それでも恋をする愚かな君たちへ。

浅野新

プロローグ

「十子(とおこ)ちゃん」

 そろそろかな、と思った。


僕の右斜め前に十子ちゃんが座っていた。

制服のブレザーがしわになるのも構わずに、大きなクッションをきつく抱きしめながら、じっと空を見つめている。

薄く茶色がかったセミロングの髪から覗く、綺麗な横顔が殺気立っていた。


十子ちゃんはしょっちゅう何かに怒っている。

確か前はパラリンピックがTVでほとんど放映されない事で、その前は以前見た映画がどれほど原作を無視しているか、という事だったと思う。

十子ちゃんは、今日は朝からずっと怒っていて、学校でさんざん怒りの原因を僕や彼女の友人達に話したにも関わらず、それでは収まらなかったようで、僕の家に寄ってからもまだ怒っている。

僕は彼女のまっすぐな怒りにいつもほれぼれする。他人の為にこんなに怒れる人はそういない。いつも華奢な彼女の体もこんな時は大きく見える。


じっと窓の辺りを睨んでいた十子ちゃんは、僕の呼びかけに顔だけこちらに向けて、言った。顔が怒りで赤くなっている。

「信じられないでしょ!? 生身の人間は駄目なのにネットの人間は信じられるのよ!?」

 僕はうん、そうだね、と頷きながら立ち上がった。

「十子ちゃん、お茶飲む? 」

 クッションにうずめた顔から、目だけが僕を見上げた。猫の瞳にそっくりだ。いつもそう思う。

彼女は再び何か言おうとして口を開け、一旦閉じ、やがてばつが悪そうにぼそっと言った。

「・・・ミルクいっぱい入れてね」


 しばらく、二人でミルクティーをすすった。部屋が急に静かになった気がする。

 彼女は紅茶を半分程飲んで、ふう、と息をついた。

今初めて気がついたように、きょろきょろと僕の部屋を見回す。

「・・・育ちゃんの部屋っていつもすっきりしてるのね」

「物があまりないだけだよ。十子ちゃんのとこはどうなの」

 そう言えば、十子ちゃんの部屋にはあまり行った事がない。小さな頃から彼女が僕の部屋に来る事はあっても、彼女の部屋にははあまり入れさせてもらえなかった。

「きれいな時はものすごくきれい。汚い時はその逆」

「・・・ものすごく十子ちゃんらしいね」

「何、そのらしいって」

 僕は慌てて話の矛先を変えた。

「で、今日は何だったっけ」

「だから有香がネットで、じゃなくて・・・、数学!そうそう、数学の宿題教えて欲しいの! 」

「はいはい」

 十子ちゃんは勢いよくクッションを後ろに置くと、足元にあった自分の鞄を引き寄せた。中から数学の教科書とノートと筆記用具を出し、立ち上がって僕の机へ行き、当たり前のように座る。僕も自分のザックから数学の教科書をとり出して、当たり前のように机の脇にあるベッドに腰を下ろした。

 十子ちゃんが真剣な顔で教科書を調べ始める。

「ええとね、どこか分からない所があったのよ。こういう事はね、すぐやらないと」

 僕は思わずくすくす笑った。

「何よ」

「何でもないよ」


 僕達はずっと昔からこうしている。これからも、ずっと変わらないだろう、と思っている。

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