3
つま先を入れた瞬間、ものすごく重たい空気の層にぶつかった感触がした。
そこはただの《空間》で、何か僕の行動を妨害するものがあるわけではない。ただの廊下だ。
窓一つなく、向こう側に同じような分厚い扉があるだけの。
『気がついた?』
「なんとなく……」
『ここは古い魔術で幾重にも防御されたクウカンだ。しかもアマチュアじゃあない。気に入らないナ……。ここから先は、ボクとの楽しい楽しいコミュニケーションは難しくならざるをエないヨ』
「はなから楽しくなんかないけど、オルドルとってこと? それとも青海文書と?」
『ドッチもだ。魔法が使えなくなる』
詳細は省くが、オルドルと僕は魔術だけでなく血と眼球によって繋がってる。
だけどここはそういう強い結びつきですら掻き消すほどの魔力がこめられた空間なのだろう。
むしろこっちにとっては好都合だったが、そのことは言わないようにした。
「オガル先生がついてるし、どうってことないよ。しばらく休んでて」
『……わかった』
妙に大人しいな、今日は。
妙な違和感を感じたが、オルドルが静かなのはいいことだ。
そう判断して先に進む。
空気が妙に湿っぽくて、いきなり気温が二、三度下がるのを肌で感じた。
オガルが何度か扉を開け閉めした先に、小部屋が現れる。
部屋の中心には青い本が置かれていた。
一抱えほどの大きさ、青い表紙、描かれた蛇のような動物。
どれもこれも、記憶にあるものとそっくりだ。
そう。これは間違いなく《蛟の書》、オルドルが操る魔術の書だ。
「菫青家に伝わる《写本》のひとつです。我が家では代々、当主がこの術を習得し伝えているのです。もちろん、魔術が禁止されてからも……」
魔術禁止の翡翠女王国では、魔術書を所持することすら違法となる。
だが菫青家は、例外的に魔術の使用が認められる魔法学院の教職に就くことによって写本を守り続けてきた。
要するに菫青家は代々魔術師、そして教師の家系なのだ。
「だから、マスター・オガルも教職についたんだね」
学院の教師は天才揃いだ。それを何代にも渡って続けるなんてこと、口で言うほど簡単じゃないだろう。
しかし才能を、努力を誇ることもなく、オガルは苦い顔をしている。
「そのために、妹を犠牲にしてしまいましたがね」
「……ナツメを?」
オガルの妹、菫青ナツメとは、今となっては複雑な関係だ。
「もともと、私の上に兄がいたんだ。家督も写本も、すべてを継ぐはずだった兄が」
魔術の腕は相当よかったらしく、教職には難なく就けたが、歴史の古い家を継ぐことに不満があったのか突如として失踪してしまった。
つまり……。
「そう。本来、竜鱗騎士となるべきは次男である私だった」
だが、長男の失踪によってすべての運命が狂った。
騎士になる訓練を受けていたオガルは急遽、兄の代理として教職を目指すことになり、騎士としての責任を果たす役目はナツメに回ったということらしい。
兄妹の複雑な関係性について、僕から言えることは何もない。
僕はこの国に来て短いけれど、竜鱗騎士がどういうものかについては、よく知ってる。オガルも、ナツメも、どちらも生半可な覚悟ではなかったはずだ。
「実は、私も《蛟の書》についてはほとんど何も知らないに等しい状態なのです……」
それは僕にとっても意表を突かれるような発言だった。
「さっきも言った通り、僕はこの家の正統な継承者ではないから……。書については最低限のことしか知らされていないし、父親とも仲が悪い」
「それじゃ、お兄さんは今どこに?」
親子の確執があるのは、十分に理解してる。
でも聞かずにはいられない。
しつこいようだけど、これは僕にとっても凄く大事な問題なのだ。
僕をここの場所に来させたのは、《蛟の書》と《オルドル》のせいだ。
書の作者が誰なのかがわかれば、《オルドル》が本当は何者なのかっていう問いの答えに手がかかる。僕はどうしてもそれを知らなければいけない。
「残念ながら、兄が消えたのは三十年は前のことだ」
冷たい印象を与えるオガルの答えに手がかりが急速に遠ざかっていくのを感じる。
「それじゃ、《蛟の書》の作者についても……オガル先生は何も知らないんだね」「……その通りだよ、マスター・ヒナガ」
これで、手がかりは消えた。
落胆する僕に、オガルが提案する。
「ただ、貴方が知っている《蛟の魔術》について教えて貰えれば……。もしかしたら何か新しい発見があるかもしれない」
「でも、それは……すごく危険なんだ」
青海文書の内容を知らせることは、彼が《青海文書》のリスクを負う危険につながる。
「知っての通り、この魔術は使い手の負担が大きすぎるし、制御する方法がわからないんだ」
「危険は承知のうえで。というか、その」
オガルは何とも言えない居心地の悪そうな表情になる。
「君は、試合のときに命をかけて我々を救ってくれた。その恩返しがしたい」
それは優しい申し出で、でも僕にとっては狡い行為だった。
しばらく考えた末、腰に提げた金杖を取る。
どんなに卑怯な手でも、他に方法がない。
杖に付属してる金鎖にぶら下がった林檎を、《青海文書》の本来の形に戻した。
「どんなものを見たとしても、絶対に、物語に共感しないで。何か声とか音が聞こえても、絶対に耳を貸しちゃダメです」
でも、結論からいうとそれは叶わなかった。
オガルが手を伸ばした途端、書とオガルの間で閃光が走り、書が弾き飛ばされたのだ。
「ええっ!?」
慌てて書をキャッチする。
「何? ……いまの?」
「……こちらの守りだと思う」
オガルは驚嘆の表情でいる。
その体は星のあかりのような輝きに包まれていた。
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