$ パコン\ブボン\ダママ
@mifudon
プロローグ
カシャ、カシャ、カタ、カタと忙しない音が部屋中に響き渡っていた。モニターの光が辺りを青白く照らしリビングの壁に朧気な影を映し出していた。明かりの消えた暗いリビングの片隅に置かれたテーブルで羽間は一心不乱にキーボードを叩いていた。
File No.18 採取日: 20XX/11/3 採取地:不明 採取形態: web投稿
姉の友人に聞いた話です。
彼女の同級生にAさんと言う子がいるの。Aさんが幼稚園の年長さん位の頃からよく居なくなる子だったの。園庭でみんなと遊んでいるといつの間にか居なくなり、保母さんとか大騒ぎで探すのだけど見つからず、気がつくといつの間にか教室に居たりするんだって。
Aちゃん何処に行っていたのと聞くと決まってダママちゃんと遊んでいたと答えるんだけど、ダママちゃんなんて変な名前の子はその幼稚園にも近所にも居なかった。そんなことが数回あったのかな。それから居なくなっている時間が段々長くなっていったんだって。
そのうちそんな事も無くなり、Aさんは社会人なったの。その日は残業で帰り時間は真夜中近くになったそうです。通勤に使う道は真夜中でもかなりの交通量なんだけど、その日はとても静かで不思議と他の車と全然すれ違わなかったそうです。いつも通る橋を越えた途端に潮の香りがしたかと思ったら目の前に海の風景が広がり、いつの間にか見たこともない海沿いの道路を走っていたそうです。
Aさんの住んでいる所は海がない県の街で、会社から自宅まで車で二十分位の距離。それなのに突然現れた海に驚き近くにあったコンビニかけ込み場所を確認したところ、そこはAさんの住んでいる町から百五十キロほど離れた海沿いの町だったそうです。しばらくはあまりの出来事に呆然としていたそうです。それからしばらくしてAさんは行方不明になったそうです。仕事で荷物を会社の倉庫へ取りに行って、そのままいなくなったそうです。会社は事件に巻き込まれた可能性もあると警察にも届けました。Aさんが失踪して一ヶ月位ほど過ぎて、Aさんの実家に電話があったそうです。Aさんからでした。お姉さんが電話をとったそうです。電話が遠く、聞こえにくかったそうですが今どこにいるのかわからない
と言うようなことがノイズ混じりで、なんとか聞き取れたそうです。それと最後にダママ・・・と言う言葉を残して電話はとぎれたそうです。Aさんにはまだ見つかっていないそうです。もちろん捜索願も出たままです。私はその話を聞いてダママちゃんがAさんを連れて行ったような気がしてなりません。
File No.24 採取日: 200X/8/18
採取地: N県N市 採取形態:視聴者による投稿
あれは、夏の終わり頃でした。私たち家族(私とパパと小学一年の息子の三人)は隣の県にいる親戚を訪ねた帰り道の事です。いつもならよく使う国道で帰るのですが天気もいいし、時間もたっぷりあるので脇道へ逸れてみようということになりました。親戚の家を出たのは午後の二時位でした。脇道といっても山中を抜ける旧道で峠越えするルートです。今では地元の人もでさえ滅多に使わない寂れた道です。結婚前にデートで時々、走っていた事のある道で帰宅時間も二、三時間位遅くなる程度。ちょっとした道草です。それにうちのパパ、昔は走り屋でよくこの峠を攻めていたのです。「久しぶりに峠を攻めるか」「子供がいるん
だから乱暴な運転しないでよ」と冗談交じりで峠越えのルートを辿りました。山の中を抜けるルートは道の両脇から大きな木々がアスファルトの上に大きな影を作り、辺りは薄暗くジャングルのように思えちょっとした冒険気分でした。森を抜ける風がヒンヤリと心地良かった事を妙に覚えています。一時間ほど走り、二本目のトンネルを抜けると霧雨が降っていました。雨空にしては灰色の空が不自然に明るく感じました。それに矛盾した言い方になるかもしれませんが、違和感とでも言うのでしょうか見覚えがある道筋なのに何処か違う道を走っているみたいな奇妙な感覚でした。
しばらく走っているといきなり両脇の木々がなくなり開けた場所に出まし
た。周囲はソバ畑のようでした。さらに走ると住宅地が見えてきました。そこには信号機もあり、こんな辺鄙な山奥の道路沿いにしては、今風の家が十五、六軒位でしょうか霧雨に霞んで建ち並んでいるのが見えてきました。真新しい分譲住宅地のようでした。
「こんな所に住宅地なんかあったかな」
「最近、造成したんじゃないのかしら?」とパパと顔を見合わせました。私はそう深くも考えず「ちょうどいいじゃない。この辺で休憩
にしましょうよ」と言いました。
パパも「そうだな。自販機とかあるかな?」と辺りを見回しながら車を進めました。住宅地に入った途端、ずっと感じていた違和感がどんどん強くなるのを感じました。トンネルを過ぎてから感じている奇妙な感覚です。それになんて言うのか、景色がのっぺりして見えるんです。遠近感が感じられないのです。遠くに見える山や森が絵に描いてあるみたいに見えるのです。住宅地の風景も妙に色褪せて見えます。空気が動いていないと言ったらいいのか、風や空気の匂いとかと
いったものが感じられないのです。住宅地の家々は窓もカーテンが閉め切ってあり人気がありません。人の気配や生き物の気配がまったく感じられませんでした。庭先の花壇の花でさえ作り物めいた感じがしていました。
息子も「何となく気持ち悪い所だね」と怯えの混じった声でした。私も言いしれぬ不安がわき上がってきます。パパは何も感じないのか鼻歌交じりに車を走らせていました。山奥のせいか時折カーステレオのラジオに妙なノイズがカリカリ、ブツッ、ブツッと入るのが更に不安をかき立てました。自販を探しながら走っていると大きな建物が見えてきました。よく道の駅とかにある不思議な形をした物産館とか資料館を思わせる建物でした。
その建物は円柱型で高さは三階建くらいだったと思います。「あれ、道の駅かな?自販機もありそうだ」とパパは駐車場に車を乗り入れました。
「こんな建物、何時出来たのかしら。しばらく来ないうちにこの辺も変わったわね」私はその建物を見上げました。息子も興味津々で車の窓から身を乗り出しています。
広い駐車場には他の車が一台も無く私たちの車だけでした。看板には「昔語り歴史の家」とありました。中に入るとロビーや受付には人っ子一人いません。物音ひとつしません。怖いくらいに静かでした。実際怖かったのですが。私たちの足音だけが広いロビーに響いていました。受付の上にはリーフレットが数枚、乱雑に置いてありました。
自販を探して来るとパパと息子はロビーの中を歩き回っていました。
息子の呼び声が聞こえてきました。私は自販が見つかったんだと思い声の方へ向かいました。息子は書き殴ったような書体で展示部屋とプレートが掛かったドアの前で手を振っていました。「おかぁ~さん、変な物がいっぱいあるよ」と叫んでいました。
表記は展示部屋より展示室がいいのではと思いながら息子の後に続き部屋に入りました。部屋に入った瞬間、強烈なお香の香りとそれに混じってカビ臭い湿気た異臭が鼻につきます。東南アジア系の雑貨店でよく炊かれるお香にも似た匂いでした。その香りは甘く濃密で胸焼けをもよおし、生理的な嫌悪感を伴うものでした。
展示部屋の中は天井まで吹き抜けの大きな円形のホールで壁に沿って緩やかな螺旋のスロープが作ってあり古い写真や古文書、真っ黒になった菅笠や昔の見たこともない農機具(多分)なんかが壁沿いに展示してありました。螺旋のスロープは吹き抜けの天井まで続いています。ホールの中はモヤッとした光を放つ小さな電灯が幾つも点灯していますが、とても薄暗く感じました。ホールの中央には古い民家を再現したものでしょうか。小さな藁葺きの小屋が建てられていました。息子はそれを見つけると小屋に向かって走っていきました。
「走らないの!待ちなさいよ」と私は息子の後を追いました。小屋をのぞくと私は瞬間、ドキリとしました。人がいたのです。小屋の囲炉裏端には背を丸めたおばあちゃんが座っていました。囲炉裏でお餅を焼いているようです。しかし、よく見るとそれは、おばあちゃんの姿をしたロボットでした。側にあるパネルには書き殴ったような例の変な書体でスイッチを押すと何種類かの昔話を話すと読めました。かなり古いロボットらしく顔は煤けて汚らしく、着ている衣装も煤けボロボロになっていました。焦点の合わない眼差しに不気味な笑顔を浮かべ遠くを見つめているようでした。
突然、ガリガリと大きな音が鳴り響き、おばあちゃんのロボットの首が動き出しました。首がゴリゴリと嫌な音たてながらこちらの方を向き始めました。突然の出来事に私は悲鳴をあげました。息子がクスクス笑っていました。パネルのスイッチを押したのです。
「もう、やめてよ。心臓が止まるかと思った」と叱りました。ロボットは焦点の合わない目を細めニコニコと不気味な笑顔をこっちに向け首を振っています。私はロボットの笑い顔を見ていると妙に生々しく、生きているような気がして背筋が寒くなりました。ガツンとまた大きな音がして止まってしまいました。
「壊れているよ。もう動かないね」息子は出鱈目に何回もパネルのスイッチを押しています。
「だめだ!自販機が一台もない」と言いながらパパもやって来ました。その時いきなり声がしたのです。
「むが~じ、ぬが~じ、あるどごにぃ~・・・」と急にロボットが話し始めました。ホールいっぱいに音声が響き渡りました。私もパパも息子も驚きのあまり飛び上がりました。ロボットから出る音声は歪み、ブツブツ、ガリガリと雑音交じりで良く聞き取れません。私たちはおばちゃんロボットの耳障りな話声に我慢できずにホールを飛び出しました。
「あのロボット故障していた。酷い音を出している」とロビーに戻ったパパは言いました。息子はかなり驚いたのか押し黙り口を結び、心なしか青ざめているように見えました。
「行こう。ここは、薄気味悪い」と言うとパパは足早に出口へ向かいました。私と息子も慌ててパパを追いかけました。閉め忘れたドアからおばあちゃんロボットの雑音混じりの音声で訳のわからない言葉が聞こえ、それがロビー中に響き渡り、更に耳障りな音になっています。私達は耳障りな声から逃げるように駐車場から車を急発進させました。駐車場から道路に出る時に何となく見られているような気がしてチラリと玄関の方を見ました。多分気のせいだと思うんですが玄関
で人影を見かけたのです。あのロボットのおばあちゃんがこちらを見ているのを。あり得ないですよね。そう、気のせいだと思います。「昔語り歴史の家」の出来事が私的にとても怖く感じ、何かを見間違えたのだと思います。
不思議な事なのですが「昔語り歴史の家」から出発して家へ帰るまでの記憶が曖昧なのです。気が付くといつの間にか自宅へ着いていました。霧雨で煙った景色の中を車で走っていたのは何となく覚えていました。まだ不思議なことが幾つかありました。帰宅時間が合わないのです。親戚を出たのが午後二時くらい。山越えのルートは遠回りになるので寄り道しないで帰ってもたっぷり三時間位かかります。あの「昔語り歴史の家」では三十分程居たので家に帰るまでには約三時間三十分位の時間が掛かります。家に到着するのは五時三十分位になるはずで
す。でも家に着いたのは午後四時二十分位でした。車もそんなにスピードを出していたわけでもありません。どう考えても五時前に家に着くなどありっこ無いんです。パパは「思ったより早く着いたな」と言っていましたが、「冷静に考てよ。遠回りして一時間も早く着くわけないじゃん」と言ったのに「そうか」でその話は終わってしまいました。何故、不思議だと思わないんだろう。パパも息子も記憶が曖昧らしいのです。息子なんかあんなに泣きそうな顔をして怯えていたくせに。「昔語り歴史の家」に立ち寄った事もそんなことあったような気がする。としか言いません。パパと息子の記憶は私より曖昧になっているようです。
あの日、体験したことは怖いとか不思議とかじゃなく、異常なほどに感じられた違和感が生み出した気持ちの悪さを忘れることができません。それに私はあのまるで生きているようなロボットのおばあちゃんの事が頭から離れません。近所の人や友人に話したところ「昔語り歴史の家」の事など知っている人はいないし、ネットで調べても、市の観光課に問い合わせてもそのような施設や街は存在しない事がわかりました。でも確かに私達家族はそこへ行ったのです。今、この体験を文章にしていて気づいたのですが、蝉の鳴き声です。蝉の鳴き声がしていなかった。蝉の鳴き声どころか他の音もしていなかった。今は結婚して蝉など僅かしかいない都市部に住んでいますが、もともと私は田舎育ちです。都市部に何年も住むようになって蝉の鳴き声を忘れていたのでしょうか。たとえ夏の終わり近くでも普段ならあの山の中はまだ五月蝿いほど蝉が鳴いています。私達、いや今は私だけかな(パパも息子もほとんど覚えていない)が体験した不思議な夏のドライブでした。
追記:投稿者行方不明のため連絡不可
記事補足 地方紙記事より
N市の主婦行方不明。N市N町の主婦田名部小百合さん(35)が九日F県の親戚の家へ行くと言い残したまま戻らず家族から九日未明、N中央署に捜索願が出された。田名部さんは親戚の家へは行っておらず同署は事故や事件に巻き込まれた可能性もあるとみて旧県道付近の山林などを捜索しているが、十二日午前零時現在、見つかっていない。同署の調べでは小百合さんは九日午前七時ごろ、約八十六キロ離れたF県F市の親戚へ向かうため車で自宅を出た。同九時ごろ、自宅から約四十二キロ離れた旧県道を走っている田名部さんらしい車が近くの住民に目撃されているが、親戚には姿をみせず、夜になっても帰宅しなかった事から、家族が同日午後十一時四十分ごろ、同署に捜索願を出した。また旧県道は滅多に車の往来がなく山中を県に向かって縦断している。同署はパトカーなどで旧県道を中心に十一日午前一時まで捜索。同八時から所轄署員や地元消防団員ら約六十人が捜索を再開したが見つからず、同日午後十時三十分にいったん打ち切った。十二日午前七時から再開する。小百合さんは夫と長男の三人暮らし。身長約百五十四センチのやせ形で、頭髪はショートカット。水色のトレーナと黒っぽいズボン、白の運動靴を着用している。
File No.33 採取日: 200X/6/20 採取地:不明 採取形態:視聴者による投稿
僕は週に二回程、営業廻りで隣の市まで行っています。距離にすると片道八十キロ程です。隣の市へ行くときは高速道路を使って行くのですが、その高速道路で不可解な事を体験したので投稿します。
隣の市へ行く途中に排気ガスで真っ黒になった古いコンクリート製の防音壁が二キロ程続いている区間があります。この防音壁と防音壁の間に五十センチ位の隙間が出来ている場所があります。この隙間がいつも気になってついつい脇見運手をしてしまうのです。
走行中にその隙間から一瞬、覗く風景に小高い丘に沿って家々が建ち並ぶ様子が見えるのです。私は何時とも無しにそこの区間を通る度に隙間からの景色を見るようになっていました。隙間から見える景色は何となくヨーロッパの風景を思わせるものでした。その家並みの中に妙に目立つ黄色い壁の家が見えます。高速道路走行中で何時も一瞬しか隙間の街並みを見られないのですが、鮮やかな黄色の壁の家は何時も目に飛び込んできます。ただその景色は妙に実在感が無いのです。まるで写真のような感じなのです。この辺りは僕の実家から十キロと離れて無い所にあり、田圃しか無かったこの辺にも宅地が出来て洒落た住宅地が出来たものだなと、その時は思っていました。
あの出来事に遭遇したのは、僕の住んでいる地域一帯を集中豪雨が襲った日の事なので良く憶えています。いつものようにお得意さんに納品を済ませ会社へ向かいました。大雨のせいか高速道路には車が少なく、僕の営業車の前後には一台の車も見あたりません。それに横殴りの雨と薄暗く視界の悪い道路で随分不安になっていました。あの隙間のある区間に差し掛かりました。空には消炭色の雲が立ち込め、どんよりとした暗く重い雲がのしかかってくるような錯覚を感じます。防音壁には蔦みたいな植物が絡まり、辺りの暗さもあり真っ黒に見えています。路肩では紫陽花が雨に打たれながらも咲き乱れていました。僕にはその紫陽花がとても不気味に思え、大雨にも関わらずアクセルを踏み込みました。
何故か分からないのですが、その区間を通る事がとても怖かったのです。あの隙間のある地点が見え始めた時です。防音壁の隙間から漏れる金色の線が目に入りました。思わず口から「ええっ!」と自分でも驚くほどの声で叫んでいました。
大雨とはいえ百キロ近くの速度を出していたのであっと言う間に金色の線の前を通りすぎてしました。でもはっきりと見えたのです。あの隙間から。あの街並みが。夕日を浴びて金色に輝いている町の景色を。僕はバックミラーであの隙間を目で追いました。煙る雨の中、金色の線は暫く見えていました。僕は路肩に車を止め、振り返えるとあの隙間からはもう金色の光は見えていませんでした。大雨の中、あの隙間迄車を降り、戻ってまで確かめる気も起きず車を発進させました。僕は頭の中を整理しようと必死でした。あり得ないことでした。一瞬見ただけなので見間違いだと思いたいです。しかし、あの町の夕焼け空の禍々しいまで
の美しさはいまでも憶えています。その後、何も起きず無事に帰社できましたが、あの納得の行かない不可思議な出来事はずっと胸に杭を刺されたみたいに残ってしまいました。帰社後もあの光景が頭から離れず仕事に集中出来ない有様でした。僕はマップサイトであの隙間のある区間を検索してみました。ありませんでした。何も無かったのです。そこに示される物は田圃だけでした。思った通りでした。何となくそんな気がしていたのです。
僕は急用で残業出来ないと上司に伝えると一目散に実家へ向かいました。僕の実家はあの高速道路の近くにあり、例の防音壁ある区間の近くです。父親もあの辺の土地には詳しいはずです。突然の帰宅に親は驚いていましたが、僕はそんな事はお構いなしに、あの隙間ある土地のこと聞き始めました。ここ一年位の間にあの辺に洋風の家が建ち並ぶ住宅地が出来たのか尋ねました。父親は、あそこの土地は田圃ばかりだ、第一あんなの所に家を造っても不便でしょうがない。と言っていました。僕は食ってかかる様にそんな事は無いだろう、小高い丘の・・・言いかけた時、何をむきになっているのだろうと思いながらあることに気づきました。あの黄色い家や他の家は丘の斜面に沿って建ち並んでいました。
あそこの土地は平野のど真ん中、丘など無い。その事はこの辺に住む人間なら誰でも知っている事です。じゃあ僕が見ていたあの隙間から見えたあの風景は何処の景色だったのだろうか。それも一年近くも見続けていた風景は僕の幻覚だったのだろうか。あの隙間は道路の補修工事のついでに直されて塞がっています。今もあの丘に斜面に夕日を浴び、建ち並ぶ街並みは鮮明に細部まで思い浮かべることが出来ます。以上が僕の体験した奇妙な、と言うか不可解な出来事です。
あの隙間の町の黄色の家が気になってしょうがないとか、どうしても、もう一度見てみたと言うわけでもありません。この話にはオチもありません。僕はいつもと同じ毎日を過ごしています。ただ、一年近くも其処には無い幻の景色を見続けられるものでしょうかね?
羽間は読みやすく少々の手を加え、まとめ上げた投稿原稿をメールに添付し送信ボタンをクリックする。
小さく一息つくとモニターだけが明かりを放つ薄暗い部屋の中を見回した。棚からは灰色に変色した白いクマのぬいぐるみが真っ黒な目で羽間を見つめている。それは娘がとても大切にしていたぬいぐるみだったらしい。クマのぬいぐるみの隣には黄色の幼稚園バックと帽子が並んでいる。
キッチンからはポタリ、ポタリと水の滴る音が静まりかえった部屋に響いていた。とても静かな夜だ。羽間は窓の外に目を向けた。西側の窓からは街並みが一望できた。僅かに開いたカーテンの隙間から覗く空には赤みがかった妙に細い下弦の月が浮かび、その下には街の灯の橙色や赤や白が夜空をバックに光点を穿っている。
モニター脇の写真を見る。硬い表情の父親と小さな女の子に微笑みかける母親の家族写真だ。入院中に仲村が届けてくれた写真。退院後も幾度となく眺めてきた写真だ。これが俺の妻と娘。・・・何度見ても何も思い出せない。何も感じられない。幸せそうに微笑んでいる女性と女の子が自分と一緒に写真に写っている。ただそれだけのスナップ写真にしか感じられない。そこにはこの家族の思い出も、その写真に関する記憶も何もない。何も思い出せない事が苦痛だと思った事はない。苦痛だと思う事すらできないのだ。喪失感もない。寂寥の思いも喜びも悲し
みも何も感じなかった。写真に写る女の子の顔を指でなぞってみる。ただただ空白のイメージだけが頭の中にあった。自分の胸の中には何もない。空っぽだ。
ダイニングテーブルの上には新聞の切り抜きや分譲地のチラシが数枚クリップに止めて置いていてある。この部屋の家族は戸建ての家を探していたのだろう。黄色く変色した新聞の日付は三年前の年号が印刷されている。多分・・・三年前からこのままなのだ。
一つだけ新しい物がある。壁に貼ってあるカレンダー程の大きさの時間表だ。起床から就寝するまでの間に食事やら就寝時間など事細かに書いてある。子供が夏休みになると作る時間表と同じだ。今の自分に必要な物だ。自分はこの時間通り行動しなくてはいけない。
仲村はこの部屋に何時でも戻れるようにあの日のままの状態で維持、管理をしていてくれた。あの日のままに、置いてある物もそのままに、丁寧に掃除し、手入れをしていてくれた。しかし、今は独りで居るには広すぎる家だ。
入院中に肉親以上に尽くしてくれた仲村の事もまるで覚えていなかった。もっとも肉親と呼べる人間は自分にはいない。病院のベッドで目覚めた時、自分が誰だか解らなかった。駆けつけた仲村に「俺はおまえの友達だ」と告げられ、事故前の自分の事を一つ一つ教えてくれた。その時、自分の名前が羽間浩一だと言う事を知り、妻と娘が行方不明になっている事も教えられた。
「事故の状況から奥さんと娘さんの安否については、希望を持つな」と辛そうに話しをした。仲村は何も隠さず、すべてありのままに伝えてくれた。今に至っても妻と娘の遺体は疎か、手がかり一つ見つかっていない。その後、しばらくして分かったのだが自分は記憶と家族ばかりか感情も失っていた。喜怒哀楽、人間的感情が事故の後遺症で根こそぎ無くなっていたのだ。
静かだ。蛇口から漏れる水の音、冷蔵庫の作動音、パソコンのハードディスクの唸り。音の輪郭がはっきりとわかり、殊更この部屋の静けさを引き立たせていた。
携帯電話の着信音で静寂の底から引き戻される。
仲村からの電話だった。「今、メールに目を通した。今回のテーマは異世界?異次元?・・・地味だよ。もっと派手なネタは無かったのか?」
「ああ・・・」
「まぁ異世界も、いいんだが何か新しい化け物とか無いかな。もっとインパクトのあるやつがいい」
「・・・ああ、何か探してみる」
「File No.18にダママがどうとかとあったな。これ、使えないかな。もう少し調べてくれ」
「・・・・・」
「おい聞いているのか・・・お前の携帯、雑音が酷い。えらく聞き取りづらい。新しいのに変えろ。スマホがいい。便利だぞ」仲村は一方的に話すだけ話して電話を切った。
モニターに目を戻すとデスクトップに表示されている時計が午前一時五十八分を表示していた。モニターにノイズが走る。突然、ブラウザーが起動を始めた。パソコンからジリジリ、ブツッ、ブツッと耳障りなノイズが聞こえてきた。モニターには何の表示も無く明るい灰色だけが映しだされていた。
突然404: File Not Foundの文字と黄色の学童帽を被った女の子のイラストがモニターに一瞬表示され消滅した。モニターには再び何もない灰色一色が映し出される。モニター画面からもフワリとした圧力を感じ、画面全体からざらざらとした感触のモノが吹き出し顔を嬲った。
「来る・・・」と、ぼそりと呟く。
モニターは輝きを増していき、灰色から鈍い銀色に変わりモニターの外へと溢れ出し周
辺の色と温度を奪いはじめる。部屋中の色が消え、部屋は鈍い銀色とざらざらとした闇で出来た冷たいモノクロ世界へと変化した。羽間は表情一つ変えずに鈍く銀色に染まったモニターを見つめていた。ブラウザーの起動ともに流れて始めた
ノイズに似た音が低い低周波のような音に変わり始めている。その音に混じり、ぼそぼそと何か呟く様な音声が混じっている。その音声が頭の中で破裂し、激しい頭痛が襲う。こめかみに青筋が浮かび上がる。頭の中で音が暴れている。やがてその音声が悲鳴のような音に変わり、頭中に響いていた。
「うっあああああああああああああああああああひぃいいいいいいいいいおぉおおおおお・・・・・・」
ハーピーが実在していればこんな悲鳴をあげるにちがいない。言葉では形容出来ない刺すような鋭い悲鳴だ。更に頭の中で音が膨れあがる。
ブツッ。大きな音と共にモニター画面が正常に表示され羽間の作っていたレポートが表れる。部屋の中に再び静寂が戻ってきた。先程まで気にならなかったパソコンの作動音が大音響に聞こえる。耳を澄ますとパソコンの作動音に交じり、ヒソヒソ、ボソボソと人の話し声と思しき音が聞こえている。声は部屋全体から羽間を包み込むように聞こえてきた。吐く息が白く見えている。
ドスン!背中に鈍い衝撃を感じた。左の肩口から長い髪がバサリと垂れ下がる。ぬめぬめとした冷たい髪から生臭い腐敗臭が鼻をつく。肩から垂れ下がった髪の中から黒い血管の浮き出た青白い手がもぞもぞとはい降りてくる。耳元で何かぼそぼぞと囁く声がする。羽間は煩わしそうに手ではらいのける。背中に広がる闇へぬめぬめした髪と共に手がするりと隠れていった。
バタン!パタパタパタ。ドアが乱暴に開かれ廊下を走り回る音がしてくる。台所から聞こえていた水の滴る音のテンポが早くなる。パソコンのモニターに再びノイズが入り始めた。羽間は急いでパソコン上に展開しているテキストデータをセーブしようとキーボードに手を伸ばした。テーブルの下から膝小僧に幾つも傷のある子供の足が三本のぞいていた。部屋の温度が急激に下がっている。吐く息は白くなり、腐った肉みたいな異臭が漂い始めた。部屋の片隅では闇が蠢いている。よく見ると粒子の粗い煙のようだ。モニターが不規則に明滅を繰り返し、それに伴いこめかみがズキズキと脈打ち心拍数も上がってきた。虫が這い回るよう
な悪寒が全身に走り、背筋の体毛が逆立つような感覚を覚える。羽間は苦笑いを浮かべた。今の羽間には恐怖心は無い。恐怖を感じられないのだ。ただ、今、起こっている現象が煩わしいだけだった。だが、本能は生命の危機を訴えている。
手の甲に生暖かいモノを感じる。目をやると血が垂れていた。白いキーボードにも赤い
水玉模様がポタポタと増えていった。羽間は鼻血を流していた。目尻から頬へと生暖かい
モノがしたたり落ち、頬に触れると指先が赤く染まっている。鼻血だけではない。眼も赤く充血し血が流れていた。
この部屋の異変と凄まじいプレッシャーにこれが正常な人間なら間違いなく精神に異常
をきたしているだろう。だが感情を喪失している羽間には他人事に感じられていた。感情移入の出来ない映画を観ているようなものだ。何が何でも生きたいとも思わないが、決して死にたい訳ではない。しげしげと血まみれの指先を眺めると羽間は本能に従うことにした。
小物入れ代わりに使っているアルミ製のアッシュトレーに手を伸ばしクリップや小銭をかきわけ金属片を取りだした。モニターの光を浴び、冷たく青白く光る手の中の金属片はとても美しかった。記憶や感情を無くしても綺麗とか美しいとか感じられる事が羽間には不思議だった。感情も全て失っている訳では無いのかもしれないと思いながらそれを静かに握りしめた。途端に部屋中に満ちあふれていた禍々しい気配が一瞬にして消え去り体が軽くなる。部屋の温度も元に戻りはじめていた。
握りしめていた手を開く。そこには切っ先から十五センチ程で折れた日本刀の欠片が光っていた。刃文が美しい。刀身には見たこともない文字とも装飾とも知れない紋様が刻まれている。刃に親指を添わせてみる。親指に赤い線が刻まれ、ポツリと小さな血の球が浮かぶ。はっと我に返る。今まで肩にのしかかっていた重圧のせいか体がとてもだるかった。シャツの脇下には嫌な汗染みが広がり肩で息をしていた。体力の消耗が激しい。モニターに目をやった。何事もなかったか
のように先程のテキストデータが表示されている。データは大丈夫のようだ。体が休息を求めていた。壁に貼ってある時間表を見ると就寝時間はとうに過ぎていた。体の疲労感が人ごとのようにしか感じられない。しかし休ませてやらなければ動かなくなる事を羽間は経験していた。時間表はその為の物だった。
羽間は自分の髪を掴むと思いっきりむしり取った。ごっそりと頭髪がはがれ、傷だらけの禿頭が現れた。禿頭に疎らに生えた髪を縫うように醜い手術の後が残っている。羽間は人工骨プレートが入っている右側頭を掻きむしった。痒みなどは感じないはずなのだが。むしり取った頭髪を投げ捨てるとソファーに倒れ込み、数秒たたずに眠りへ落ちていった。時を置かず机の上のパソコンもスリープモードに移行した。
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