38





 古めかしくて、乗るのも降りるのも勇気が必要な昇降機に乗り、ウィクトル商会にあるリリアンのオフィスを訪ねた。相変わらず部屋にはその姿がない。

 今回は特に呼ばれたわけでもないが、作り物の暖炉の火を潜って、オルドルが呼ぶところの《魔女の巣》へと出た。

 その忌々しい語感とは裏腹に、リリアンは穏やかな庭にいた。

 季節の草花に囲まれ、のどかな家のとなりで、相変わらずブランコに腰かけて、ゆらゆらと揺れている。


「リリアン……」


 僕が声をかけると、リリアンは「静かに」と言って、唇に手を当てた。

 そして背後をちらりと振り返った。

 小さな家の向こうには小道が伸びていて、そのずっと先に、僕でも、リリアンでもない人影があった。

 全く面識のない初老の人物で、仕立てのいい外套を着こみ、帽子をかぶり、杖を突いている。

 僕がそちらに目をやると、彼は帽子を脱いで軽く会釈し、小道の向こうにゆっくりと歩いて行った。

 それを見送ってから、リリアンはブランコを漕ぐのを止めて、こちらに向き直った。


「彼は……?」

「初代様です。この収蔵庫管理人、リリアン・ヤン・ルトロヴァイユの製作者。ウィクトル・ルトロヴァイユ様です」


 丁寧な返答を聞き、僕は呆気に取られる。


「え? じゃあ、この商会のいちばん偉い人ってこと? ……でも、君の製作者ってことは」


 リリアンが作られたのは、この国で魔術が禁止されるよりもずっと前のことだ。


「あれは人形です。リリアンと同じく」


 リリアンと同じ、人形。その言葉で、僕にはピンとくるものがあった。

 何しろ、僕はリリアンが人形であるという《特性》を利用して、尖晶クガイと秘色屋敷に旅をしたのだ。


「まさかとは思うけど、初代会長が人形の体で、ここに来ているってこと?」

「そう……その通りです。初代会長は、貴方の時間軸では既にお亡くなりです」


 リリアンは無表情だが、僕には何となくわかる。

 彼女は間違いなく唖然とする僕を面白がっている。

 少なくとも、彼女がキヤラ・アガルマトライトだったら、ここは爆笑ポイントだ。


「リリアンには時間の概念がなく、この空間も同じです。初代会長は、仕事の合間にここでリリアンが遊んでいるのを覗き見しに来るのが趣味なのです」

「見に来るだけ?」

「はい。会話をかわしたことはありません。いつも遠くにいらっしゃいます」


 つまり、だ。彼は過去からリリアンの《時間の跳躍タイムジャンプ》と同じ方法を使って、過去でも現在でも未来でもない、このブランコのある家の庭を《覗き見》しているのだ。ウィクトル商会のとんでもない魔道具の力を使って。

 あらゆる魔術が禁じられた現在の時間軸ではまちがいなく違法だが、ウィクトルのやっていることが有罪なのかは、僕には判別がつかない。

 でもかなり危険な行為だろうということは予測できる。


「何故そんなことを? お金持ちの考えることって、よくわからない」


 そう苦言を呈すると、リリアンの無表情に拍車がかかった。いや、わずかに眉間に皺が入る。たぶん、不機嫌そうだ。


「リリアンはもともと、初代様の娘に似せられて作られました。彼女は若くして亡くなったそうです……」


 リリアンはブランコから立ち上がると、僕の目の前で、くるりと一回りしてみせた。ステップを踏むブーツの軽さ。膨らむスカート。太陽の下で馬の尾のように流れ輝く髪。


「リリアンはこの姿に満足していますし、使用目的についても、異論はございません」


 死んでしまった娘に、時間を越えて会いに来る父親。

 言葉は交わさず、ただ遊んでいるところを遠くから眺めるだけ……。

 技術と魔術の壮大な無駄遣いなような気がするし、絵本の一頁のように幻想的な光景でもある。

 いずれにしろ、部外者が口を挟むようなことでもない。


「訴訟の件でいらっしゃったのでしょう?」

「まあ……そうかな。取り下げてくれたらしいって聞いたから、一応、確認に来た。間違いを認めてくれたのかな」


 リリアンは僕のことを鼻で笑った。


「間違いどころか、正しいことが証明されたようなものですが……」

「君はいったい、どこからどこまで事情を知ってるわけ?」

「何もかも。リリアン・ヤン・ルトロヴァイユは、初代様の美しきお人形。初代様をお慰めする娘様の似姿であり、商会の偉大な収蔵庫管理人であり、そして数多の魔道具を使いこなす三大魔女のひとりでございますれば」

「だったら、何故……訴訟を取り下げた?」


 リリアンが自分自身の推理に自信があるならば、負けるはずのない訴訟を取り下げる理由はない。


「初めからそうするつもりだったのです」


 彼女は事もなげに言う。


「ひとつは商会の利益のため。そしてマージョリー・マガツへのはなむけ、とでも申しましょうか」

「もしかして、君……。彼女が何をしようとしているか、知っていたの?」

「もちろん。彼女の計画には、ウィクトル商会の商品……《鏡》が深すぎるほどに関わっておりましたし、大事な顧客が二名も失われる可能性がありました」


 顧客のひとりは星条コチョウ、そしてもうひとりは魔術学院のマスター・サカキだ。そして尖晶クガイや菫青ミズメの失踪には、《黒一角獣の角》に端を発する諸々が、ウィクトル商会の忌まわしい収蔵庫の中身が関わっていた。

 ウィクトル商会の収蔵庫管理人であり、ある意味、収蔵庫に納めれられた品物のひとつでもあるリリアンとしては、商会の利益を守るために動かなければならない。


「そのために僕を脅したのか」

「ええ。マージョリーの計画に一番深く関わるはずの貴方に事情を伝える人物が必要でした。星条コチョウや、《角》や《鏡》のこと、それから尖晶クガイのこと。ですが、やり方を少しでも間違えると未来が変わる。ごく自然に貴方と接点を持つには、訴訟を起こすほかないと判断しました」

「未来の分岐は複数あって、複雑みたいだから、現在でも未来でも過去でも、時間軸の全てに関わることのできない《ウィクトル商会の人形》が相応しい……ってことか。それと並行して《秘色屋敷の執事》みたいなのもいたわけだけど」


 付け加えると、リリアンは明らかに敵意むき出しの表情になった。

 ずいぶん嫌われたな、ルニス。まあ、地上でルニスみたいな奴を好きになれる者はいないだろう。僕はいろいろ助けてもらったし、有効に利用できることを知ってるから好きだったけど。


「しかし、単に商会の利益のためだけでなく、マージョリーのしようとしていることを手助けしたい気持ちもありました」

「気持ち?」


 僕が問うと、リリアンは微笑んだ。

 薄っぺらな、感情のこもらない微笑みだ。


「おかしいですか? 人形が感情について話すのは」

「少しね」

「では、こう考えてください。感情というのは、退屈をしのぐための思考の遊戯だと」


 リリアンの言葉は、僕の理解力を越えていた。

 この心を揺さぶるもの、悲しみや苦しみを遊びだとはとても思えない。

 でもそう考えたら、三大魔女の気まぐれな行動のいくつかは、説明できる。

 とくにキヤラ・アガルマトライトなんか、気まぐれな遊戯のために、どんな悪逆非道だってやってのけそうだ。だって面白そうじゃない? とか言ってさ。

 だけど、マージョリー・マガツはそうだろうか。

 彼女は本当に、そうだっただろうか。


「マージョリーには何が見えていたのかな……」


 用件は果たした。オフィスビルの外に出てから、僕は呟いた。

 雑踏と喧騒は、僕に関係なく過ぎ去っていく。ここに僕はひとりだ。この世界になんの因果も持たない異邦人として、ひとり。


 ほんの少し前はマージョリーが近くにいた。

 あれはあれで得難い経験だったように思える。

 僕とマージョリーの距離はあまりにも近くて、過去の経験もあって、僕は彼女のことをわかった気になっていたけれど、今は。知らない人たちの知らない人混みに混じっていると、急に、彼女のことを遠く感じる。


 丘の上の小さな家も、飼っている犬や猫のことも、紙きれの上の頼りない落書きのようだ。


 果たして《千里眼の娘》は、世界の隅々を目にした魔女は、かつて、今ここにいる僕のことを見ただろうか。


 ルビアを見殺しにして、星条アマレを葬り去り、尖晶クガイすら手にかけて。

 数多の犠牲を払って竜卵の攻撃を防ぎ、そして未来に進んだ僕のこと。


 過去の彼女は、自分の命を犠牲に世界を助けると決めた彼女は、本当にあのメラルドグリーンの宝石みたいな瞳で、この血まみれの運命を見ていたんだろうか。


 どう思っただろう?


 愚かで、ただただ因果に翻弄されるだけで、正しくもなく、強くもなく、善人にもなれない。


 弱い自分……。


「マージョリー……見ている?」


 僕は呟く。


「ここで途方に暮れている僕を見て、君はどう思った?」


 何故、僕を選ぼうと思ったの?


 返事はない。

 彼女の魂は過去に消え去った。

 道を行く人たちは、自分たちが彼女の願いでできていることを知らない。








『第3話 星の灯、君が浮かべる月よりあかるく』了

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