或る感覚

海野藻屑太郎

或る感覚

 年齢とともに、感覚は鋭くなっていく。寒さに身の危険を感じるようになった。暑さに不快感を覚えるようになった。ものの微妙な味の違いがわかるようになった。体調をくずす兆候に自覚的になった。

 だから、今朝目が覚めたときに思ったのは、「ああ、来たな」という、ただそれだけだった。

 やわらかな電子音が鳴り、ぼくは腋から体温計を抜きとった。表示を見ると、熱は三七・五度。微熱ではあるものの、確実に体調不良を表わす数値だった。

 風邪薬が効きやすいたちなので、飲んでしまえば――と思ったのは一瞬で、ベッドから下りて立ち上がったときにすぐ諦めた。思った以上に頭がふらふらして、しんどかったのだ。

 とはいえ、一日の食事だけは買いだしにいかねばならない。自炊なんてしないぼくの冷蔵庫には「ごはんですよ」くらいしか食べられるものがないのだ。部屋着にしている綿の入った半纏を羽織ってサンダルをつっかけながら、ぼくは里伽子に電話をかけた。アパートのボロっちい階段を下りている途中で、里伽子は電話に出た。

「もしもしっ」

 いかにも慌てて出たといった声だった。化粧のことはよくわからないけれど、もしかしたらもう準備を始めてて、手が離せなかったのかもしれない。急がせてしまったのならすまないな、とぼんやり思う。

「ああごめん、ぼく、紀夫」

「あ、ノリくん? どうしたの?」

 そんなこと言われなくても画面を見りゃわかるだろうに、律儀に「名乗られて初めてわかった」みたいな返事をするところが、ぼくは少し嫌いだった。階段の最後の一段を下りて、硬いコンクリートを踏みしめる。

「ごめん、今日、いけなくなった」

「えっ」

「風邪ひいちゃったみたいで、ごめん」

 一瞬の間があって、里伽子は「……そう」とだけ言った。ぼくはまた「ごめん」と言い、里伽子はやっぱり「ううん」と言った。今日はひさしぶりのデートだった。

「しかたないよ。ノリくん、今日はゆっくり休んで?」

「うん、ごめん」

 本当に、ぼくは謝ってばかりだ。

 ――謝ればなんでも許してもらえると思ってるわけ?

 そう言っていたのは、誰だったっけ。

 そのとき、コンビニの入店音が鳴りひびいて電話のむこうで里伽子がハッと息をすうのがわかった。

「ノリくん、いま外にいるの?」

「うん、ごはん買いに」

「家に何もないの?」

「そうなんだ。いつも弁当だから」

 ぼくはだんだん鬱陶しくなってきた電話を、どうやって穏便に切ろうかとそればかり考えていた。けれど、どうやら里伽子の方はそうではないらしい。ぼくがカゴを持って弁当を物色しはじめてからも電話を切ろうとはせず、それどころか熱心に話しはじめた。

「大丈夫? 食欲はあるの?」

「うん、たぶん」

「そっか。ならよかったけど、薬はある?」

「うん、ある」

「そう。でも、無理はしないでね」

 意外とおいしいコンビニのかつ丼は、それでもさすがに今食べるには重すぎる。さっと撫でるように弁当コーナーを見ていると、黄色いシールが目に入った。赤い字で、「三〇円引き」と書いてある。貼ってあるのは、親子丼だった。

「よかったら、わたしノリくんち行こうか?」

 それを手に取ろうとしたとき、里伽子のそう言うのが聞こえてぼくは動きを止めた。電話のむこうで、里伽子が緊張しているのが手にとるようにわかった。

「いや……いいよ、大丈夫」

「……そう?」

「うん、ありがとう」

「……そう」

 結局ぼくは首を縦には振らず、親子丼の代わりにすだちおろしうどんを手にとった。

「じゃあ、もう、レジだから」

「うん、わかった。また連絡するね」

「うん」

 電話を耳から離すと、画面に笑顔の里伽子の写真が映った。付き合いはじめたばかりのころに設定して、そのままになっている写真だった。思わず急いで電話を切った。空調から吐き出される風が不快で、首筋のあたりがぞわぞわとした。

 袋を片手にコンビニを出ると、さっきよりも暗く感じた。空を見上げると、どんより厚い雲が流れてきているようだった。雨が降るかもしれない。そう思うといっそう寒く感じられ、ぼくは半纏の前を両手で引っぱってきつく閉じた。けれど、額には汗がにじんでいる。

 熱が、上がってきたのだろうか。

 心なしか、さっきより足どりも覚束ない気がして、ぼくは急いでアパートの階段を駆け上がった。

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或る感覚 海野藻屑太郎 @suzukirin_taro

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