第9話 寝坊

 翌朝、早起きする気満々だったあたしは、不覚にも昨夜の疲れから泥のように眠っていて、全く起きることができなかった。その上、せっかくアラームをセットしたスマホが電池切れになっているという失態。起きられるわけがない。

 仕方なくパジャマのままで、急いでリビングに顔を出した。


「おはようございます~。ごめんなさい、目が覚めませんでした~」

「あ、綺羅ちゃんおはよう! 僕はこれから学校行くから、カオルと引っ越し頑張ってね。ご飯は作っておいたから食べてね。じゃ、行ってきまーす」

「へ、あ、行ってらっしゃい」


 慌ただしくメグル君が出て行って、あたしは死ぬほど気まずくなった。何しろ家の中はカオルさんとあたしだけ。しかも雇い主が起きているのに、自分はいつまでものんびり寝ていて、ご飯まで準備されているなんて、どんな顔をしたらいいのかわからない。


「あ、あの、カオルさん、おはようございます。すいません、寝坊しちゃって」

「仕事は明日からと言った筈だ。寝坊しても問題ない」


 カオルさんは新聞を読みながらコーヒーを啜っている。が、何か昨日と様子が違う。何が違うのか。何だ? と考えてはたと気づく。

 カオルさんが眼鏡をかけている!


「カオルさん、眼鏡男子ですか!」

「ん? ああ、出かけるときはコンタクトだけど、家の中ではこれ」


 細いメタルフレームの眼鏡の奥から、あたしの方をチラリと見上げる。その視線に触れただけであたしは舞い上がってしまう。こんな美形にレンズの奥から覗かれるなんて、萌え死にそう!


「顔洗って来い。今日は引っ越しやらその他の手続きやら、いろいろやることがある」

「はいっ」


 怖いけど、緊張するけど、でも、あの美しい顔が眺めていられるならいいか、などと馬鹿なことを考えながら顔を洗い、服も着替えてくる。

 戻ってくると、テーブルの上には淹れたてのコーヒーとスープから湯気が立ち昇り、温め直したらしいオムレツと温野菜サラダがプレートに乗っていた。


「今、トースト焼いてるから。バターとレモンマーマレードがある」


 と言った先からトースターがチーンと鳴って、焼き上がりを知らせる。


「ありがとうございます。温め直してくれたんですか?」

「作ったのはメグだけどな」

「メグル君、お料理上手ですねー」


 話しながらプレートにトーストを乗せて戻ってくると、カオルさんが新聞を片付けてバターとジャムを並べる。


「いただきます」

「食べながら今日の予定を確認しようか」

「はい」


 カオルさんは眼鏡のフレームを押し上げると、束ねてあった髪を一旦解いて、もう一度ゴムで括り直した。その仕草が妙に色気があって、カオルさんの一挙一動にいちいち心臓がバクバク言っているのがわかる。こんなことで一緒に住めるんだろうか。


 それにしても、何故かこのカオルさんどこかで見たことがあるような気がする。この既視感が無ければただの怖いお兄さんだったかもしれない。でも、確かにどこかで、それも何度も会っているような気がするのだ。しかし、こんな美形が知り合いにいて忘れるわけがない。じゃあどこで会ったんだろう。


「先ずは綺羅のアパートに行って荷物を積む。次に八王子市役所で転出届を出す。こっちに戻って多摩市役所に転入届を出す。あとはお前の自由時間だ、部屋を住みやすく改造しろ。あと共用スペースも必要に応じて好きなように変えていい。ここは綺羅の家でもあるから遠慮するな」

「はい、ありがとうございます。……あの、カオルさん、つかぬことを聞きますけど、どこかで会いました?」

「ん? 俺が?」

「何度も会っている気がするんですけど」

「気のせいだな。俺は綺羅を知らない」


 即答で返されてしまったら「そうですよね」と曖昧に笑うしかない。だけどカオルさんの方が覚えていなくても、あたしは覚えているんだこればっかりは仕方ない。


「印鑑、忘れるなよ。役所は印鑑が必需品だからな」

「はい」

「じゃ、俺は仕事してるから、出かける準備ができたら声かけろ」


 それだけ言って、カオルさんは部屋に入って行ってしまった。




 朝ごはんの後片付けをして出かける準備をしたあたしは、常に開けっ放しのカオルさんの部屋を覗き込むようにして、静かに声をかけた。


「カオルさーん、あの、準備できましたー」

「ああ、今行く」


 カオルさんはもう眼鏡をかけてなかった。コンタクト入れたんだ。眼鏡かけてなくてもやっぱり美形だ。でもなんだか眼鏡のカオルさんが好み……って、あたしはいつから眼鏡フェチになったんだ?


 部屋を出るときに表札を確認してみる。やっぱり710号室の風間さんだった。なんで昨日気付かなかったかなぁ。ありえないよね、あの風間薫先生と同姓同名で気付かないなんてさ。っていうか本人だし。


 カオルさんと二人っきりでエレベーターに乗ると、なんか凄く照れる。こういう密室でこんな美形のお兄さんに壁ドンとかされたら萌えるよな~。絶対エレベーターの壁ドンシチュエーションは描かなきゃ。

 あはっ! あたし、もう作品のこと考えてる。一昨日なんて「あたしにはもう明日は来ない」って思ってたのに。カオルさんとメグル君のお陰で、こうしてまた作品のことが考えられる。地獄に仏ってこの事かも。


「どうした、ニヤついて」

「え、あたしニヤついてました?」

「自覚なしか。それも面白いな」


 む~。面白がられた。


「こんなの想像してたか」


 えっ!

 いきなり顔のすぐ横に手をついたカオルさんは、艶然と微笑みながらあたしの目を真っ直ぐ見つめて囁いた。


「こういうシチュエーションな。女の子向けの漫画には必須アイテム」


 やっ、ちょっ、近すぎるでしょ、これ! 待っ……心臓口から出る!


「は……はい、そういうシチュエーション、です」


 あたしがやっとこさっとこ答えると、カオルさんは知らん顔でふっと離れた。

 うがあああああ、死ぬかと思った。アシスタントを殺す気か! この人、もうちょっと自分の顔の破壊力を自覚した方がいい!


「偉いぞ、ちゃんと気持ちが漫画家に戻ってる。神代エミリーよりいいものを描け。それが神代先生への復讐でもあり、恩返しでもある」


 えっ、恩返し?

 ……そうか、カオルさんはあたしが神代先生を恨む気持ちと、今でも漫画家として尊敬する気持ちを持っていることをちゃんとわかってくれてるんだ。言葉にはしないけど、しっかりあたしを見てくれてる。

 こんな素晴らしい先生と出会うために神代先生にプロットパクられたと思えば、安いものだったのかもしれない。そう思うことにしよう!


「はいっ、頑張ります!」


 あたしはたった今萌え死にそうになってたことなんか忘れて、元気よく返事をした。

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