27, 崩壊
「兄様」
彼は弟のほうを見なかった。ただ遠くを見るような目で状況を見定めていた。伯爵邸の一室、金の椅子がある赤い絨毯の敷かれた広間。そこに兄弟は肩を抱き合うようにして立っていた。
もはや邸宅もイルルの兵たちの手に落ちた。悲鳴や叫びが此処でも響く。幾人かの近衛兵が彼らを囲んで守っているが、ここも時間の問題だった。
「……クシス」
小さな声で弟を呼んだその時。
「フェレス!」
扉が開く音と声が部屋に響いた。フェレスが顔を上げたのが見えた。
部屋の扉を押し開けて入ってきたのがイルルの兵ではなく、私だったことに目を丸くしていた。
「……スザンナっ!」
クシスも驚いて振り向いた。
「フェレス! よかった!」
涙が出そうになった。無事だったことに心底安心したから。
フェレスに思いっきり抱きついた。フェレスはしっかり受け止めてくれた。この血まみれの体を。
「スザンナ……、どうして」
「よかった……っ間に合った……!」
「怪我してるじゃないか」
身体を離して顔を上げる。
「平気だこんなもん。急いで、逃げるぞ!クシスも!」
その瞬間に屋敷のどこかで何かが崩れた音が鳴り響いた。
「……っ! 時間がない。はやく!」
血まみれの手でフェレスの手を掴んだ。だけどそれはするりと掌から抜け落ちてしまった。血のせいじゃなく。
「フェレス……?」
フェレスは無表情でこっちを見てた。何も言わない。
「……なに……――」
「スザンナ」
「何してるんだ、急げ!」
叫んだ。だけれどフェレスは一切表情を変えずにこう言った。
「俺は行けない」
脳がこの言葉を理解しなかった。
「……は?」
「父上が死んだ。母上も」
それは、悲しい告白だった。
「今は俺が、この家の主でこの町の主だ」
「……フェレス、お前……」
「彼らをおいていけない」
フェレスの後ろにいる30名ほどの兵達に目を向ける。彼らの目には覚悟めいたものが見えた。
「じゃあ皆で逃げればいいだろ!」
フェレスは首を振る。
「戦う」
「何言ってるんだよ!」
声がかすれそうになる。
「町がこれだけやられた。ここはアルブだぞ。誇りをかけて戦う。最後まで。……スザンナ」
私の頬に手を添えてフェレスは言った。
「笑って」
「……わら……えるわけないだろ! こんな……こんな冗談!」
涙が出そうになって顔をゆがめたら、フェレスが私を抱きしめた。
「クシスを連れて、逃げてくれ」
耳元で、フェレスの声がする。
「無理だ……っ」
フェレスの身体を引きはがし、無理やりにでも連れて行こうとした。だけれど、それは敵わなかった。
「スザンナ」
強く抱きしめられる。窒息しそうだった。
「初めて会った時の、あの時のお礼。やっと完成したんだ。貰ってくれ」
「……え?」
フェレスは私を放した。彼の言っていることが分からず、ただただ呆然とした。
「ラピス・ラズリの道から逃げて。クシスが知ってる。大事な弟なんだ。頼むぞ」
「……私だっ……て! フェレスが大事なんだよ!」
祈るように叫んだ。
「俺もスザンナが大事だよ」
もう一度、何かが崩れる音がして、この部屋もグラグラ揺れた。
「行って」
彼の手が私の頬にもう一度触れる。
――ああ。そうか。
そのフェレスの顔を見て、身体の奥に何かがコロリと落ちて行った。
束の間、手がするりと離れてしまう。
「…………行くぞクシス」
私はぽつりとそう言った。
「え? スザン……――」
そしてくるりとフェレスに背を向け、クシスの手を引いて私は来た道を足早に戻りだした。
「スザンナ!? ……兄様! ……兄様! 兄様はっ……!」
もうフェレスの方は見ない。
クシスのフェレスを呼ぶ声だけを耳に。心音も、破壊の音も、私の耳にはもう届かなかった。最後にうっすらと微笑んだフェレスの顔だけを目の奥に焼き付け、私はもう何も見なかった。
崩壊は、すぐ起こった。
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