9
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空に曇天が立ち込める。
ぽつりと頬に落ちた雨粒を合図に空が不気味に鳴り始める。
銀の森の梢のそばで、オルドルは乱れる天を仰いでいた。この天候の荒れ方はオルドルが意図したものではない。青海文書が起こす現象でもない。文書の内部は物語から決して外れたりしないからだ。
オルドルが森に存在している限り、そこは銀の月桂樹がならぶ食人鬼の森であり、死者たちの魂と銀で形作られた生命しか存在しない場所なのだ。
だから天候がこれほどまでに荒れたことはない。
だがマージョリーの莫大な魔力で創造したこの空間は、もはやオルドルを取り込んだだけの特異点だ。文書ではなくマージョリーが全てを決める。
そしてマージョリーはその術を急速に習得しつつある。
ここでは彼女が《アイリーン》の代わりなのだ。
「これは物語の管理者の力であり、登場人物であるボクには為せないコトだ。全く羨ましいったらないヨ。肉のカラダを持ち、現世に存在するコトを許諾された者たちが……」
ふう、とため息を吐き、足下にすり寄る兎を木の洞へと逃がしてやる。
オルドルの魔力の源である泉は波打ち、荒天の海のごとく荒れ狂っている。
雨粒は激しく大地を打ちつけ、稲光が曇天を裂き、轟音とともに視界が白く染まる。風が湖の上に逆巻いた。
稲光が三度瞬いた後、オルドルの手には金杖があった。
「マージョリー………」
紅い瞳の先には、湖の中心に佇むオーロラの髪を翻した少女がいる。
いや、そこにいたのはかつてのマージョリーではなかった。
すらりと手足が伸び、肉体には柔らかな脂肪をまとい、滑らかな抑揚ができている。その姿形は少女というより女性そのもので、魂だけでここに存在している彼女が、かつての姿に囚われる必要はないのだと悟った証拠でもある。
「やあマジョ子、ずいぶんのびのびしてるみたいだね」
「あなたのおかげよ。でもまだまだちからをかりたいの。オルドル……わかるでしょ、あの魔人にすべてのけいかくをくずされるわけにはいかないのよ」
「ど~~しよっかな~~~~~~? 君はボクの読み手じゃないワケだしぃ?」
「きょうりょくしてくれないなら、したくなるようにするわ」
マージョリーが手のひらから星を放つ。
小さな無数の煌めきは、森の隅々に広がり、その様相を変えていく。
豊かな葉を茂らせていた木々は立ち枯れ、狂ったようにうねる枝の先には、血まみれの死体が吊るされているのだ。
清浄な大気に血錆のにおいがまじる。雨粒は赤黒い水滴となり、魔力の湖に流れこむ。踏みしめる大地からは、腐った肉の感触がした。
「…………イヤだと言ったら?」
「これはツバキのためでもあるのよ」
オルドルは想いっきり表情を歪めてみせた。
目の前の存在を嫌悪し、そして批難する表情だった。
「キミに椿の何がワカるっていうんだ、お嬢ちゃん。予言しとこう、マージョリー・マガツ。キミにはツバキを救えない」
「すくうですって? あなたは……あなたは、いったいだれなの?」
「ボクはボクさ。師なるモノ。始祖の魔術師であり、銀の森のアルジ……」
「いいえ、ちがう。あなたは金いろの鹿さんとはちがう。なにかが……そう、あなたはオルドルとはちがう。べつのものだわ」
「同じサ」
「そうかしら……」
マージョリーは水面を歩き、オルドルに歩みよる。
その掌が青ざめた頬に
「みてみましょう。あなたがなにものなのかを」
星の瞬きを秘めた双眸に、どことも知れぬ世界がうつる。
類稀なる千里眼を持ち生まれてきた娘の、それが本領だった。目には見えぬはるかな世界を、過去を、未来を、自在に行き来する瞳。
マージョリーの瞳から、銀の森が、樹々が、次々に消えていく。
そして現れたのは、月光を浴びて翡翠色に輝く壮麗な宮殿だった。
不在の玉座、満点の星煌びやかなる庭園、薄絹の紗幕のむこうに佇む草木柄の衣をまとう《誰か》がいる。
マージョリーの掌がが紗幕に伸びる。
あたらしい、誰も知らない物語の一幕を開けるように。
その奥に進み、彼女は表情を強張らせる。焦燥と怯えが滲んだ顔で。
「そんな、そんなこと。あなたは――――あなたは、自分がほんとうはだれなのかをしってるの?」
「ボクは師なる者。はじまりの魔法使いにして、人食いのバケモノだ」
「ちがう、ちがうわ。だって、あなたは」
言い募る小さな唇を、血色をした爪が塞ぐ。
「マジョ子、バカだね。この世界には言葉にならないこと、そうしないほうがいいコトもあるんだ。そのコトを知っているモノ、それが魔法使いってモノだ」
千里を駆け抜けた瞳は、再び銀の森へと還って来ていた。
オルドルは哀れな犠牲者たちが打ち付けられた銀の森に佇み、狂気を忘れて微笑んでいる。
金杖がその手のなかでくるりと回転する。
樹々がざわめき、オルドルの支配下に置かれる。
茨は成長し、主を守護し、敵であるマージョリーの周囲を取り囲む。
「だけど、いまのあなたは、ツバキにだいじなものをわたしてしまったあなたは、わたしにはかなわない。それに、あなたのてきじゃないはずよ!」
「そうだね。でもアホのツバキ君にとっては違う。なァに、ほんの少しばかり時間を稼ぐだけサ」
「それがどんなけつまつをもたらすか、あなたならわかるはず!」
茨が迷宮のように絡みあう。
回転しながら狭まり、捉えられた少女の肉に肌に食い込んでいく。
「難しいもんだねぇ、スケラトス。マ、結局のところ、ヒトがヒトを救うなんて大それたコトは《万能》をもってしても不可能ってハナシだとボクはおもうネ。――でも、ひと時。しのいでみせようじゃないカ」
マージョリーを閉じ込めた狭苦しく獰猛な鳥籠から遠くへと、オルドルはその場を離れる。
地面に滴り落ちた血の雫が大地に落ちると、そこから地面が割れ、禍々しい爪がひとつ、ふたちと這い上がりはじめた。
大地の亀裂から現れたのは、銀色の体に、オーロラの瞳をした巨大な竜だ。
オルドルもまた杖を振るい、小さな鹿へと姿を変えると、竜から距離を取るために駆けだした。
決して果てには辿りつけない、マージョリーが作り上げた、物語という小さな箱庭の中で。
*****
突然、頭がひどく重たくなる。
まるで見えない透明な掌で頭を押さえつけられているみたいだ。
「どうして君がここに出てくるんだ……!?」
呻き声を上げながら、虚空に話しかけたせいでプリムラがぎょっとした目でみてくる。ただでさえ僕の人物評価は、何もない空間で使い魔と喋ってる奴だ。
マージョリーの声を聞いた瞬間、押さえつける力が強くなった。おまけに胸の奥から立ち昇る炎のような感情が吹き出すのを感じた。怒りだ。
魔人を殺さなければいけない、という強い怒り。
しかも、これは……僕の感情じゃない。自分の意志を越えたところで何かが起きている。
「マージョリー。オルドルでもいいけど、何か言ってくれ」
しかし突然、声が聞こえなくなる。ふたりとも、同時にだ。
何で、という疑問よりも先に確信があった。
マージョリーには確かな狙いがある。無垢な子どものふりをして、でも、目的があって、そのために駒を進めてる……。
だけど、それが何なのかはわからない。何故、魔人と繋がるのかも。
考えようとするたびに激しい怒りが胸を焼いて思考の邪魔をする。
オルドルとの繋がりが絶えたわけじゃないんだ。むしろ、奴の怒りが逆流して、読み手であるはずの僕を侵食しようとしてきてるのを感じた。
「マスター・オガル、魔術学科の教官たちに連絡を。竜鱗学科の学生たちにも協力をあおがなければなりません。一刻もはやく生徒たちと避難者をシェルターに誘導しなければ致命的な被害が出ますわ!」
プリムラがなんとか立て直そうと言葉を繋ぐ。これは異常で、一刻の猶予もない非常事態で、何かを失って永遠に後悔し続けるはめになるかどうかの瀬戸際なのだ。
「――――マスター・プリムラ、敵はこちらの魔術を《模倣》するんだ。絶対に攻撃しないでください。追い払うだけ。特にマスター・サカキとか、マスター・サカキとかに伝えて」
そういえば、サカキから呼び出されていたことを思い出す。
あの人の魔術はとにかく破壊の規模が凄まじい。
対人戦闘というより、建物とか街とかいう規模の破壊をもたらす軍用の戦略魔術だ。竜鱗魔術に加えてアレを習得されたら、僕はそれだけで二、三回は死ねる。
「でも……攻撃せずに追い払うなんてどうすればいいんですの?」
「色々方法はあるでしょう。防御魔術で時間を稼ぐとか」と、オガルが返す。
「あ、なるほど。隠蔽にまつわる魔術なら、敵に捕捉されずに生徒を逃がすことができますね」
とんとん拍子に話が進んでいく。
ここには、《マスター》と呼ばれるに相応しい魔術師たちが何人もいる。
思考を放棄しなければ、立て直せるはずなんだ。
「それと同時に、元凶である《魔人の本体》を叩かなければなりません。元を絶たなければ、事態は永遠に続くでしょうから。そちらは、マスター・ヒナガ、あなたにお願いします」
リリアンが冷静に口を挟んだ。
冷静だが、言ってることはめちゃくちゃだ。
「え、なんで僕なの」
リリアンは真顔で、首をこちらに九十度、傾けた。
怖い。
「この人形めに、二度、同じことを言わせたいようでいらっしゃる」
怖い。すごく怖い。
「マスター・ヒナガに聞きたいことはありますが、手分けをしたほうがいい状況なのは確かですわね……」
後でとっちめますから、とプリムラの顔に書いてある。
果たして、僕が悪いのか? これって僕が悪いのかな?
話がまとまったとは言い難い状況だが、空気を読む気も必要も感じないらしいリリアンは「では」と短く言って、廊下の向こうへと歩き出した。
僕はその背中を慌ててついて行く。
「何か当てでもあるわけ?」
「ありません」と、彼女は堂々と言い放った。
何かしら確信がありそうな歩き方だっただけに、がっかり感が凄い。
「もしかして大げさに転倒してみせたほうがいい場面なのかな」
「ですが、これ以上あの二人に魔人の正体に近づかれてはお互い、困りますでしょう?」
「魔人の本体って、コチョウが写し取ったクガイのなれの果てってことだよね」
コチョウはクガイとミズメの分身を本人たちと成り代わらせて、世間の目を欺いていた。しかしクガイに埋め込まれた一角獣の角が暴走し、御せなくなったコチョウはリリアンの力を借りてクガイを再度、封印した。
その封印を解いたのがマージョリー・マガツだ。
そして、マージョリー・マガツは再び僕に、《魔人》を殺せと言ってきた。
危険な魔人を野放しにするのは確かに反対だけれど、やってることがムチャクチャすぎる。
僕は眉をしかめた。
「うぐ……!」
しかも断続的に、腹の底から熱が湧きあがってくる。
いつもみたいにオルドルたちの声は聞こえないのに激しい怒りが断続的に発生するのだ。今は必死に理性で押さえているが、この怒りに呑まれたら、僕はもう、魔人を殺すことしか考えられなくなるだろう。
「どうなさいました」
「気にしないで。とにかく、魔人の本体を探さないと」
分身は《コチョウはどこだ》と口にしていた。
やっぱり目的は星条コチョウなのだ。
でも謀略を成功させ、学院を卒業したコチョウがこんなところにいるはずがない。そのことに気がついていないのか、それとも、学院に何かがあるのか。
「過去に、戻ってみますか」
「は?」
「コチョウが……いえ、あの三人が、《ファウストの鏡》を手にした頃に」
わからない。
このときばかりは、言葉の意味が全くと言っていいほどわからなかった。
まるで時が止まったようだったが、そうでないことは学院のあちこちで起きる悲鳴や怒鳴り声、物が破壊される音で明らかだった。
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