第2話 星と月とが迷い出て
1 三人の男
やってしまった。
手首から滑り落ちた美しい銀髪――ブレスレットに編み上げて、宝石をひとつ留めたもの――を見た瞬間、こめかみの辺りからだらりと汗が零れ落ちた。
準備室を出るときに真鍮製のドアノブに引っかけ、半分落っこちそうになっていたのは知っていた。
でもどうすることもできなかった。
どうする。
ごくりと生唾を飲み込む。
このままじっとして、いたるところにゴテゴテとした装飾が施された旧校舎の、貴族風の邸の仕様を恨んでいても仕方が無い。
振り返ると、階段教室にずらりと居並んだ学院の生徒たちが目を真ん丸にしてこっちを見ている。
彼らはそれぞれ萌黄色の上着を着ているこの春からの新入生たちで、こちらが誰だか理解しているだろうが、それだけに融通がきかない。
なにしろこの両腕には、言い逃れのできない《証拠》が抱かれているのだ。
「これは、その――」
結局、言い訳をしようとした数秒が仇となった。
「泥棒だ!」と誰かが声を上げた。
次の瞬間、出口が勢いよく開き、おっかない髭面の教官が飛び込んできた。
魔術師らしからぬ小山のような体格もさることながら、硬い靴底が床を叩く音はまるで稲妻、べったりと張り付いた海藻みたいな太眉の間からこちらを睨みつける瞳は、吸血鬼より冷酷そうに見える。
魔術師の癖に似合いの言葉は頑固一徹、驍勇無双。
彼の名はマスター・ロカイ。
魔術学院が誇る鉱石魔術の権威にして、俺がこの世の何ものよりも恐れる男である。
何しろ魔術で変装して彼の教室に無断で侵入した上、教官準備室に保管されていた稀少な品を盗み出して来た直後なのであるから、それはもう無理からぬことだと言わざるを得ない。
「尖晶クガイ~~~~ッ!!」
間違いなく、「お前を絶対に殺してやるぞ」という決意に満ちた怒号だった。
思い返すと、あいつは入学直後から俺に目をつけていた。その頃からもう、とにかくひたすら目つきが怖かった。どう考えても視線だけで呪い殺そうとしているに違いないとさえ思えた。あんなに恐ろしい男なのに、病弱な奥さんがいて子供もいるなんて心の底から不思議だ。
そうこうしていると、ロカイはローブの内側から一掴みの黄玉のさざれ石を取り出した。
「やばい……!」
悪さをする度にアレをやられるので、ロカイの魔術については誰よりもよく知っている。
あれは、細かく砕いた鉱石片でも魔術の効果を発揮させるという意外とケチなロカイの得意技だった。
だが、やり口はケチでも、効果は絶大なのだ。
慌てて床に落ちた腕輪を拾い、胸ポケットに押し込む。
よし、これで、最低でもこんなところで呪具を奪われるなんて大マヌケにならずにすんだ。
そして教室の窓に向かって全力疾走。
その直後、背後で本物の雷鳴が湧き立ちはじめる。
空気がバチバチ音を立てて爆ぜ、一際大きな白い閃光が鉱石魔術教室全体を貫き、爆雷の音の雨を降らせる。
その爆発の凄まじさに押されるようにして、俺は窓ガラスをたたき割って外に転がり出た。細かなガラス片の上で三回転くらいして、午後のうららかな太陽が真上に見えた。
ああ、助かった。そう息を吐く間もなく。
「尖晶、何をしようとしとるかは知らんが、それを返せ!!」という爆音が、割れ窓から降って来た。「それが何か知っとるのか!?」
見ずともわかる。
しつこいロカイが確実に息の根を止めるために追って来ようとしているのだ。
「知ってるよ、ウィクトル商会に財産を積んで手に入れた一角獣の角だろう。こんないいものを独り占めするなんて大人はズルいよなぁ」
すぐさま起き上がり、走り出す。
どうしてもここで捕まるわけにはいかないのだ。
そのうち、行く手に翠の制服に羽飾りの帽子をつけた兵士の姿が見えた。
しめた。逃げ切れる。
ラストスパートをかけて、本部正面扉を護衛するふたりの間を駆け抜け、勢いのまま地面を転がった。
背後ではロカイが、兵士たちが掲げた長杖に行く手を阻まれている。
「尖晶! バカ野郎、戻れ!! それを女王陛下の御前に持ち込むつもりかッ!?」
そう……何を隠そう今日は翡翠女王国の主たる、翡翠女王翠銅乙女さまが魔術学院に来ているのだ。そしてこの本部棟で学園長と会合を持っている。
ロカイの行く手を阻んでいるのは翡翠宮からやってきた近衛兵だから、やすやすとは突破されないし手も出せない……はずだ、たぶん。
大音量のがなり声はしばらくの間追って来ていたが、本部棟の奥に逃げ込んでようやく人心地つくことができた。
「あの方が来てくださる日で助かった……」
ロカイといえど、女王陛下の鼻先で雷鳴を轟かせたりはするまい。
控室代わりの応接間に入ると、笑いをかみ殺す不愉快な音がした。
学長室の真ん中で、男の目からみても《美しい》男が体を二つ折にして笑っている。
華奢な体が震える度に、白銀の髪がきらきらと星の瞬きを放ちながら輝く。
血管が透けるほどに白い肌、目尻に涙が浮かぶ瞳は可憐な桃色だ。
絶世の美少年として鳴らしていた頃から少し成長し、意地の悪い本性をむき出しにしているこの悪名高き男こそ、星条コチョウ――まあ、勝手に俺が悪名を高くしているだけで、世間ではまだまだ美少年のほうが通りがいいだろう。
でも性格の悪さは生来のものだ。幼馴染である俺が保障する。
「く…………ははは!」
「コチョウ…………ほら、約束の品をとってきたぞ」
テーブルの上に、ロカイのもとから攫ってきた金色の箱を置く。
コチョウは満足そうにうなずいた。
「結構結構。貸した腕輪はどうした」
黙って、《箱》の隣に切れた髪の飾りを置いた。
「あぁ、どうしてくれるんだよ。三年もかけて魔力をこめた呪具なのに」
形のよい眉がしなをつくり、悲しみを表現する。
こちらも文句は山ほどあるのに、幼馴染のこの表情は苦手だ。
「悪かったな。どうしようもなかったんだ」
「あぁ、ロカイの準備室の扉には盗難防止用の魔術がかけられてるからな。それで千切れたんだろう」
「なんだと? ――知っててやらせたのか!?」
「だってさぁ、知っててもなんでもやらないと、結果としてコイツは盗み出せないわけだろう」
悪びれもせず、ふてぶてしい態度でのたまうコチョウには怒りを通りこして呆れてしまう。
「教官の部屋から物を盗むなんて気が狂ってる!」
もともとこの計画を立てたのはコチョウだった。
コチョウの話によると、ロカイは今日、女王のために御前講義をするはずだった。
それで、その講義の最中に身に着けた者をロカイの姿に見せる魔術をこめた腕輪を手に教室に忍び込み、準備室から例のものを持ち出そう、という計画だった。
だけど、計算違いがひとつだけあった。
「講義がはじまってから半刻もしないうちにロカイがもどってくるなんて聞いてないぞ」
「そりゃぁ、キミ、あれだよ。御前講義というのはウソで、実は挨拶だけだったんだ」
「……まさかお前、騙したのか。しかも二重に……!」
「そうでも言わなければ、キミはリスクをおかさなかっただろう? でも我々にはこれが必要だったのだし……」
桜貝のような爪が、箱の表面を引っかいた。
良心が無く、息を吐くように嘘をつく悪魔のようなコチョウの言うことにも一理ある。
我々には、どうしても盗みを働く必要性というべきものがあったのだ。
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