣笠は安心させるように言った。

「妹は出張中で、うちの母親には軽く事情を話してある」

明かりのついた玄関に向かって行く彼の後ろに、できるだけ身を縮めてついて入ると、出入りの気配を察して、衣笠の母親が顔を覗かせた。

「いらっしゃい。お風呂を沸かしてあるから、ゆっくり浸かって」

彼女はゆったりとした動作で近付くと、玄関で立ち尽くしていた私を優しく抱き締めた。落ち着かずに身動きをして

「遅くにごめんなさい」

と子供じみた謝罪を辛うじて口にした私なんて気にもしてない。そして、背を一度、ぽん、と叩くと、浴室へと案内してくれた。

後からついてきた衣笠が浴室の外から、ふて腐れた声で、そこにある物は勝手に使っていい、着替えは用意しておく、と言っているのが聞こえた。

湯船に浸かって足を伸ばすと、今日の出来事が嘘のように思えて、それでも母親が吐き出した言葉が頭の片隅にこびりついて離れなかった。

元々、反りの合わなかったところにあの事件があったのだ。拗れた糸は余計に絡まって、今は解く方法があることすら互いに忘れてしまっている。

脱衣場には衣笠の言う通り、少し大きめのTシャツとジャージのズボンが置いてあった。下着は着ていたものを洗って乾燥してくれたようで、まだ温かみを残していた。

見計らったように姿を見せた衣笠に私は、待ち構えてたみたい、と冗談を言った。

「ストーカーじゃあるまいし。お袋が部屋用意したけど」

彼は言葉を切り

「もし、本城が話したいことがあるなら聞くぞ」

躊躇いがちに紡ぎ出された声に私は頷いた。

衣笠は自室に私を招き、ベットのほうに腰かけるよう促した。その行為に私が警戒心を露わにすると、彼は苦笑して、自分はクッションを持ち出してきて、ベットにもたれかかるように足を崩して座った。

「迎えに来てくれてありがとう」

柔らかい布団の感触と衣笠の匂いが強張っていた心に染み入るようだった。すんなりと感謝の意を伝えることができた。

「相変わらず、お前のところの母親は容赦がないな」

衣笠が振り返り、私の左頬に一瞬だけ視線を向けた。相当な衝撃だったから、きっと赤く腫れているのだろう。けれど、私は痛みを感じていなかった。

彼はローテーブルの上に放ってあった貼る冷却剤を袋から取り出すと、あっという間に私の頬にそれを貼り付けた。

「別に痛くないのに」

「お前が痛くなくても、周りは痛いんだよ。手当てくらいしてもバチは当たらない」

口調はきつくても、言葉の端々から彼の優しさが滲み出ていた。私は涙腺が緩くなりかけていることを感じ、ベットに身を投げて衣笠に背を向けた。

「私は一生、母親から離れられないのかもしれない」

「何言ってんだ。お前も俺もいつかは結婚して新しい家族を作るんだ」

「でも、相手がいないと結婚はできないよ」

彼は考え込むそぶりを見せた。

「その時は、そうだな、俺がお前を拾ってやってもいいぞ」

「馬鹿言わないでよ」

振り向いて衣笠の後頭部を狙って投げた枕は見事に命中した。

いってぇ、と予想外の襲撃に手で頭を撫でる姿が本当は愛おしかった。それを口にすることはもうできないけれど、彼を繋ぎ留めておけるのであれば、このままの状態が続いても構わないとさえ思った。

「とにかく、苦しいときくらい誰かを頼れ。俺ならいつでも駆け付けるから、我慢して自分を苦しめるようなことはするな」

潤んだ瞳から溢れ出そうとする滴は、私の意図に反してシーツに薄い染みを作った。抑えが利かなくなった私は嗚咽を止めることができず、ベットの隅で感情が身体を支配するに任せた。

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好きだと言って 名坂絢乃 @nazakaayano

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