8


 エミリ、というらしい女性は、市警が到着する前に慌ただしく去って行った。

 というのも、彼女を襲っていたのは彼女の夫その人で、エミリは暴力的な夫から逃げようとしていたところだったのだ。


「これから娘と海市を離れるつもりですが、落ち着いたらお礼がしたいのでこれを……」


 そう言って彼女は連絡先を渡してきた。


「でも、逃げなくても市警にまかせておけば、あの人は捕まると思うけど……」


 僕は海のほうを振り返って言った。

 元夫は溺れそうになりながら、海面を漂っている。銀鎖でつないでいるので、流されることはないと思う。

 もちろん陸に上がってくることもない。口汚く「エミリは俺の女だ! 娘を返せ!」と腕を振り回しては、オルドルに沈められているのだ。オルドルはこの遊びを楽しいもの、と認識しているため、しばらくやめそうにない。僕にも特別、やめさせる理由がない。

 妻と娘を返してほしければ最低でも暴力をふるうのをやめなくてはならない、という単純な事実すら理解できない馬鹿だからだ。


「じつは、あの人の親戚が市警に勤めているのです。とても信用できません」

「あ、そう……」

「それに……」


 彼女は頬を赤らめた。なんでもエミリにはすでに新たな恋人がいて、その人と新天地に飛び立つ予定なのだという。

 よく観察すると、元夫がなんだか汚らしくてみすぼらしいジャンパーを着ているのに対してエミリとその娘は仕立てのいい、おそろいのワンピースや高級そうなバッグを手にしていて、いかにも羽振りがよさそうだった。

 僕はふたりを見送り、男を市警に引き渡して市民の義務を果たすと、ミクリと帰路についた。


「とんだことに巻き込まれてしまいましたね……すみません、私が誘わなかったらこんなことにはならなかったのですが」


 ミクリは申し訳なさそうな顔をしていたが、その気の使い方は不要だ。


「巻き込まれ方でいくと、これまでのに比べたら、蚊に刺されたようなもんだよ。それよりもアマレのことだ。僕はこれから居場所を調べてみようと思う。僕の下宿しているところに、昔、黒曜家で家庭教師をしていた人がいるんだ」

「三大貴族のですか。先生はとても強いコネをお持ちなんですね」

「そのせいで死にかけたこともあるけどね。まあ駄目だったら、天藍にでも……」


 言いかけて、口を噤んだ。


「あ、いや、なんでもない。何かわかったら、連絡するよ。一旦別れよう。これからちょっと野暮用があるから」


 ミクリは一瞬、不用意に途切れた言葉の続きを探すような表情だったが、察しがよい彼女のことだ。何も訊ねずに、そこで別れた。

 もしも訊ねられていたら、なんて答えただろう。

 なんにせよ、天藍は今回、頼れない。



*



 向かったのはユルシ通りというところだ。

 かつて魔術師たちのために呪具や魔術書を調達し、売りつけていた商人たちが軒を連ねていた由緒ある場所である。

 魔術が禁止になり、高級ブティックが立ち並ぶ商店街へと姿を変えたが、厳しい法規制や細かな条件を乗り越えて今も営業を許された店舗がいくつかある。ウィクトル商会もそのひとつで、歴史ある店構えが通りの真ん中に鎮座している。

 幻術を解いて回転扉を入る。店構えに反して、内部は新しい。

 磨き抜かれた黒い床が鏡みたいだ。デパートみたいに商品が陳列されているのかといったらそうでもなく、キレイなオフィスみたいな雰囲気だ。三方にカウンターがあり、商談をする客と店員がいた。

 どこかから古いもののにおいがする。

 ひくひく、すんすん、という音が耳元でする。オルドルが鼻を鳴らす音だ。


『ふん……つまらない店だネ。で、どうするツモリなの~?』

「わかんないけど、なんとかするしかないだろ」


 内ポケットから、手紙を取り出した。

 ウィクトル商会から――三大魔女リリアンから届いた手紙だ。

 僕はここに書かれた見覚えのない内容について、彼女に問いたださなくてはいけないのだ。

 すなわち、僕が商会から《何か》を買って数億円の借金があるとかいう、まったく身に覚えのない事柄についてだ。

 身に覚えのない殺人ときて、さらに身に覚えのない借金が続け様にやってくるとは……。

 この手紙に比べれば、路上で起きた殺人未遂などまだかわいらしいものだ。


「あの、すみません。こちらにリリアンという方はいらっしゃいますか」


 適当に、手が空いていそうな店員に話しかける。

 店員は僕の格好と手紙の内容を矯めつ眇めつし、素っ気なく「あちらの昇降機で最上階に上がってください」と言った。

 フロアの隅に、朽ちかけた檻みたいなものがある。

 てっきり、荷物の運搬用かと思っていた。ギシギシいうそれに乗り込んで、最上階のボタンを押す。

 着いた階は闇に閉ざされていた。

 勇気を出して一歩踏み出すと、長い廊下に明かりがともっていき、真ん中あたりで途切れた。

 そこの扉を開けろ、という、意志表示に思える。

 扉の向こうには案外普通のオフィスがあった。変わったところといえば、革張りのソファの向こうに暖炉があり、火が入っている。


「誰も……いない」


 きょろきょろしていると、笑い声が聞こえる。

 でも、人影はない。


「こっちに来て」


 声と一緒に暖炉の火が揺れる。


『気が乗らないナ……三大魔女の巣穴に頭から突っ込むなんて』

「巣穴って……獣じゃないんだから。仕方がないだろ、こんな大金、とてもじゃないけど返せないし、そもそも身に覚えがない」


 誰もいない部屋をぐるりと一周し、火に手をかざした。

 あたたかいが、焼けるほど熱い、というほどではない。にせものの火だ。

 僕は意を決して、その火をくぐった。

 熱さはないはずなのに目を瞑ってしまう。再び開いたとき、僕の手足は茂る若草を踏んでいた。

 目の前には小さな野生の草花が咲きそろう庭と空と、見知らぬ家があった。

 家の前に木製のブランコがあり、リリアンが腰かけていた。


「来ると思ってた」と彼女が言った。


「これも、魔術でできているの?」

「ええ、もちろん。すべてが商会が所有する魔道具の力です」

「さっそく、話があるんだけど」


 僕が手紙を差し出すよりはやく、彼女は銀色の小箱をとりだし、蓋を開けた。

 薄水色の絹にそっと寝かされていたのは、真っ黒い……。


「うっ……」


 思わず半歩下がってしまった。

 そこにあるのは、角だ。

 色は黒。付け根は太く、らせんの刻み模様をつけながら、尖った先端に向けて伸びていく。表面は滑らかなガラスに似た光沢をまとっている。

 光沢のその下で、何かが確かに蠢いているのが見えた。

 みみずのようにのたうち回って這いまわる、汚らしい何かだ。


「それは、何……?」

「こちらが、黒一角獣の角――の、複製です。これは魔道具というよりも呪いの産物といったほうがいい」

『…………絶対に近寄ってはいけないヨ。惨たらしく死にたくなければネ』


 しかし近寄るまでもなくリリアンの手の中で、角は罅が入りもろい土塊になって崩れていった。


「この世の悪しきものを集めるって、どういうこと?」

「言葉通りの意味ですよ。コレは、憎悪や怒り、不安や悲しみをもたらす運命を引き寄せては絡め取り、結晶化する稀少鉱物なのです。要するに、悪運を招き入れてため込むタンクのようなものです」

「それを製作した人間は心を病んでるとしか思えない」

「しかも満タンになることがありませんから、不出来なものは、この模倣品のように崩れ去ってしまう」

「ええと、そんなものをため込んで何をするんだ?」

「それは性質ですから、どう利用するかの問題です。強いて言えば持ち主を不幸にします。永遠に」

「そんなバカの作った永久機関を僕が購入したっていうのか? こんな値段で?」


 彼女は手紙を一瞥する。ものすごく冷たい、というか無感動な瞳だ。

 こんな額面をこんな冷たい目で見つめられる人間はいないだろう。


「ウィクトル商会が扱う品に、バカみたいなものは存在しません。学術的にも芸術的にも素晴らしいもの。すべてが魔術の発展に寄与するものです」

「僕にはそうは見えないけど」

「貴方以外の顧客にとってはそうなのです。ですから、商会は特別なのです」

「……そのことについてはもう反論しないよ。でも僕は君たちと売買契約を結んだ覚えはない。その額なら、どこかに契約書か何かがあるはずだろ。それを見せてくれよ」


 僕はあくまで法律に訴える。ここは魔術があるが、魔術を禁じられた法と理性で統治された国家のはず。


「ウィクトル商会が扱う特別な魔道具の一部には売却という概念がありません。あくまでも貸与です。購入した者が亡くなれば、その子か、ほかの相応しい人物が遺産として相続し、所有します。後継者がなくなれば、商会の元に戻りますがいずれにしろ、代金を商会に支払わねばなりません。そういう契約なのです」

「えーともしかしてだけど、僕に請求されたこの法外な値段は……」

「そう、所有権の移譲のための代金です。実をいうと、この黒一角獣の角の《本物》は長い間行方不明でした。最後に確認されたのが学院の教官、マスター・ロカイに譲り渡されたときです」

「マスター・ロカイ? きいたことないけど」

「もうすでに退官されています」


 リリアンは続ける。

 

「ですが、ロカイのもとから、この角は盗み出されてなくなってしまったのです」

「僕が犯人だとでも言うつもりか」

「そこが複雑なのです。盗難の犯人は、わかっています。当時、魔術学院に在籍していた二人の生徒、《星条コチョウ》と《尖晶クガイ》の二名が盗み出したのです」


 コチョウ。

 その名前が、ここで出て来るとは思わなかった。


「えと、じゃあ、そのふたりのどっちかが持ってるわけだろ」

「コチョウ氏が不幸に見えます?」


 残念ながら、全く、見えない。

 身分にも容姿にも恵まれて、おまけに事業は大成功だ。少しでも不運だったら、誰もが羨む栄光を手にすることはできなかったはずだ。


「そして、尖晶クガイ様は行方不明なのです」

「ホラ、いまの持ち主はどう考えても、そっちのセンショウなんとかって人だろう」


 大魔女は無機質な溜息を吐いた。

 なんだその態度は。バカは僕の方だ、と言われているみたいだ。


「商会も、当初はそう考えていました。――貴方が現れるまでは」

「どういうこと?」

「貴方は、不幸を招き寄せやすい。びっくりするような事件や事故が、身の周りに頻発するでしょう。銀華竜やキヤラのこともそう。それが、この角の効果と酷似している」


 それは、身に覚えがないこともなかった。

 星条アマレに関わったがために、帰りがけに騒動に巻き込まれた。その前に、いつもはいないはずのコチョウが在宅しているという不幸もあった。

 それに。ルビアの死に関わった、その事件のことを僕はまっさきに思い出していた。


「……確かに否定できないけど、それはもともとの運の悪さだ」

「ほんとうにそうかしら」


 リリヤンはじっと、冷たい、水晶のように透明な眼差しでこちらを見つめてくる。


「商会は、訴訟を起こすつもりでいます」

「ええっ!」

「何が真実なのか、裁判で明らかにするつもりなのです」


 また、という言葉を、すんでのところで飲み込む。

 マージョリー殺害の疑惑をかけられ、逮捕された不幸については聞かれたわけではないので黙っておいたほうがいい。心証が悪くなるだけだ。


「裁判は困るけど。君は、どう思ってるの?」

「わたし……ですか?」


 いかにも才媛というふうな、彼女の瞳が少し見開かれる。


「さっきから聞いてると、商会は商会はって、主語が自分ではないからさ」

「わたしはあくまでも収蔵庫の管理人ですから。管理人は商会の決定に従うだけ。貴方から品物を回収しなければなりません」


 三大魔女とはいえ、あくまでも、彼女は商会の所属員として僕に手紙を出したようだ。彼女と争っても、商会が意見を変えないかぎり意味はないということか。


「改めて言うけど、僕は持ってないよ。この《角》を見たのははじめてだ。そういうものがあるっていうことも、今このときまで知らなかった。事情は話せないけど、絶対に知らないんだ」


 愚かでも、そう主張するしかない。

 それが真実だ。僕は、藍銅からやってきた魔術学院の教師ではない。

 魔法のない日本からやってきた異世界人だ。翡翠女王国人である星条たちが盗み出した角に触れる機会はなかったはずだ。

 それを説明できないのが残念だけど。

 しかし彼女はおずおずと、こう切り出した。


「星条コチョウと尖晶クガイは、異世界の扉を開けたのです。《角》にこめられた負の力を使って」

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