第5話 最強の兄

 昨夜一晩空けただけの部屋は、もう何か月も帰っていないような気がして、玄関のドアを開けた途端どうしようもない懐かしさがこみ上げてきた。

 あたしの部屋は八王子駅から五百メートルほど離れた、川の近くの小さな二階建てアパート。帰る途中に近くのお店で段ボールを十枚貰ってきたけど、こんなに必要なかったかもしれない。

 メグル君は到着するなりガムテープやカッターなどを準備しながら、テキパキと指示を出した。この辺りはさすがにあのカオルさんの弟だと感心する。


「僕が段ボール作っとくから、綺羅ちゃんはそこの紙にこのアパートの名前と部屋番号、あとは大家さんか不動産屋さんの連絡先書いて」

「はいっ」

「もう十時回ってる。不動産屋さんは開いてるはずだな」


 メグル君は独り言を言いながらもサッサと段ボールを組み立てて、家電製品に赤いテープを貼っていく。


「はい、これです。書きました」

「じゃ、これカオルに連絡してくるから、綺羅ちゃんは僕に弄られたくないところをどんどん箱詰めしちゃってね」

「はい、ありがとう」


 メグル君が玄関に出てカオルさんに電話をかけてる。その声がここにも少し聞こえてくる。


「うん、そう、端から二番目の部屋。不動産屋はね……」


 衣装ケースに紐をかけたり下着を箱に詰めたりしながら、メグル君の声に耳を傾ける。

 カオルさんは喋り方がぶっきらぼうで冷たい感じがするけど、凄く頭の回転が速い。メグル君はとにかく優しい、凄く安心できる。あたしはこの人たちと一緒に居た方が、多分一人で居るよりずっといい。きっとこの人たちがあたしを癒してくれるはずだ。そう思いたい。

 そんな風に自分に言い聞かせていると、メグル君がふらっと戻ってきた。


「綺羅ちゃん、連絡着いたから、カオルがこれからこの部屋解約しとくって。僕はこの辺の本を詰めても大丈夫かな? 違うところにする?」

「本、お願いします」


 箱詰めの手を休めることなく答えると、メグル君は「了解」と言いながら本棚の前に陣取る。


「洗濯物は今からじゃ乾かないから、僕んちでまとめて洗うことにして、今は箱の中に詰めちゃってね。あと、赤いテープを貼った家電、うちに持ち込めないからリサイクル屋さんに売ってもいいかな? ダメなヤツがあったら言って。冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、掃除機、炊飯器、ベッド」

「ベッド?」


 思わず顔を上げる。


「うん。ベッドはあの家には持ち込めないから布団だけにして貰うってさっきカオルが」


 そうか、引っ越し屋さんに頼むわけじゃないんだ、メグル君とカオルさんに頼むんだからこんな重そうなベッドじゃ無理だよね。


「わかりました。メグル君に任せます」

「ねえ、綺羅ちゃん」


 メグル君が赤いテープを手にしたまま、あたしの方を覗き込む。


「はい」

「大丈夫? 急にいろいろ決まっちゃったから、混乱してるんじゃない? ゆっくり考える暇もなくカオルがどんどん決めちゃったでしょ? カオルはさ、悪気は無いんだけどさ、やたら頭が回るんだ。それでいつも即断即決。僕がゆっくり考える間もなく、次の次の次くらいの話をしてるんだよね。これはさ、綺羅ちゃんのことなんだから、綺羅ちゃん主体でいいんだからね。僕たちに気を遣わないで」


 下から顔を覗き込むように話すメグル君に、あたしは頑張って笑顔を作った。


「大丈夫。あたし一人で考えていたら、きっと明後日になってもグズグズしてたと思う。昨日メグル君に声かけて貰わなかったら、あたしどうなってたかわからないよ。カオルさんも優しいし、ほんと会えて良かった。ありがとう」

「ああ、うん、まぁ、綺羅ちゃんがそれでいいならいいんだけど、本当に嫌な時はちゃんと言ってね。僕もカオルもそういうの気づかないことあるから」

「ううん、メグル君は凄くいろんなことに気づいてくれるよ。あたし、頑張るよ」


 あたしの笑顔を見て安心したらしいメグル君は「うん」と頷き、箱詰めを再開した。

 それから二時間、あたしたちは夢中で片づけをし、大方片付いてしまったところでカオルさんから連絡がきた。これから向かってくるという。書類の準備があるから印鑑の準備をしておけとだけ言って電話を切ったらしいカオルさんは、それから三十分もしないうちにワゴン車でやって来た。


「まずは昼食だ。印鑑を持って来い」

「流石カオル、仕事が早えー! 我が兄貴ながら尊敬するわー」

「いいからさっさと乗れ」


 あたしたちは要領を得ないままカオルさんの運転するワゴン車に乗り、近くのファミリーレストランに連れて行かれた。


「なんでこんなとこ知ってんだよ?」


 というメグル君の質問には答えず、カオルさんはさっさと店に入っていく。

 席についてランチをオーダーすると、早速カオルさんが報告を始める。


「先ずさっき乗ってきたあの車だが、今日明日だけの契約で友人から借りた。それと綺羅の部屋は日割り交渉して、明日までの計算で退去という形にして貰った。話はついてるから、あとでうちに書類が郵送されてくる。そこに印鑑を押して返送すれば終わりだ。郵便局の方も転送手続きはしておいたから、あとは住民票だけだな。それから俺と綺羅の間の雇用契約書も作っておいた。あとで確認してサインしろ。物置部屋にしていた六畳間はもう空いてる、いつでも搬入可能。こっちは以上だ、そっちの報告を聞こうか」


 マシンガンである。この僅か三時間でこれだけのことをやっつけたのだから、カオルさんという男が如何に仕事ができるかがわかるというものだ。

 目をまん丸くしているであろうあたしの横で、いつもの事とばかりに慣れた様子のメグル君がのんびり報告を始める。


「こっちはほぼ片付いた。殆ど荷物ないよ。家電とベッドは赤いテープを貼っておいた。今すぐにでも持ち出せる」

「午後から家電運び出すか? 今のうちに引き取りに来て貰えば、明日は綺羅の荷物だけだから動きやすくなるぞ」

「どうする、綺羅ちゃん?」


 カオルさんが淡々と事務的にこなすのに対し、メグル君はちゃんとあたしの意向を確認してくれる。カオルさんは頭はいいけど、女の子の扱いはメグル君の方が慣れている感じだ。


「がらんとした部屋で寝るの、なんか寂しい」

「うちで寝ろ」

「え、今夜からですか?」

「昨夜だってうちで寝ただろ」

「あ、そうでした」

「他のものの搬入は明日でもいいから、今日は布団と着替えだけ持ってうちに来ればいい。昼食が終わったらリサイクル屋に見積もりに来て貰おう。俺が話を付けるから、メグは布団を車に積め。綺羅は今夜の着替えを準備しておけ。仕事はわかったか?」


 あたしとメグル君は了解の返事をする他なかった。

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