竜鱗騎士と読書する魔術師3 星の灯、君が浮かべる月よりあかるく
実里晶
プロローグ
鏡よ鏡。
今この汚れた洗面台の水垢だらけの鏡を食い入るように見つめている女はいったい誰なの?
まるで意地悪なお妃さまが鏡に向かって問いかける、あの超有名お伽噺のようだった。
いま、まさに、この私の状況が! だ。
きっとこれは現実ではないにちがいない。
夢の中だ。
きっと夢をみているに違いない。
なぜなら高校生にもなる息子がひとりいる、冴えない四十路の女が美少女なんかであっていいはずがないからだ。
「う、うそでしょ…………」
すらりと長くて、みずみずしいハリを保った手指がやわらかな頬の輪郭をなぞる。
指の下には不摂生からできた腫れものも、しみも、皺も、無い。
つんと澄ましたような鼻、生意気そうに少し吊り上がった目もと。
まっすぐに伸び、艶々している美容室いらずの黒髪……それは間違いなく十代の小娘のそれだ。
事実、その顔は自分が女子高生と呼ばれていた頃の顔貌そのものなのだ。どこかに捨て置いている卒業アルバムをひっくり返せば、うりふたつの写真が出て来るだろう。
昨日まで、わたしは男に捨てられて子どもを抱えて途方に暮れてる、未来になんの希望もないみっともない女だった。
でもいまは?
こんなことが現実に起こっただなんて誰にも信じられないだろうし、誰も信じてくれないに違いない。
「アンタさァ、ほんとに誰?」
茫洋とした声が、急速に現実へと意識を引き戻していく。
声は玄関ではなく、リビングから聞こえた。
驚いて洗面台を離れた。
すると学生がリビングに立ち、床に散らばった私物から財布を抜いて免許証を眺めているところへ出くわした。
しかも、靴を履いたままだ。
学生は目を見開いて、驚いたときのわざとらしい演技をしてみせる。
「あっ、すみません、勝手に入っちゃって……。返事がなかったものですから……」
「気の弱い演技はもう必要ないわよ。何なの? 椿の同級生とか言ってたけど」
「っていうか、今の状況ならそっちが不審者ですよね?」
その瞬間、わたしのなかで弾けるような怒りが湧いた。
白くて熱のない光のようなもの。思えば十代のころからそうだった。父親もわけのわからないことで母親に怒鳴り散らしていたから、遺伝だろう。
息子にだけは遺伝しなければいいと思っていた唯一のものだ。
でも、いまのこれはコントロールがきいている。わたしの手は学生服の襟を掴み上げ、うざったい髪の毛を払い除けた。
「あたしは日長楓。椿の母親、楓よ。ついでに言うと、息子のお友達に不良はいないの」
黒髪のウィッグが取れて、下から鮮やかなオレンジの髪色が現れる。長い髪で隠してたつもりになってたらしいピアス穴は三つずつ。
おうおう随分、気合い入ってるじゃないか。
ひとり息子の椿は、こういう輩に近づかない。
嫌いだとか合わないとかではなくて、厄介事の種になりそうだからだ。臆病で慎重な羊みたいなところは父親似だ。
「何が目的?」
「それもこっちの台詞なんだけどな……。ま、教えてあげてもいいですよ」
フジワラとやらは突然、テレビのスイッチを点けてニュースに合わせた。
どこからかの中継映像が流れている。
リポーターの背後には警察官やパトカーが並び、事件というより場に溢れかえる報道陣に対処しているかのようだ。
《緑都館高校で発生した事件についての続報です。特別進学クラスに通う29名が死亡したこの事件ですが、当初、死亡したとされていた生徒が一名、行方不明という扱いになり、死者は28名に訂正されました。警察は行方不明の少年の情報提供を求めています。続報が待たれています……!》
リポーターの混乱まじりの声が聞こえてくる。
映像がスタジオへと切り替わり、行方不明者の少年とやら思われる写真が映し出される。
学生証の写真をそのまま使っているらしい。制服を着たごくふつうの……いや、なんとなくだけど、気持ちの悪い視線をしてる。
光のない瞳だ。冷たいとも、虚ろ、というのとも違う。
みつめているとぞっとして背筋が寒くなるような――なんというか古井戸の底をのぞいているような、どこか陰鬱な目つきをした若者だった。
名前が表示される。――古銅イオリ、と。
事件の内容は知らなかった。
ここ最近は仕事に忙殺されていて、テレビなんかつけたこともない。
「なにこれ……ホラー映画の話?」
「白昼堂々、自習時間中、教師が目を離した隙に全員死亡。凄い事件でしょう、犯罪史に残りますよ」
「こんなことをして、犯人は捕まったの?」
これだけ大勢の人間を殺して、まだ捕まらないとはとても考えられない。
だがフジワラは首を横にふった。
「まだです。目撃者すらいない。現場は血の海で、古銅イオリだけが突然、消えたんです。跡形もなく……そして、今も見つかってない」
フジワラはこっちを見もせずに呟いた。
「俺はこの事件の犯人を捜しています。その名は古銅イオリ……」
「いやいや、下品な週刊誌やワイドショーじゃあるまいし。結論がはやくない?」
「それでも、必ず彼を見つけ出して殺す」
そう言ったときのフジワラの目つきは、古銅と負けず劣らず暗い。
けれどどこか寂しそうでもある。
「なんでその古銅なんとかを探してるあんたが、うちに来るのよ」
「椿くんが知ってるはずなんだ。こいつの居場所を」
「…………は?」
なんで椿が。
緑都館高校という名前は知っている。有名な私立進学校だ。
だけどそれは遠い離れた土地の話で、事件には何一つ接点などない。
それに……。
「椿はまだ小さいのよ」
そう言ってから、自分で自分の言葉に違和感を持つ。
なに?
原因不明だけど、それはおかしい。
フジワラの目つきが鋭くなった。
「……やっぱり、あんた、誰?」
「誰って……わたしは日長楓よ……」
理由もわからないまま語尾が震える。
「椿くんとは同級生です。彼は高校生だよ」
フジワラがそう言うが、うまくその事実を思い出せない。
そう、わたしが四十路のつまんない女だとしたら、椿は高校生。
それは正しい。数字上の動かせない正しさだ。
でも、思い出せない。
寝起きのぼんやりとした記憶にあるのは……ほんの五つか六つの、小さな子どもだけなのだ。
そこからどんなふうに成長したのか、いま、どんな姿で、何をしているのか。
何一つ思い出せない自分がこの汚い部屋に立ち尽くしている。
「貴方、もしかして自分が楓だと思ってる狂人? それとも……忘れてるだけ?」
フジワラがいよいよ不審そうにこちらを見つめて来る。
その答えは、自分でもわからない。
わたしは誰?
そして、さっきから椿のことを思い出そうとするたびに湧き上がる、どす黒い感情がある。
重たくて暗くて、冷たくて、絶望に近いところにある感情だ。
椿、どこにいるの?
いったい何が起きたの?
あなたのことを考えるときの、この憎しみの正体はなに?
どうしようもない焦燥感に背を押されて、止まっていた時間の針がまわりはじめる。
たぶん、よくない方向に。
この先には望まない結末しか待っていない。
そんな気がする。
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