第1話 箱入り猫が夜みる夢は

1 マージョリーの美しい夢


 翡翠色のタイルと滑らかな乳白色のタイルが、複雑怪奇でおそろしく精緻なモザイク画を描いている。

 そんな素晴らしい回廊の上を午後の日差しを浴びながら鼻歌まじりに少女が歩いていく。


「たらんらたらんら♪ らんらんらん♪」


 頭の上にはニャコ族の少女であることを示す三角耳があり、ワンピースから伸びる手足はまるで骸骨のようだった。

 そして、ほかの何よりも目立つ不思議な髪の色は頭頂部が銀色、肩のあたりで薄い緑がたなびき、裾のほうは夜の藍色に銀を散らした色をしていた。

 歩む姿はオーロラの浮かぶ夜の帳を布に織り、頭からかぶって翻しているかのようだった。


 彼女は周りを取り囲む警護の男たちに手を引かれて廊下を渡っていく。


 その回廊は中庭に面している。

 中庭には、老若男女さまざまな人々が詰めかけていた。

 彼らは少女の姿を見るなり立ち上がり、手にした写真を掲げる。


「マージョリー様!」と誰かが悲鳴のような声を上げる。「どうか、うちの娘を御覧になって!」


 ただ、声が上がったのはその一度だけで、他の者たちは写真を掲げ続けるのみだった。

 異様な緊張と、そして静けさが庭を支配している。

 マージョリーはしずしずと歩いて中庭を一回りしているだけだったが、突如、立ち止まり、回廊の縁から身を乗り出して差し出された小さな写真を掴んだ。

 彼女は目隠しを取り払い、写真をじっとみつめ、それを手にした女性に向かって悲し気な表情で首を横に振った。


「家出をして……悪いひとにつかまった。もう二度ともどらないわ、さいごは苦しんだみたい……」


 女は泣き崩れ、それを周りの者たちが抱き留めた。

 少女は護衛に連れられ、出て来たときとは反対側の扉に入り、消えて行く。


 その先はまったくの、静かな部屋だった。


 先程の回廊と打って変わって現代的でシンプルな、ひろい天井、ひろい空間、そして適度に調節された室温が揃っている。静謐そのもので、送風機が稼働する音すらしない。

 ステンドグラス越しに甘やかな光が差し込むそこに、ソファがひとつ、ぽつねんと置かれている。

 マージョリーはそこに腰をおろした。

 部屋の置物のように佇んでいた召使がしずしずと近寄り、心配そうに顔色をうかがった。


「マージョリー様、本日のお勤めごくろうさまでした」

「ごくろうじゃないよう」


 少女は悪戯っぽく、唇を尖らせた。


「力はほんのすこーし、ちょっぴりだけだしか使ってないもん。そうでしょ?」


 召使は困ったような笑顔を返すばかりで、返事はない。

 それからまた別の召使が次々にやってきて、テーブルを置き、昼食を並べていく。

 少女が黙っていても、前菜からデザートまでが揃う。

 肉や魚といった動物性たんぱく質の一切を取り払った特殊な食卓だった。

 皿の上にちらりと目をやり、食指がうごかないらしいマージョリーはため息をこぼして、手で払う仕種をした。

 また、ただそれだけの仕種で、食器と衣服の擦れる音だけを残し、すべては去って行った。


 召使が合図を送ると、部屋の中に護衛数名と眼科医が入って来た。


「ああ……」と医師は恍惚とした溜息をもらした。「聖マージョリー様。貴女の瞳は奇跡そのもの、こんなに間近にできて幸せです」


 マージョリーの瞳は髪とおなじく特別だ。

 エメラルド色のそれは、のぞきこむと深い闇の色へと変化する。そして小さな銀の光が散っているのが見える。

 夜空そのものが、彼女の両の眼窩におさまっているのだ。

 それは常人にとっても《美しい》と感じるものだろう。特別な、奇跡を感じるかもしれない。

 

 たしかに、彼女はここでは特別な存在だった。

 それは容姿のせいではない。彼女が《海音》を所有しており、それが万里を見定める《千里眼》だからだった。


 マージョリー・マガツには別名がある。《大魔女》、《全知の魔女》、《天地の観測者》、《オーロラの娘》……すべての二つ名がその力を賛美するものだ。

 彼女は千里眼を所有して生まれた海音保持者のなかでも、最高の使い手なのだ。

 この世の因果のすべて、過去と現在と未来の出来事すべて、そして世界の涯てを《見た》ことのあるただひとりの魔女だと言われている。


 もちろん、能力の程を疑う声も多い。

 マージョリーは現在、とある宗教団体に所属して、その能力は信者にのみ、ほんのわずかに使っているに過ぎない。


 先ほど、身内の消息を求めて中庭に押しかけて来ていた人々がそうである。

 彼らは教団に金を積み、大挙して庭先に来る。

 そして一日にたったひとりが気紛れに選ばれ、マージョリーの福音を授けられるのである。


 おずおずと持ち上げた両腕が彼女の頬を掴もうとする。

 それを遮ったのは、マージョリーの痩せた掌だった。


「し、失礼しました!」


 護衛の男たちが動き、医師は慌てて両手を引き下げる。

 しかし、彼女は男を見もせずにただ天井を見上げ、長い睫を震わせていた。


「ちがうの。…………見えるわ」


 か細い声が空気を揺らす。


「な、なにが見えるのでしょう」


 召使が訊ねる。その声には脅えが含まれていた。

 マージョーリーは二、三度瞬きを繰り返し、そして。


「うつくしい夢。そして運命……。そうなの。あなたなの? そして、今なのね。今がそうなのね……」


 彼女の周囲にはエメラルドグリーンにたなびく魔力の靄が漂っている。

 それは魔術として紡がれたものではない。

 ただ強すぎる力が現世の規律を歪めてみせていた。


「運命がみえるの。なんてうつくしいのかしら」


 美しいのは貴女様でございます、そう言って、召使たちはその場に膝を突き、祈り始めた。

 感極まって涙を流し始めるものもいた。


「聖なる御方。いつまでも、いつまでも我らが教団に福音をもたらしてくださいまし」 

「いえ、それはできない」とマージョリーは幸福そうに呟いた。「私はここで死ななければいけない」


 あまりのことに、召使も、護衛も、誰も反応ができなかった。

 ただぽかんと口を開けて、その言葉に聞き入るだけだ。


「因果がめぐっている。でもまだ足りない。まだまだ、これでは引き寄せられない。でもわたしが死ねば、呪いが完成し、運命として集約する。彼に――マスター・ヒナガに。そう、あなたのために私は死ぬの」


 マージョリーは何もない虚空に向かって手を伸ばす。


「方法は、ええと、そうね。これにしよう!」


 そんな、なんでもない独り言の呟きを残し。

 彼女は糸の切れた人形のように地に倒れた。

 頭から床に落ちて行き、打ちつけて、皮膚が裂けて血が流れ出す。

 ただし、倒れた、という現象が起きたときには既に終わっていた。

 誰も彼女を助けられはしない。

 どんな魔法でも、どんな魔術でも、海音でも、天律でも。

 命が流れだしていくことだけは、誰も繋ぎ止められはしない。

 数瞬の後、悲鳴があがった。

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