クロとはるか

神村 はるか

episode1 主 


その不思議な手紙が届いたのはそろそろ初夏になろうかとする頃だった。

今どき博物館でしかお目にかからないような和紙の巻紙が何かの草の蔓で留められ、

ポストに入っていたのだった。

切手も消印もないその郵便物?…がどこから届けられたのかまるで不明だった。

が、気味が悪いので捨ててしまおうとしたその時、

「無駄だ。捨てても戻ってくるぞ」

と、声がした。


声の主の方を見ると真っ黒で馬鹿でかい猫(の)が、

太く立派な尻尾をパタパタしながらニヤニヤしていた。

彼の名前はクロ。

普段は少々大きな黒猫のふりをしているが、

実は年若い(本人談)猫又だ。

近所のボス猫として君臨していた彼は5年前、

大怪我を負って庭に倒れていた。

奴を見つけて徹夜で看病を続け、命を救ったのが、

何を隠そう私の弟だ。


弟の名は涼という。

涼はここから歩いて10分ほどの所に住んでいる。

そしてこの猫又の飼い主だ。


何だか知らないが、しょっちゅう我が家に来ては入り浸っているこの黒猫もどきに

「何でよ?」

と問いかけた。


「それはな、ただの手紙じゃないぞ。

むしろ一種の契約に近いな」

相変わらずニヤニヤしながら、この黒又※はのたまう。  ※黒猫の猫又


「け・い・や・くぅ~????」

踏まれた蟇蛙のような声とはこういう声のことをいうのだろうか?

我乍ら生まれてこのかたこんなに裏返ったことはないだろうというような酷い声だ。


「契約って、契約書の契約?

会社に入って雇用契約結ぶ時とか、アパート借りる時に交わすやつ??」


「ああ。その契約だ」

どこまでも落ち着いた口調でクロは応える。


「だって・・・

私、誰ともそんな契約結ぶ約束してないし・・・」


「姐さんの意志とは関係ないんじゃあないですかい」

会話に入ってきたのはたまさんだ。

たまさんはブサカワと呼ばれるような今流行りの風貌の猫だ。

某携帯電話会社のCMに出てくるニャンコそっくりである。


「たまさん、それはどういう?」

「いえ、特に根拠があるわけじゃありやせんが、

何だか兄いの話しっぷりからそんな感じが」


「おう。たまの言う通りだぞ。お前の意思は一切関係ない」

「そんな馬鹿な。だって契約ってのは双方がある合意の元に結ぶものであって…」

「それは人間社会の話だろう。それに俺は強いて言えば契約に近いものだと言ったんだ。契約そのものとは言ってない」

「あーそりゃどうもすいませんね。でも正直まったく話が見えないんだけど?」

「俺もな、全部わかってる訳じゃないんだぞ」

「うん、わかってる」

「まず第一に、この手紙の返品交換は不可だな。

受け取ってしまった以上、お前はこれを受けて全うするしかないんだ」

「あの、でもこれ気づいたらポストに入っていたんですけど?」

「それでもだ。大体この家にはそこそこの結界が張られてるんだぞ?

この俺様が出入りしてるお陰でな」

ドヤ顔で黒い猫又がのたまう。

「ハイ、ドウモアリガトウゴザイマス」

全く抑揚のない声で答えながら、だから何だっていうのよ?と思っていると、

「本当にお前は阿呆だなぁ」と呆れた声が返ってきた。

「そんな家にあるポストにな、

俺の目をかいくぐってあれを置いていける能力(ちから)を持った奴が、

あの手紙の差出人だ」

「手強いぞ」

ボソッとクロはつぶやいた。


私の名前は桐谷はるか。

フリーのライターをしている。

大して売れっ子でもないのに食べていけてるのは、

両親が残してくれた古い木造平屋建ての家があるからだ。

持ち家一軒家が幸い?して、数匹の猫と同居している。

他にも庭に遊びに来る連中を入れたら、多分二桁は下らない。

その筆頭がクロである。


話を元に戻そう。

要するにポストに入っていた手紙もどきは受取拒否が出来ないこと。

私、桐谷はるかに向けて届けられたものであること。

差出人は強い能力の持ち主であること。

指折り数えながら、クロに確認すると、

目を細めながら、「まぁそういうことだな」と返事が返ってきた。


「質問があるんだけど…この手紙の差出人って一体?」

さっきから一番気になっていた事を聞いてみる。

クロの目が糸のように細くなったと思うと、

手紙の匂いを慎重に嗅ぎ始めた。


「水性…だな」

「すいせい?」

「こいつの本質は水だ。永い年月を生き続ける内、色んな気と混ざりあって今は自然霊のような存在だな」

「自然霊…」ゴクリと喉が鳴った。

確かに厄介なことに巻き込まれかけているのかも知れない。


「受け取る以外に仕方ないことはわかったとして、この蔓草の封は?

ほどいたら、どうなるのよ?」

「まぁ、大勢には影響ないな。

ほどいたら、煙が出て気づいたら婆さんになってる。なんてことはない」

何が楽しいのか、またニヤニヤしている。


『開けたら用件は書いてあるのかな?』と思いながら、

腹を括って蔓草のリボンを勢いよく引っ張った。


巻紙を勢いよく転がして、中をあらためる。


【会いに来て】

そこにはただ、そうあった。


「なんか子供みたいな字だけど?」

「おまえのレベルに合わせたんじゃないか?」

『低能な知的レベルのお前達人間に』とでも言いたげな顔をして、

こちらを見ながら、傍(そば)に来た。

「大体お前らにも分かる言語を使って、コミュニケーションを取ってきただけでも有難いと思え」

「確かに…でも何で私? 自然霊なんて何の心当たりもないのに…」

「全くお前は今まで何を聞いていたんだ。たまも言ってただろう。

お前の意思は一切、ほんの1ミリだって関係ないんだ」

「じゃあ、一方的に拒否できない契約書を渡されて、判を押すより仕方がないってこと?」

「そうなるな」

しばし、沈黙が場を支配する。

家中に響くような大きな溜息をつくと、言った。


「とりあえず、ご飯にしようか?」

気づいたら、夕暮れ時になっていた。


すっかり日が長くなった。

近頃は晴れると日中は汗ばむくらいだ。

『目に青葉 山ホトトギス 初鰹』

今頃の季節を言うのだと、昔曾祖母が教えてくれた歌を口ずさむ。

料理をしているうち、少し気持ちが落ち着いてきた。

やっぱり、心に引っ掛かることがあるときは、何か作業をするのが一番だ。

私の一番のお勧めは洗濯だが、料理も悪くない。


出来上がった料理をお盆に乗せると、居間にしている八帖の座敷へと運ぶ。

そろそろ灯りを点けないと部屋が薄暗い。

「彼誰時…か」

つぶやき乍ら、料理をテーブルに並べた。


「おう、お前にしちゃあ上出来じゃないか」

「メニューがすっかり夏っぽくなってきやしたね」

クロとたまが同時に声をあげる。


鰆の西京漬けをメインに、万能ねぎを散らした茄子の味噌汁、紫蘇とミョウガをのせた冷奴、作り置きの人参しりしりとご飯が今日の夕飯だ。

ご飯は炊くのが面倒だったので、冷凍しておいたのをチンしただけ。

ほとんど魚を焼いただけだが、それでも良い気分転換になっている。

『確かに鰆以外はすっかり夏のものだな』思いながら、箸を取った。


「いただきます」

両手を合わせて、しばし食事に没頭することにした。


半分ほど食べると、「あら、美味ちちょうな匂いね~」と、

我が家のお姫様がやってきた。


名前はチビ。

2歳の三毛猫である。

私が初めて飼った猫だ。

そして、我が家の男共は皆(私もだが)、彼女の下僕である。


「とっても美味ちちょうなお魚(ちゃかな)ね」

「ダメだよ、味噌漬けだから。塩分たっぷり」

途端に大きな目がつりあがる。

「にゃんですってぇーーーー おチビには何もくれないって言うの??」

「イエ、ケッシテソウイウワケデハナク…」

『恐い、子供の頃観た化け猫映画みたいだ。夏休みの夜中にやってたやつ』

と思い乍ら、クロに目で助けを求めた。

「チ、チビちゃん…味噌漬けは俺たちの体には良くない・」

「そうでさぁ。兄貴の言う通り・・」

一段と猫目がつりあがった。

「にゃんでおチビは食べられないのよ! おねぇのバカァ~~~」

叫びながら、隣の部屋に走り込み、バリバリっと爪を研ぎ始めた。

爪とぎは最高のストレス解消法らしい。


食事を終えて、湯船に浸かっていると頭の中でクロの声がした。

「で、どうするんだ?」

「さぁ。 未だ考え中」

「余り、時間はないぞ」

「だろうね。何となく分かる」


「どうしたらいいんだろうね」と呟き乍ら、風呂を出た。


バスタオルで風呂上がりの頭を拭きながら、考えを巡らせていると、

「決心はついたか?」とまたしてもクロの声がした。

縁側で風に吹かれている。


「結局行くしかないんだよね?」

「それ以外にないな。

これはもう、動き始めてしまったことだから、な」

「既に結ばれてしまった契約は全うするしかない?」

「ああ」

答えると、クロは目を閉じた。


先ほどの巻紙の前に正座する。

【会いに来て】の文字を見ながら、そっと頷く。


「お受け、します」

言うと同時に突風が吹き抜ける。

ふわりと巻紙は宙に舞い上がり、光り輝く破片となって、

私に降り注いだ。

どうやら、契約成立ということらしい。

『まるで、光る粉雪みたいだな』ぼんやりそう思った。


翌朝は雲一つない快晴だった。

いつも通り起きて、身支度を済ませるといつの間にか、クロがいた。

「行くか」ひと言いって、玄関へ向かう。

慌ててバッグを手に取ると後を追った。

「くぅちゃん。行き先って…」

「大丈夫だ。勝手に導かれるからな。バッグの中を見てみろ」

靴を履きながら、バッグの中を覗くと、見慣れない封筒が入っていた。

中には、列車の切符が入っている。

「これ・・・、自動改札通れるの?」

「心配ない。目的地まで何の支障もなく行けるぞ」

クロはそう言って、ニヤリと笑った。


切符にはI県のとある地名があった。

どうやらここが最終目的地らしい。

ご丁寧に東北新幹線はグリーン車だ。

以前、上野駅で乗り間違えたことを思い出す。

車内アナウンスで盛岡へは行かない列車だと気づいて青くなったっけ。

大宮駅で盛岡行の列車を尋ねた駅員さんが、

「いいですか、この白線の所に立って10分程待って下さい。

列車が入ってきます。それに乗ってください。ここで待って10分ですよ」

と幼稚園児に言い聞かせるように言ってたのを思い出す。

そんな事を思い出している内に、上野に着く。

新幹線の改札へ向かいながら、

「まぁ、なるようにしかならないか」と呟くと、

キャリーバッグの中に収まったクロが「ふぁー」と一つ欠伸をした。


今回は間違わないよう、鬼のように電光掲示板を確認したお陰で、

無事正しい列車に乗り込めた。

席に着いてほっとひと息付くと、ペットボトルのお茶を飲みながら窓の外を見る。

見るともなく流れていく景色を眺めていると、

「着いたら体力勝負だぞ。今のうちにしっかり休んでおけよ」というクロの声が

した。

封筒から切符を取り出して、再度行き先をあらためる。

民話の里として有名な盆地の地名が印字されている。

『でもきっと、ここは入口でしかない』

思いながら、眠りに着いた。


新幹線から在来線に乗り換え、目的の駅に着いたのは昼より少し前だった。

バッグの外ポケットに地図が入っていることを確認すると、

『山に入ってからお昼にしようかな』と思いながら歩き始めた。

何でもない平日の真っ昼間。人通りはそう多くない。

しばらく歩いたところで、「そろそろいいんじゃないか?」と声が掛かった。

キャリーバッグを歩道の脇に下ろす。

『やれやれ肩が凝った。5.8㎏はしんどい…』

手で肩をさすっていると、

「いい運動になったじゃないか。普段の運動不足が解消出来たろう」

と言いながら、クロはさっさと歩き始めた。

慌てて後を追う。


小一時間程も歩くと、目的の山が見えてきた。

地元の人もほとんど入ることはないのだろう。

なんとなく人の侵入を拒む気配がこの山には漂っている。

嫌なものではなく、大地の自然の息吹を凝縮したような深く濃い気配。

気軽にハイキングに来ていい感じじゃない山。

さてどこから入ろうかと思案していると、

「こっちだ」と先を歩くクロの声が聞こえた。


けもの道とも呼べないような辛うじて足の踏み場がある感じの悪路だが、

クロは周りの草木の匂いを嗅ぎながら楽しそうに進んでいく。

30分程登ると、少し開けた場所に出た。

いい感じの切り株が一つある。

「くぅちゃん、ここでお昼に」しようと言いかけると、

呆れ果てた顔でこっちを見る巨大な黒猫が居た。


「ハイキングに来たんじゃないんだぞ。日が暮れるまでに山頂で主に会って下山しなきゃいけないんだ。お前、本当に今の状況を分かってるのか??」

「でもお腹が空いてると何もいいことがないし…」

「何で列車に乗ってる間に済ませておかないんだ。大体お前という人間は悉く計画性のない~」


結局、クロのお小言を賜りながら、15分ほどの短いお昼休憩でサンドイッチを

お茶で流し込むと、また山頂を目指して歩き始めた。

そのまま2時間程黙々と山を登り続ける。

と、突然視界が開けた。

同時に、「着いたぞ」

振り返りながら、クロが言った。


見晴らしがいい。

町一帯が見渡せる。遠くに先ほど降り立った駅も見えた。

静かだった。静謐、というのか。鳥の声一つ聞こえない。

山の上だから空気が良いのは当たり前だが、独特の重たさがある。

緑や大地、言ってみれば山の精気、とでもいうのか。

息が苦しくなるほどに密度が濃い。

感覚が少々鋭敏な人なら多分、『倒れる』思うと同時に、


「来るぞ」

クロの声が響いた。


場の空間を支配していた空気の密度が急速に膨れ上がった。

思わず歯を食いしばる。

体にかかる重力がすごい。内臓が飛び出そうだ。

クロが駆け寄って来る。

「俺から離れるんじゃないぞ」

必死でうなづいた。


密度が最高潮まで膨れ上がる。

『もう息がもたない』と思った瞬間、山頂の全ての空気がはじけ飛んだ。

顔をかばった手を下ろすと、そこに主がいた。


深緑(しんりょく)の色をした大蛇。

それが主だった。

身体のあちこちに苔や羊歯のようなものが生い繁っている。

体質なのか、今の爆発の余韻なのか、うっすらと水蒸気のような靄(もや)を

あちこちに纏い付かせていた。

チロチロと灰紫色の舌を出したり引っ込めたりしながら、深い青緑色の瞳でじっとこちらを見つめている。


『悠久の太古よりこの地を守ってきた偉大なる魂(もの)』

そんな思いが頭をよぎり、ゴクリ…と喉が鳴った。


「来てやったぞ。お前の望み通り」

クロがいつもののんびりとした口調で呼びかけた。

私にはそんな余裕はない。そもそもこの大蛇が登場しただけで死ぬ思いなのだ。


【待ッテイタ。永イ永イ間、ズット・・・】

脳髄に直接語りかけてくる感覚。離れた場所でクロ達と会話する時に近いけど、チャンネルがまるで違う。


「俺たちに何の用だ。何をして欲しいんだ」

クロが語りかける。


【太古ノ昔、我ハ大沼ノ主デアッタ。

大地ノ氣ヲ吸イ山野ノ氣ヲ吸イ今ノ姿トナリ、コノ地ニ落チ着イタ。

我ハ最強ノ王デアッタ。多クノ命ヲ喰ライ、精ヲ吸ッタ。皆、我ヲ恐レタ】

【ダガ、アル時カラ、我ニアル感情ガ芽生エタ】

【我ノ治メルコノ地ニ住マウ全テノ命、大地ノ何モカモガ愛シイト】

【ソノ時カラ、我ハコノ地ノ守リ神トナッタ】

【永イ年月、我ハ守ッタ。コノ地ヲ、コノ地ニ育マレタ命ヲ】

【ダガ、突然異変ガ起キ始メタ】

【ソレマデ我ラト共存シテイタハズノ人間トイウモノ】

【山野ヲ穢シ、水脈ヲ涸ラシ、イタヅラニ全テノ命ヲ屠ル。オゾマシイ怪物(ばけもの)】

【我ハ必死ニ抗ッタ。我ノ持テル力(ちから)ノ限リ闘イ死力ヲ尽クシテ守ロウトシタ】

【山ヲ、川ヲ、森ヲ、我ノ住処ヲ、愛シイ全テノ者タチヲ】


「闘いに疲れ果て、滅びを悟って俺たちを呼んだか」


【アノ怪物タチハ愈々数ヲ増シ、タダ全テノ命ヲ滅ボス】


そういえば歩いてくる道々、

“民話の里レジャーランド建設予定地”なる看板を見かけた。

そして建設に反対する看板も。

自然破壊、地方の過疎、それを食い止めるための開発…


「悪循環だな」

私の思考を読んだようにクロが言う。


「明治以降の高々百数十年程の間に我々人間がしたことは…」

「立派な大蛇の姿をした崇高な自然霊を食い荒らして、滅ぼした。

唯、それだけだ。」

クロの言葉はにべもない。でもその通りだ。

ギリッと噛みしめた唇から鉄の味がした。


「俺は兎も角な、何故はるかも呼んだんだ?

人であるはるかを」


【滅ビヲ悟ッタ時、我ハ想ッタ。

最期ノ時ニ我ノ傍ラニ我ノ言葉ヲ解ス者ガ居ル光景ヲ。

我ハ願ッタ。ソノ者ガ我ノ言葉ヲ聴キ我ノ最期ヲ見届ケルコトヲ】

【我ハ悩ンダ。誰ヲ選ブベキカト。

ソノ時、風ノ便リニ聞イタ年若イ猫又ノ噂ヲ思イ出シタ。

何故カ人間ト暮ラシテイルトイウ猫又ノ話ヲ】


「おう。俺は有名人だからな」鼻高々でクロが言う。

どんな状況でもブレないのは長所なんだろうか?


【我ハ知リタイ。猫又ヨ、何故人ト暮ラス。

凶暴デ強欲、傲慢デ残忍ナ忌マワシイ人間トイウ生キ物ト】


「さぁ、なんでだろうな。

でもな、こいつといる理由は説明できるぞ。

はるかは俺の主人(あるじ)の身内で、千代の血縁だからな」


【チヨ・・・】


「おう。お前もこんな山の主なら名前くらいは聞いたことがあるだろう?

はるかは千代の直系だ」


【アノ一族・・・】


「もっともこいつは千代とは比べものにならないへっぽこでな。

俺様が付いていてやらないと話にならない」


クロが心底疲れたといった感じでため息をつく。

心なしか主の眼に同情の色が浮かんだ気が…した。


「で? めでたく俺が見届け役を仰せつかった訳だな。

この使えない人間一匹をおまけに」


【猫又トソレト共ニアル人間。本来相容レナイハズノモノ。

我ハ最期ニ会イタカッタ。オ前タチ二人(ふたり)ニ】


【会ッテ話ヲシテミタカッタ】


「そうか」


この言葉を最後に主は沈黙し、ただ静寂が訪れた。

どれほどの時間が過ぎただろうか?


「そろそろだな」

クロの言葉にはっと我に返る。


遠くから低い地鳴りのような音がする。

音といったが、耳では聞こえない重低音の周波数を全身に受けている感覚に近い。


「はるか、決して目を閉じるな。しっかり見届けろよ」

クロの声に目線はそらさず、頷く。


始めは微かに感じる程度だった振動が、今では山全体を揺るがす地響きとなって

いる。

起(た)っているのがやっとだ。


山頂にある全てのものが鳴動し、大気が沸騰しているかのようだった。

ゴーーォォゥッとひと際大きな音とともに、大気の固まりが見えない巨大な球体となって主に叩き付けられた。


声にならない咆哮が響いて、空間が歪(たわ)む。

と同時に、主の身体が見る見る膨張していく。


これ以上はないというところまで膨張した時、

「さらばだ」

クロの声が響いた。

主の眼が優しく光った気がした。


パンっという耳を劈くような高音が響き、主の身体は無数の光の粒となって、

宙を舞った。


『巻紙と同じ光だな』

目を細めて、舞い散る光の粒を決して見逃さないようにと見つめていたが、

それは一瞬で空気中に霧散し(消え去り)、

後にはただ、晴れ渡った空が広がるばかりだった。



やがて麓が近くなった頃、下山しながらずっと頭の中にあった考えを口にした。


「クロ。私がここに来なければ、主の命は…」


――いずれは滅ぶ宿命だったとしても。

――それはもう少し先の未来であったのではないだろうか?


「あんな手紙は何が起ころうと無視して、いつも通りの生活をして…」

「私がのこのことこんなところまでやって来たから、主の命を縮めることに…」

「私が主を殺した―」



「それは違うぞ」

「選んだだけだ」

「主はな、自分で選んだんだ。はるか、お前もな、選んだんだぞ」


――主の最期を見届けることを。


――私が主の最期を見届けること。それが主の望みだったから。



「はるか、お前はな、生きていかなきゃいけないぞ」


「もちろん俺も、チビちゃんもな」


クロの視線が私を射る。

強くて真っ直ぐな目。

私の大好きな目だ。


うん。と頷きながら、よろける。

暗くなってきているせいもあるが、何でこんなに視界が滲むんだろう。

雨なんか一滴も降ってないのに。


「おい、その鼻水にまみれた手で俺を触るんじゃないぞ」

言いながら、先にたってクロが歩く。

「ところで、思いを馳せるのは結構だが、帰りの新幹線の時間は大丈夫か?」

「・・・あ‶あ‶ぁーーーー」

「だからお前は計画性がないというんだ」

もう、いい加減にして欲しいという表情でこちらを見る。


「帰るぞ。チビちゃんの所へ」


クロが発した言葉と共に、一陣の風が吹き抜けた。

水の匂いがした…気がした。



山を降りた後、どうやって家まで辿り着いたのかよく分からない。

クロの𠮟責を受けながら、とにかく最終の新幹線に何とか飛び乗ったことだけは

覚えている。

気づくと、玄関の前に立っていた。

朝、家を出た時と何も変わってない。

『主がいなくなったことを除いては』

思いながら、座敷に倒れこむと泥のように眠った。


翌朝―――


目覚めると、既にクロは起きて縁側に居た。

「おはようごぜぇやす」たまさんが声をかけてくる。

心なしかいつも以上に優しい目をしている。

クロから何か聞いたのかもしれない。


「おはよ」挨拶を返し、欠伸をしながら、新聞を開く。

よく寝たはずなのに、ちっとも疲れが取れていないのは何も出来なかったという

徒労感故か。


興味のある記事を斜め読みしながら、パラパラとめくっていると、

片隅にある小さな記事が眼に飛び込んできた。


《民話の里レジャーランドに建設差止命令》

《住民の反対運動実る》


「くぅちゃん、この記事…」

「おう。あの山一帯に持ち上がってた阿呆な計画だな」

「そんな簡単に…」

「簡単? 主は滅んだんだぞ。

あの地だけで起こっていることじゃない。

この国の至る所で無数の主たちが声にならない怨嗟の声を上げている」


「どうせお前たちは今にうんと思い知ることになる。

 お前たちが何を滅ぼしたのか。

 日本中の主たちがどれ程のものを守っていたのか。

 自分の穴(けつ)は自分で拭くしかないんだ。

 愚かだな、人間は」


「分かってる・・・」

否、あんな思いをしたのに私は何も分かってないのかもしれない。

施設が建設されれば、一時的にせよ、

急速に過疎化が進む村に大量の雇用と金銭が齎される。

自然を破壊してまでレジャー施設の建設などしない方が良いに決まってると

思いつつも、そんな事をどこかで考えてしまう私はどこまでも「人間」なのだ。


『浅はかで、愚かな人間という存在』

こみ上げてくる、より一層の苦い気持ちをコーヒーと共に飲み干す。


クロはそんな私を暫く見つめていたが、

やがて、

「まぁ、あの山も次代の主が入ったしな。

 どうにか持ち直すかもしれないな」

とつぶやいた。


「次代の…主…」

山の麓付近で吹いた風に水の匂いが混ざっていたのを思い出す。

若い水の匂い…あれは。


「次代の主だ」ニヤリとクロが笑った。


――そうだ。

――数は減ってしまったかもしれないが、全て滅んでしまったわけじゃない。

――新しい主が産まれれば、また山は蘇るかもしれない。


「うん」


『たとえ、少しづつでも』

先程まで心を覆っていた重苦しい感情に何かが芽吹いた。


――滅びの後にあるもの。それはきっと…


「人間は凶暴で自分勝手で何でも滅ぼす。

だがそうではない者たちも少しは居るな。

自分よりも小さきもの、力弱きものを守ろうとするものたちが」


とても優しい眼で私を見ると、

前脚で大きく伸びをしながら欠伸をして、クロは眠りについた。


(了)

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