エピローグ
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「俺、異世界に行きたいんです」
楓ははっと顔を上げた。
それと同時に玄関のベルが軽快に鳴った。
「警察です」とフジワラ某が声を顰めて言う。「悪いことは言わない。出ないほうがいいよ。あんたが楓でも、違ってても、警察は味方してくれないよ。だってめちゃくちゃ怪しいし」
外に複数の気配がある。乱暴に何度かベルを鳴らした後、どんどんと扉を叩き「奥さん、〇〇県警です」と大きな声で怒鳴る声がした。
楓はフジワラとやらと、声を顰めながら会話している。
「怪しい? わたしが?」
「怪しい。たぶんあんた、これまでも何度か通報されてるよね。とうとう殺したんだって思われるよ」
「殺す? わたしが、誰を?」
「あれ? なんか、おかしいな……話が通じない」
「話が通じないのはあんたのほうよ。異世界だとかなんとか……。ちょっと、助けてお巡りさん!」
楓は制止を振り払い、突然、大声を上げた。外にいた誰かが、ドアノブに手をかける。がちゃり、という音がして元々開いていた扉が開かれる。
その瞬間フジワラは思いっきり扉を内から、新聞入れがひしゃげる強さで蹴りつけた。
そして楓の腕を掴んだまま、外に立っていたおじさん二人組に体当たりするように転がり出て、非常階段に向かって駆けて行く。
「離して! どこに行くの!?」
振り返ると、いきなり突き飛ばされて戸惑った表情を浮かべる警察官の顔がある。
階段を一階まで降りると、廊下の向こうに思ったより大勢の人の姿があった。エレベータ・ホールに制服を着て大きなカメラを持った人物がいて、こちらを見て少しだけ驚いている。テレビドラマとかで《鑑識》とか呼ばれてる職業の人たちだろう。
一瞬だけ止められたエレベータの中身を見て、楓はぎょっとする。
マンションのエレベータは扉の正面に姿見が設置されているのだが、その下半分が真っ赤に染まってる。エレベータ内の床もだ。たぶんあれがペンキでなければ、血だろう。
誰かの度をこしたいたずらなら、ここまでの騒ぎにはならない。
フジワラは駐車場側の通用口から外に出て、大通りに走った。
裸足の楓は当然ながら足の裏が痛いし、近所のばあさんには変な顔をされるし、ただただ混乱するばかりだが、戻ってもいいことは無さそうだということくらいは理解しはじめていた。
「何? いったい、なんなの?」
「それは、こっちのセリフ。あんたさ、ほんとに何も覚えてないの?」
「何を?」
「だって……殴ってたでしょ」
フジワラは言う。
「それにほら、アル中っぽいし」
スマホを見せてくる。いつの間に撮ったのか、キッチンが写ってる。酒の瓶やビールの缶が並んでる。自分の部屋だとは思うのに、実感がわかない。
「殴るって、誰を?」
「あんたの子供」
横断歩道の真ん中で立ち止まる。信号機が赤になるが、商店街に車の通りはない。
楓はフジワラに手を引かれながら、先ほどの言葉を反芻していた。
殴ってたでしょ。
あんたの子供。
ちがう、と言ってひっぱたいてやりたかった。でも胸の中の不穏なざわめきが、そうさせない。
フジワラは商店街を抜けたところの路地裏にバイクを隠していた。ヘルメットを楓に寄越しながら、ヘラヘラ笑っている。
「あんた、何かヘンだし、もう少しだけ俺に付き合ってよ。そしたら何かわかるかもよ」
「……どこに行くの?」
フジワラはにやりと笑った。
そのにやりに、何か良くないものが含まれている。
「ミズメさんのとこ」
フジワラは言った。
気分が悪い。昔読んだ気味の悪い童話の世界に迷い込んだかのようだ。こいつが行く先には気狂いの帽子屋か気味の悪いイモムシがいるんだろう。
《殴ってたでしょ?》
わからない。何も思い出せない。
今の楓からは、直近の、ここ何年かの記憶が消えている。
どうしてなのかはわからない。
なぜこんなことになったのだろう。
自分のせいだろうか。
自分のせいだろうか?
誰もが沈黙し、楓に背を向けている。
それはずっと前からだった。
誰も本当に何が起きているのか教えてくれず、事態がジリジリと悪くなるのをずっと見せつけられているだけだった。
「行くわ」
彼女は答えて、ヘルメットを手に取った。
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