3


 コチョウは短剣を引き抜くと、その傷口に《角》をねじ込んだ。

 単純な事実であると同時に度し難い出来事でもある。


 感覚が麻痺しているのか思ったよりも耐えきれない痛みではない。

 だが、息ができない。

 呼吸すると筋肉が動き痛みが走るため、自然と息を止めてしまう。

 脂汗が額から流れて雪の上に落ちる。


 雪……?


 あまりの痛みに、自分でも気がつかないうちに意識を飛ばしていたのかもしれない。

 気がつくと、周囲の風景がまるで別のものに変わっている。

 裁判所の薄暗い地下はどこにもない。

 俺は一面の雪原に寝そべっている。そして、頭のほうをミズメが支えてくれていた。

 右肩が凍りついたように動かない。

 コチョウは血塗れの手で、なぜか手鏡をこちらに向けている。銀色の表面に俺とミズメの姿がうつっていた。


「なぜ、彼にこんな仕打ちをした?」


 ミズメは杖をコチョウに向けている。

 彼は今やはっきりと覚醒し、澄み切った青い眼差しをコチョウに向けている。

 でもそれは何の意味もない、とんでもない行いだ。


 俺は魔術師としては並以下だが、それでも理解できる。


 この場所には魔力がない。


 指先に触れる雪は冷たく、広い空は白く煙り、風はどこからともなく凪いでいるのに、この世のなにものも俺の呼びかけには応えないだろう。

 予感がするのだ。ここは翡翠女王国とは根本的に違っている。


「扉を越えたのか……」


 ミズメがうなずいた。それから酷く悲しそうな顔をする。


「おまえの肩に角が根を張ってしまい取り除くことができない。そっちのほうが問題だ」

「角が、根を?」

「一角獣は癒しの力を持つ幻獣といわれている。幻ゆえに存在せず角を手に入れるのは至難の技……そして黒一角獣は存在しないはずの獣の対になるものだ。すなわち死の象徴……」


 そう、とコチョウが応え、俺とミズメに向かって微笑む。

 それはあきらかな嘲弄であった。


「その角は宿主に寄生して《無限に不運を呼び込む》呪具だ。性質は邪悪だが、膨大な力の源であることにちがいはない。クガイ君、きみは生きているかぎり、破壊と死をもたらし続ける厄災になり果ててしまうけどね」

「君たちは幼馴染だろう?」

「単なる敵同士だ。そう――翠銅乙女様のご寵愛を受けるのはひとりだけで良い。私は《彼女》との間に世継ぎを生み、星条家を繁栄させる」

「長年の友を裏切り、騎士の役目も忘れ我欲に走るとは。恥を知れ」

「恥など。友情なぞ。我が一族の栄華に比ぶるべくもない」


 ミズメはますます柳眉を吊り上げる。青い髪が怒りに浮きあがるように見える。

 この少年がこれほどまでに激情を露わにするところを、俺ははじめて見た。

 コチョウは手鏡を下げ、踵を返した。

 そちらには石扉が開いたまま存在している。

 不意に綿埃のような雪が舞い上がる。


「では、血統の誇りと共に滅ぶがいい」


 雪片が舞い上がり、空に曇天の幕を張る。

 瞬きの間も与えずに横殴りの風が吹く。

 そして息さえ凍る、前も見えぬ猛吹雪となった。

 ミズメがやっているのだ。呪文の詠唱も儀式もなし。慣れぬ異界の空の下で……。

 いや。

 風は《石扉》の向こうから吹いている。

 魔術で繋がっている《通路》を通して、女王国から吹雪を招いているのだ。

 コチョウの足元が見る間に雪に覆われ、肌が凍りついてゆく。石扉までのたった数歩が白く塗りつぶされ、果てしなく遠い。恐ろしい。本能がこの魔術に恐怖せよと囁きかける。菫青の魔術がこれほどのものだとは。

 このままでは、コチョウは死ぬだろう。


「――ミズメ、やめろ!」


 俺は叫び、自由になる左半身で杖を掲げる腕にしがみつく。

 ミズメは驚いていた。


「どうして、騙されたのは君だよ。このままあの男を生きて帰せば女王国のためにもなるまい。今なら亡骸をこちらに置いて去ることもできる」

「頼むミズメ、頼む!」


 もちろん、理性ではミズメの言う通りだとわかっている。

 あまりにも邪悪すぎる。他人をだまし、蹴落とすことを何とも思っていない。

 一市民としてならそれでも構わなかったかもしれない。だが奴は女王の傍に侍る騎士であり、夫で、生まれてくる世継ぎの父親なのだ。

 そして、それ以上に俺は愚かだった。

 まだコチョウのことを信じたいと思っているのだから。


 邪悪な人間でも、変われる。

 いつか、彼も人の心を理解する。

 優しさに目覚めるだろう。


「コチョウがお前を助けたいと思っていたのは本当なんだ。だから、これにも何か理由があるはずだ!」


 吹雪が止んだ。

 コチョウはこちらを一瞥することもなく、扉の向こうへ消えて行った。

 石扉は音もなく閉じ、消えて行った。

 残った足跡も、ふりはじめた雪に隠れていく。


「扉の気配がしない」と呟く。「魔術師がふたりもいるのに……」


 ミズメはあたりを探りながら難しい顔をした。


「何故かはまだわからないが、こちらの世界では魔術を使うのが極めて難しい。でも、君に埋め込まれた角があれば、再び扉が開き、戻れるかもしれない。力が溜まるまでには時間がかかるだろうが」


 ミズメの掌が、俺の肩にそっと置かれる。

 女王国にいた頃とは、ミズメの印象は何もかも違っていた。……いやちがう。それはただ現実を見ようとしていなかっただけだ。


 気がつかないふりをしていれば、いつかは……などと浅はかな考えだった。

 ここにいるのは消えて行く足跡をみつめ、何もできずにいる救い難く愚かな道化師なのだ。


「夜を明かす方法を考えよう」


 ミズメはひどく現実的な問題について口にしたと思う。でもそれは、打ちひしがれている自分自身にとってはまったくべつの意味に読み取れた。


 闇が近づこうとしている。


 どこからか手を伸ばして不意に肩を叩き、ここは最初から夜の世界だったのだと告げる、それは残酷な世界の呼び声だった。

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