第30話 漫画家とマネージャー

「綺羅、もう見たか?」

「はい?」


 七月に入った最初の日の朝、いきなり寝起きのボケた脳みそに、カオルさんから主語の欠落した質問を浴びせられた。


「何がですか?」

「今日は七月一日だぞ」

「はい、そうですね。早いもんですね、このおうちにお世話になって、はや半年。月日は百代の過客にして、螢の多く飛び違ひたる、亦楽しからずやですね」

「綺羅ちゃん、『源氏物語』と『伊勢物語』混ぜてる……」

「『奥の細道』と『枕草子』と『論語』だ。二人とももう一度中学からやり直せ」


 ううう~、朝から手厳しい。でもお味噌汁の香りがあたしの幸せな朝を約束している。


「今日は玉ねぎのお味噌汁ですね~」

「そんな事より綺羅、今日、新人賞の発表じゃないのか?」


 へ? シンジンショウ?


「ぎゃああああああ! そうでしたあっ!」

「もう発表になってたぞ。俺のパソコンに出てる、自分で確認して来い」

「はいっ!」


 あたしの眠気はいっぺんに吹っ飛んだ。

 あああ、そうだ、漫画家デビューの登竜門じゃないか、カオルさんの指導貰ったんだ、せめて一次選考だけでも通過して!

 あたしはカオルさんのパソコンに出ている画面を、目を皿のようにして見た。小鳥遊キラ……小鳥遊キラ……小鳥遊キ……あああああっ! あったー!


「カオルさああああああああああん!」


 こっちに覗きに来たカオルさんに、あたしはもう無意識に抱きついてしまった。あたしは抱きついたつもりなんだけど、絵的には多分あたしがカオルさんに頭突きしているような感じになっているだろう。


「ありがとうございます! カオルさんのお陰です! やだもーどうしよう! うあーん! 嬉しいよー、カオルさぁん!」

「良かったな」


 あたしの目の前からカオルさんの低音が響いてくる。凄い幸せ。カオルさんの声をこんな至近距離で……え? 目の前? 何故目の前?

 ハッと気づいた。カオルさんとあたしの身長差は二十七センチ。目の前にあるのは顔じゃなくて……胸。の辺り。

 カオルさんが片手で頭をポンポンしてくれる。まるで子供にそうするように。


「頑張った成果が出たな」


 ぎゃー! 恥ずかしい。あたしはなんという事を!

 あたしは大慌てでカオルさんから離れて、そりゃもう漫画のように体を腰から直角に曲げて謝った。


「す、すいません! ごめんなさい、あたし、すいません、嬉しくて抱きついちゃいました。あの、これからもご指導よろしくお願いします」

「綺羅」

「はいっ!」


 ピコーンって効果音が付くくらい思い切り顔を上げると、カオルさんが柔らかく微笑みながら「今日はお祝いだな」って言ってくれた。どうしよう。あたし、萌え死ぬ。朝っぱらから幸せで倒れそうだ。


「じゃあ、今日は僕が特製パエリア作ってあげるよ。あとでケーキも買って来なきゃね」


 うぎゃー、メグル君がいたんだった。メグル君の前でカオルさんに抱きつくなんて、なんちゅーことをしてしまったんだ、あたし。


「あ、ありがとう。パエリア楽しみにしてるね」


 と顔を引きつらせて言ったところに、ちょうど電話がかかってきた。このビミョーな危機を脱出できるかとスマホを見ると、そこには『G-TV上杉謙信』の文字が光っていた。




 お昼過ぎ、あたしとメグル君は、多摩川沿いにあるグローバル・アース社の一階ロビーにある商談スペースのようなところにいた。目の前には上杉さんが相変わらずオシャレなスーツに身を包み、スマートな動きでいくつかの資料を出してきた。


「先日頂戴しました風間さんの日程に合わせて、こちらで出演予定を組ませていただきました。七月四日は朝から一度に十二回分収録します。こちらをご覧ください。この欄が集合時刻と集合場所です」


 上杉さんが一つずつ丁寧に蛍光ペンで印をつけながら説明してくれる。


「例えばこの日ですと世田谷線の松陰神社前に十時集合。衣装は自前、今日のような感じで結構です。この欄が収録する番組と放送日、これは『鉄子の部屋』八月二十日放送分です」

「じゃあ、次は同じ日の十二時からスタジオで撮るという事ですか?」

「そうですね、松陰神社前の収録が終わったら、すぐに車で移動します。こちらでご用意する昼食をとっていただきまして、スタジオで十二時から八月九日放送分の『フレンチクルーラー殺人事件』、免許書き換えに来ている若者という設定のエキストラで登場していただきます。この衣装のところにアリと書かれているのは、衣装に着替える、若しくは自前の服の上にコートを羽織るなどという意味で、こちらで衣装の準備がある事を指します」

「はあ……」


 あたしたちがぽかんとしていると、上杉さんは体を起こしてニコッと微笑んだ。


「難しく考えなくても大丈夫です。その都度こちらで指示を出しますので、今はサクッと聞いていただけば結構ですから。ぬるくならないうちにコーヒーどうぞ」

「ありがとうございます」


 あたしとメグル君はハモった上に、シンクロしながらコーヒーを啜った。まるで漫画だ。

 ふと、メグル君が予定表を見ながら「あっ」と呟く。


「これ、一日に十二本分も撮る日もあれば、三本しか撮らない日もあるんですね。なんでこうなるんですか?」


 上杉さんは「ああ」と頷くとテーブルの上で手を組んだ。


「この十二本の日は、殆どが自前の衣装での収録なんですよ。上にちょっと羽織るだけとか、帽子をかぶるとか、眼鏡をかけるとか、リュックを背負うとか、その程度です。着替えもメイクもないと五分で終わってしまうので、すぐ次に行けるんです。スタジオで撮って後でCG合成するので、どんどん撮れちゃうんですよ」

「へー」

「この日は、午前中に『鉄子の部屋』だけ、あとは午後から全部スタジオです。『フレンチクルーラー殺人事件』は冬の設定なので、ここにコートと帽子ですね。その次が『ノーズキッス』、これは学園ものなので高校生の制服を着ていただきます。廊下ですれ違う生徒の役です。次は……ああ『茜』か、これも高校の図書室のシーンですね。主人公の後ろの方でカウンターの中にいる図書委員の男子生徒、これも『ノーズキッス』と同じ制服なので着替えがありません、こちらは眼鏡着用ですね。こんな感じで衣装替えが殆ど無い日はそのままガンガン撮れます」

「じゃあ逆にこの三本しか撮らない日は着替えがたくさんあるってことですか? それって、結構疲れます?」

「さすが優秀なマネージャーさんは話が早い。そうです、時間もかかりますし結構疲れるんです、それで三本のみです。『コーラと魔王』では特殊メイクでコカトリスになっていただきます。魔王の後ろでケルベロスと立ち話をするモブですね」

「おおお~、コカトリスデビュー!」

「すごーい!」

「それと『科学部!』ではレピドデンドロンになっていただこうかと思っております」

「何ですかそれ?」

「植物です。シダ類の一種で、三十メートル級だそうです。直径が約二メートルという事なので、ここに顔を出していただいて……まあ、巨大な被り物ですね」

「メグル君、ついに被り物?」

「やった! 被り物デビュー!」


 あたしたちが手を取り合って喜んでいると、上杉さんが穏やかに割り込んでくる。


「如何です? 大体把握していただけましたでしょうか」

「はい、あたしは大丈夫」

「僕もほぼほぼオッケーです!」

「では、こちらの日程表を読んでいただいて、また疑問が出ましたらいつでも私の方にご連絡をいただくという事でよろしいですか?」


 もちろん、あたしたちに異存はなかった。

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