2 幻惑
気がつくと湖のほとりに出ていた。
いつか見た銀の森、オルドルの泉のそばだ。いつか見た光景のまま、オルドルがランプの明かりの下で本を膝の上に乗せたままうたた寝をしている。
これは夢だ。いつもの僕の夢。
そして次にこの夢をみたら、やることはひとつだと僕は心に決めていた。
「マージョリー・マガツはどこだ!?」
思いっきり草を踏みつける。足の裏に感じるかなりリアルな土の感触を無視しながら、オルドルのそばに駆け寄った。
オルドルは左目だけでちらっとこちらに視線をやり、口元を歪めた。
「彼女に会いたイかい? 物好きだねぇ~キミも~」
「話があるんだよ。星条アマレのことで。お前も見てただろ!」
「星条アマレ……ね……。ホントに知りたいのはあの魔人のコトじゃないノ?」
オルドルが手招きのようなしぐさをする。
鏡のような湖面に、真っ黒な影と、黄水ヒギリの姿が浮かび上がる。
雷神のように閃く剣筋が影の頸を切り取ったその瞬間、露わになる魔人の顔……。心臓が早鐘のように鳴る。
その光景から、僕は咄嗟に目を逸らす。なんだか息苦しい。
《父さん》
湖の上には、切り落とされた魔人の頭部を呆然と眺める僕の幻影があった。
その表情は僕自身が見ても、間抜けだ。驚いているような、恐れているような、衝撃で思考を放棄したような、そんな顔だ。
何故、そんなコトバを口走ったのか、自分でもわからない。
なんとなく……だけど、そんなふうに感じたのだ。僕と母さんを捨てて出て行った自分の父親に、なんとなく似ているって。
実際の記憶にある父親は四十なかばは過ぎていたから、魔人とくらべると若すぎるし、緋色の目をはじめとして違うところがありすぎる。
魔人の正体は尖晶クガイなのだ。
前女王の、正統な騎士。
魔眼の使い手。
父さんじゃない。
父さんなんかじゃ……。
オルドルは僕を動揺させようとしているだけだ。
「尖晶クガイは有名人だ、少し調べれば顔くらいわかる。なぜ調べてみなイ?」
「知らないよ。それより星条コチョウに何かしただろ。しかも僕の知らない間に……さっさと会わせてよ」
「マージョリーなら、いるじゃないか。ここに」
オルドルが本を広げてみせる。
そのページは真っ黒に塗りたくられている。
なんだか怖い。そう感じた次の瞬間、僕の意識が本の頁の中に引き込まれる感じがした。
忘れてた。ここは魔法の空間で、魔術師でもなんでもない僕はされるがまま、子どもみたいに無力なんだということを。
そして気がついたときには、星のきらめく夜空に放り出されていた。
僕の足元を白い掌が支えていたからだ。
巨大すぎる両手が僕を包んでいる。
闇の中から、翡翠色の光が現れる。
星の光を散りばめた美しい紗幕のような髪。ふさふさした三角耳。銀河を溶かした瞳が、視界に収まりきらない白い裸身が……。夜の女神と化したマージョリー・マガツが。
その威容はあまりにも大きすぎて、口を半開きにしたまま見上げることしかできない。もしも彼女が気紛れを起こしたら僕は一瞬でぺちゃんこだ。
「ツバキ、こんにちは」
声が、耳元で反響する。
囁き声なのに、全宇宙に届くかっていう、大声だ。
「こんにちは……って、何これ、なんでこんなことになってるの? オルドルはどこ……?」
「鹿さんはねぇ、食べちゃった。さっきあなたがいた森はここなのよ」
白い掌が、少しだけ丸みを帯びた腹部を撫でた。
僕は今女性の裸身を目にしているわけだが、はっきり言おう、ぞっとした。
「食べちゃった……って……どういうことだ……!?」
「力の使いかたを、もっともっと知りたかったの。だからオルドルも、銀の森も、ぜーんぶ……マージョリーのものにしたの」
オルドルは物語の存在だけど、僕とは血を介した繋がりがある。
そのオルドルが全部、彼女のもの……?
なんだかそれってヤバくないか?
いや、ヤバイなんてもんじゃないぞ。何しろ、オルドルは以前からちょいちょい僕の体を僕の意志から離れたところで操っていたのだから。
「まさかとは思うけど、コチョウに攻撃したのは君なの……?」
つまり、だ。
僕がコチョウと対面したとき、魔術を仕込んだのはマージョリーなのだ。
本当に《マージョリーに操られた僕》がやったのだ。
それも無意識に。
「そうだよ、よくわかったねえ。オルドルが操っていたツバキ君の無意識を利用したの。ルビアとの戦いでたすけをもとめたでしょう? それとおんなじ要領で、コチョウのところに魔術をのこしたの」
「僕の体をあやつって……?」
「そう。ツバキくんったら、ぜんぜん気がつかないんだもん」
冷や汗が出た。
いったい、いつからだ? いつから、オルドルがいなくなってたんだ?
というか、オルドルにしたって僕の体を許可なく操縦させてはいけなかったんだ。比較的味方っぽいのがオルドルしかいないからって、最近少し気が緩みすぎてた。何を考えてるんだ僕のバカ。
「それじゃあ、星条アマレが言っていた……すべて君の思い通りっていう言葉は、なんなんだ?」
「それはまだ秘密……。女の子には秘密があったほうがミリョク的でしょう? それとも、そんなに百合白姫がいいの?」
なぜ、この文脈で彼女の名前が飛び出したのかは謎だ。
「それとも、お父さんに会いたい?」
動揺した。
会いたくないと言ったらウソになる。
でも会いたいかというと、それも真実じゃない。
「なぜそんなことを聞くの?」
「ねえ、ツバキ君。オルドルじゃなくて、マージョリーじゃだめなの? 百合白姫じゃなくて、お父さんじゃなくて、マージョリーじゃだめなの?」
「……どういう意味?」
「いじわるだなあ、ツバキくんは」
巨大なマージョリー・マガツの唇が近づいて来る。大きく口腔を開けて、そして、まさにひと口で飲み込まれた。
目覚めると、そこは星空ではなかった。
周囲の景色は、かつて見たスラム街の風景に似てた。
油でべとべとの床、狭い路地。腐った潮風のようなにおいがどこからか吹き込んでくる昼間でも陰鬱な場所。
人影はある。
でもそれは本当に影で、目も鼻もないただの黒い影だった。
背中の曲がった老人の影がごみをひろい、若者が何をするでもなく佇んでいる。
その影だけがある。
この世界をマージョリーが見せてるのは確かだけど、目的がわからない。
まあ、彼女の目的なんて最初から全然、皆目サッパリわからなかったわけだけど……。
わかるのは魔術を利用して、この夢を通じて何かを見せよう、知らせようとしているんだということだけだ。
「マージョリー、どこだ……?」
周囲を取り囲むあばら家のひとつから怒鳴り声が聞こえる。
怒鳴っているのは主に男だ。
女の声がときどき言い返し、その合間に物が壊れる音がする。
心が刺激されて過去の嫌だった思い出がみるみるうちに蘇りそうになる、そんな音だ。
開け放たれた窓から中を覗くと《荒れ果てた》というより何もない部屋の中で男女の影が揺れていた。
男はしきりに「だから言ったじゃないか!」と叫ぶ。
「教団の連中に従うべきだって!! 財産も工場も全部差し押さえになって、これからどうやって生きていくんだ、もうおしまいだ! なにもかも!」
「それじゃあ、あの子を教団に差し出せっていうの? あたしたちの娘よ! それに貴方もあの子を守ろうって……最初は同意してくれたじゃない」
「俺のせいなのか!? こんなことになるなんて思ってなかったんだよ、ちくしょう! お前があんな娘を生むからだ!」
男が暴れ、ただでさえ少ない部屋のものが砕け散る。
白い陶器の破片が木製のテーブルの上で跳ねた。その下には痩せた膝を抱え、争いに背を向ける少女が蹲っていた。
影ではなく、それはたしかに少女だった。
薄緑色の髪の毛は栄養不足でぼさぼさになり、あちこちで絡まっている。ワンピースは汚れ、スニーカーは片方が脱げたままだ。脱げた片方を探す気力は、その痩せた体のどこにもない。
それなのに瞳だけは小鬼のごとく爛々と輝き、美しいというよりは不気味だった。
少女のそばに駆け寄ろうとした僕のシャツの裾を、誰かが掴む。
振り返ると、そこに普通サイズのマージョリーが立って微笑んでいた。
「あれは、君なの?」
一目でわかった。
テーブルの下の少女は、暗く塞いだ表情を除けばマージョリーによく似てる。
「そうだよ。そしてあれが私のお母さんとお父さん。ちいさいころは、ああしてよくけんかしてたの。でも、おおむかしのことだよ」
「…………なんでって、きいてもいい?」
「マージョリーのひとみが、とくべつだったから。教団のひとたちがね、ほしがったの。てにいれるためにはなんでもしたの。教団のなかには、べんごしもいしゃもせいじかもいるから……」
両親は最初、娘を守ろうとした。
《千里眼》という特別な才能を持ってはいたが、あくまでも自分たちの娘として普通の暮らしをさせようとした。そうすることを選んだのだ。
しかし容易には渡さないとなると、教団は彼らを徹底的に追いつめた。
ありもしない罪をでっちあげ、財産を根こそぎ奪い、嫌がらせを繰り返して住む場所を奪った。夫婦は女王国の各地を逃げまわり、ろくに出歩くこともできない生活を余儀なくされ、そして互いへの愛情を忘れて行った。
二人は娘の前でも激しく言い争い、互いに暴力を振るうようになって、そして。
「いえでをしたの。よなかにこっそりぬけだして……じぶんで教団にいったのよ」
教団はマージョリーを受け入れた。
宮殿のような住まいに閉じ込めて、勉強もさせず、世間の情報もろくに与えずに長い間ずっと……。
その犠牲の甲斐あって両親は教団の悪夢から解放された。
それがマージョリー・マガツなのだ。
すべて語り終えると、窓枠を背にして僕に向き合った。
「……ねえ、ツバキくん。わたしたち、よくにているよね」
僕たちは身近な人たちが傷つけ合い、そして破滅していくのをそばで見ていた。
そして見ているだけだった……。何もできなかった。何かしたかったのに、何一つできなかった。
「ねえ、ツバキくん。わたしをあなたのおよめさんにして」
マージョリーは真っすぐに僕を見つめてくる。そしてボクシングみたいに、両の拳を握ってみせた。
「いまのマージョリーはつよいよ。げんえきの魔術師なんか、だれもマージョリーにかなわないとおもう! あなたのてきなんか、ぜんいんぶっつぶしちゃうよ!」
だから、と、彼女は言った。
だから……。
そして拳をほどいて、僕のそばに来て、そして、その痩せた腕で僕を抱きしめた。
彼女の腕は骨ばって、百合白さんほど滑らかでもなく紅華ほど力強くもない。
「あなたはもうくるしまなくていいの。たたかわなくていいの。百合白姫のことも、オルドルのこともわすれて、マージョリーの旦那様としていきるの。マージョリーもわすれるから……つらかったことも、これまでのことも何もかも……」
それは頼りない言葉だった。
もしも本当にそうなら。辛いことを全部忘れてしまえるのなら。マージョリーの声は震えてはいないはずだ。
「それで、どうするの?」
マージョリーは煌めく瞳を瞬かせる。
「白いおうちをつくるの! そしてかわいい犬とねこをかって、そして、ふたりでのんびりくらすのよ。わたしはくっきーやけーきを焼くわ」
まるで絵本のような未来絵図に、僕はつい笑ってしまう。教団に囲われていて世の中のことを知らないからか、マージョリーの頭の中はまるで子供のようだ。
でも彼女ならきっと、そうできるのかもしれない。青海文書の力さえ超える魔力があれば、僕が頷きさえすれば、白い小さな家で、二人で、過去の辛かったことは全部忘れて。
全部……忘れて……。
「そしてね……あなたにはべつのなまえをあげる。ツバキじゃない、べつのなまえを……そうしたら、あなたはべつのひとになれる。ヒナガツバキではない、マージョリーのほんとの旦那様に……」
過去のことを考えるときの心の痛みを全て忘れて、別の誰かになって生きる……。
それはかなり魅力的だった。
なんて素晴らしいんだろう。
それが叶ったら、もう苦しまなくてもいい。眠れない夜を過ごさなくてもいい。
だけど僕は頷けなかった。
うん、君と一緒に行くよ。
と、その一言がどうしても言えなかった。
彼女を引きはがし、そしてあばら家の中に入って行った。テーブルの下にしゃがみこむ少女へと手を伸ばし、自分の胸に引き寄せた。
背中に割れたガラスの破片が降り注ぐ。
怒鳴り声が押し寄せてくる。それでも離さなかった。
「どうして……?」
入口の、薄っぺらな戸板の前にマージョリーが立っている。
「昔、僕も誰かにこうしてほしかった。抱きしめて、大丈夫だよって言ってほしかった。だから……」
残酷なことだけれど、過去のことを忘れるなんて無理だ。
今でも怒鳴り声が聞こえると身が竦む。
人知れず体が震える。
臆病で、何もできなかった子どもの頃を思い出すと無力感でどうしようもなくなる。
だけど何もかも忘れて新しい生活を選んだとしても、誰かに助けてもらいたかったその頃の自分がいなくなるわけじゃない。過去が消えてなくなるなんてことはあり得ない。きっと、どこにいて何をしていても、僕らは震えながら生きていかなければいけない。
「君と一緒には行けない。やらなくちゃいけないことがあるんだ」
答えると、少女の幻影は、いつの間にか消えていた。
そしてそこは星影の輝く静かな湖の畔へと姿を変えていた。
物語が頁をめくるように、そこは想像力の支配する世界なんだ。
「マージョリーはどこ……?」
「フッた男には関係ないさ」
オルドルの声がした。
銀の月桂樹の根本で、オルドルが本をめくっている。
「ええと……本物?」
「ホンモノもホンモノさ。ちょっとばかし具合が悪いけどネ」
オルドルは苛々としながら、ズボンの裾をめくってみせる。
そこには、銀色の足かせがはまっていた。鎖の先は幹と一体になっていて僕が力任せに抜こうとしても全然ダメだった。
「マージョリーがやったんだ。今のボクは彼女の体のいい奴隷ってところだネ」
「何かおかしいって思ってたよ。いったいなんでそんなことになってるわけ」
「彼女に《魔術》を教えタ。そしたらアッというマに才能が開花した」
僕は頭を抱えた。
「それで、お前は鎖で繋がれた犬のようになったってわけ……」
「勝手にやらしておけばイイ、たまにはたっぷりと読書でもしていればネ。すぐに終わる。彼女には逆らうな、敵じゃない」
不思議なことに、あのプライドの高いオルドルに悔しがる様子はない。
「そうは言ったって、こんな状況はおかしいだろう」
「もう一度言う。マージョリー・マガツはキミの敵じゃなイ。いいかい、銀の森の魔術師ヨ。ボクらの敵はいつもいつでも間違いなく《竜》なんダ」
パチン、とオルドルが指を弾く。
僕の目の前で。
それで。
*
それで《僕》は目を覚ます。
市民図書館の閲覧室。
目の前には異邦人の僕でさえ古めかしいとわかる、小さなテレビがあった。
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