誰がための翼③


「カシュヴァーン様っ、あっ」


 やっと声を出せたアリシアだったが、一歩前に出ようとしたその鼻先に銀色の光がぎった。気づけば彼女のすぐ横に移動していたルアークが、以前もそうしたように手にした得物を少女ののどもとに突きつけていた。


「ごめんねえアリシア。言っとくけど俺、本気であんたとカシュヴァーンおにいちゃんに従おうと思ってたんだよ。でもティルぼっちゃんとの契約は切っていいけど、元の雇い主様との契約を切ると俺死んだ後までえらいことになるらしいから」


 悪びれず笑う表情に罪悪感の陰りはあまりない。ユーランもそんな暗殺者の顔を見てにっこりした。


「ああ、とてもいい心がけですねルアーク。あなたといいトレイスさんといい、一時はどうなることかと思いましたが、私との約束を忘れていなかったようで嬉しいですよ」


 またも顔を強張らせているティルナードに気づき、ルアークは親切に解説をしてやった。


「ごめんねぼっちゃん。俺さ、元々司教様に頼まれてたんだよ。あんたの言うこと聞いてやってくれって言われててさ」

「つまりは最初から、お前をおもてに立たせて俺を消すつもりだったという訳さ……」


 低い声で吐いたカシュヴァーンは、今やティルナードを杖代わりにして何とか立っているような状態だった。しかしその眼からはいまだ鋭い光は消えていない。


「ふん、しかし大した調教手腕じゃないか……首輪を意識させずにこうまで飼い慣らすとはな……右に行けと言えば左に行く、よく仕込んだもんだ……」

「お褒めにあずかり光栄ですよ。首輪をつけて引きずり回すのがあなたの得意技だそうですが、首輪の存在に気づかせないのが真の支配というものです」


 微笑み返すユーランの表情は、一見それまでと何ら変わりはない。それだけにその口から出る言葉が信じがたいらしく、ティルナードはあ然とするばかりだ。


「おかしいとは、思っていたんだ……そもそもレイデン家の没落自体な……」


 なに、と眼をくティルナードの手をつかみ、カシュヴァーンは脇腹に刺さったままの彼の剣を抜く。同時に背中側にいたトレイスを振り払い、ユーランに向かってよろよろと数歩歩んだ。

 けれど剣という栓を失った肉体から流れ出る血の量は、それ以上進むことを許さない。

 ユーランは血と暴力が苦手なのは本当らしく、ぼたぼたと地面に落ちる赤いものを見てひいと情けない声を出した。


「あああ、もう、見ていられませんよ。ぼっちゃん、お早く」

「……う、う、う、うるさい、出来るかっ……! それよりライセン、今のはどういうことだ!」


 今度は自分の剣を杖代わりにしたカシュヴァーンは、ティルナードの声に応じて再び話し始めた。


「農民の反乱にしては、やけに手回しが良過ぎた……おまけにこんな世間知らずのおぼっちゃんを、お前のような位の高い聖職者がわざわざ後見してやるとはな……何か裏があると、そう見てはいたが……」

「はは、私の位を知ると皆さん、なぜか不思議そうな顔をなさるんですよねえ」


 首から下げた翼の紋章と、聖女アーシェルの横顔とを指先で大切そうに撫でてユーランはのんきに笑う。


「さすがのけいがんですよ。ですけど私がトレイスさんを屋敷に戻るよう説得したことによって、あなたの慧眼も曇ったようですね。アズベルグの暴君にも、案外わいいところがある……あわわわ」


 今となってはわざとらしい失言に慌てた声を聞いたあたりで、カシュヴァーンはいよいよ限界になったようだ。大柄な体ががくりと崩れ、彼は自分の血で出来たまりの中にひざを突いた。


「ライセン! ……くそっ!」


 カシュヴァーンに駆け寄ろうとしたティルナードの腕を、彼を警備していたはずの〈翼の祈り〉の兵士がすかさず摑む。


「離せ! 離せ、僕はレイデン伯爵だぞ! お前たちの雇い主だっ、離せ!」


 叫んでも、兵士は露ほども表情を変えない。苦もなくティルナードの抵抗を封じたまま、彼は無感情な瞳をユーランに向けた。


「司教げい、いかが致しましょうか」

「仕方のない方ですね。よろしいでしょう、今後のためにも何発か教育して差し上げなさい」


 そう言ってユーランはぱっと眼を背ける。途端、別の兵士がつとティルナードに近づいた。

 硬い音が静まり返った場に響き渡る。拳でこそなかったが、手の平で思いきりほおを張られたティルナードは眼を見開いて動きを止めた。

 だが彼は、すぐにまた叫び始めた。


「……ユーラン! くそっ、離せ!」


 赤くれた頰をゆがめ、ティルナードはやみくもに暴れ続ける。彼を押さえていた兵士は一瞬驚いた顔をしたが、彼を張り飛ばした兵士は黙って反対の腕を振り上げた。

 途端に青ざめたティルナードはぶるっと大きく身を震わせる。しかし以前のような発作状態に陥るところまではいかず、摑まれた腕を振りなおも果敢に抵抗を試みた。

 とはいえ、しょせん大した抵抗にはならない。別の兵士の助太刀もあり、あっさり拘束されてしまったが、恐る恐るティルナードに眼を戻したユーランは非常に意外そうな顔をしている。


「おやおや、まあまあ。公爵の教えのたまものと言うべきですか」

「うるさい! よくも、よくも……!」


 心の痛みのためか、体の痛みのためか。眼の端に光るものをにじませ、ティルナードは怒りを吐き出した。けれど彼の怒りを受けるユーランの顔は至って涼しげだ。


「ですがいけませんね。ティルぼっちゃんのような体も頭もか弱い方には、半端な勇気など御身を害するものにしかなりませんのに」

「――お前たちが僕の家を焼いたのか! 父様と母様を殺したのか!?」

「ああ、そのことを思い出すと私も胸が痛むのです。教団としても非常に非常に苦肉の策として取った処置なのですよ。もっとも我々の名前を出すわけにはいかない時期だったので、かなりの遠回りをしてしまいましたが」


 より核心的な質問に、ユーランは少しだけ表情を動かしてしゃべり始める。


「あなたのお父様はとても優秀な領主でいらした。けれど優秀な領主であるからこそか、分不相応な野望を抱いてしまったのです。ご自分が国王になる、というね」

「何だと……!?」


 幼かったティルナードは父親の目論見など知らなかったのだろう。仰天している彼に、ユーランはさも困ったという顔をして見せた。


「農民たちの下克上をあれほど見事に統制しておきながら、ご自分が下克上を成そうとは全く理解に苦しみます。とにかくこれ以上レイデン伯爵が世の中を乱すようなことをなされば、教団はあの方を至高き国へお連れすることが出来なくなる。だからまだ間に合ううちに、手を打ったというわけです」

「……だ、だからって……!」


 ティルナードもけいけんな信者だ。流れるようなユーランの言葉を切って捨てることは出来ないようだが、その顔は幼い子供のようにくしゃくしゃに歪んでいた。


「だからって……、ユーラン! 僕に、僕に優しくしてくれたのも、助けてくれたのも、みんな、みんな……!」

「ああ、ぼっちゃん。どうかそのように傷ついた顔をなさらないで下さい。大丈夫ですよ、これからはもう少しだけおとなしくして頂くつもりですけれど、今まで通りおまもりして差し上げますから……」


 それは優しい響きを帯びた声で言うと、ユーランはにっこり笑ってこう結んだ。


「だってあなたは名家の血を引く正統なレイデン家の当主なのですから。ちゃんと領主に戻して差し上げたでしょう? 我々としては将来的には、全ての地方伯に本来の領主の地位を取り戻して頂くつもりなのです。無論フェイトリンにも、そしてアズベルグにもね」


 そんなことを言いながら、ユーランはカシュヴァーンの具合をうかがう。最早肩で息をするのがやっと、という状態になったことを確かめてから、血にれた剣を握り締め突っ立っているトレイスにこう命じた。


「さて、トレイスさん。あなたは友達を大切にする心をお持ちだ。神への敬虔なる心を忘れ、怪物になってしまったおさなみをその手で救って差し上げなさい。今ならまだ、人として至高き国へお連れすることが出来るでしょう」


 穏やかに微笑みながらのせりを受けて、トレイスは黙って手にした剣を振りかぶる。


「トレイス、だめよ! あなたにとってもカシュヴァーン様は大事なお友達なんでしょう? 殺してはだめ!」


 アリシアの叫びを聞いて、彼は苦しそうな表情になった。


「……私だって、本当はこのようなはしたくありません」


 苦しそうにしながらも、しかしトレイスは振りかぶった剣を降ろさない。


「しばらくの間お側に戻り、共に過ごすうちに心が揺れることもありました。手ひどい処罰を覚悟しておりましたのに、私が戻ったことをあのように喜んで下さるとは……ですがこの方は名家の血を引くというだけの理由であなたを買い、おまけにメイドを愛人にしている」


 震える声でつぶやく瞳には明らかに迷いがあった。トレイスのかつとうはまだ続いているようだったが、彼はそんな自分にいらった様子でこう言い切ってしまう。


「あんなにお嫌いだったお父上と、カシュヴァーン様は同じ道を歩もうとしているとしか思えない……! 友として、臣下として、私にはこうする義務があるのです!」

「トレイス!」


 叫ぶアリシアの首が針先に触れそうになったことに気づき、ルアークは微妙に武器の位置調整をしながら彼女を制止した。


「だめだってアリシア。それにアリシアの大事な屋敷は、今はレイデン伯爵のものなんだよ。ぼっちゃんはアリシアのことお嫁さんにしてくれるってことだし、司教様はフェイトリンを領主に戻してくれるらしいしさ。いいことずくめじゃん」


 気楽な言葉に顔を歪めるカシュヴァーンから用心深く距離を取ったユーランは、あいまいな微笑みを口元に浮かべている。


「残念ですよ。あなただって、最初から我々の教えを信じなかったわけではないようでしたのに」


 わずかに顔を上げたカシュヴァーンを見て、彼はくすくす笑いながら続けた。


「存じていますよ。死んだ母親のために、幼いあなたが我々から翼を買おうとしたこと。もっとも農民出身の、おまけに財産目当てに領主の愛人になったメイドに必要なだけの翼を買うなど、それこそ国一つにも匹敵する……ねえ? それで〈翼の祈り〉に対する信仰心を失ったのでしたら、はっきり言って逆恨みもいいところ……あわわわわ」


 その言葉を聞いてカシュヴァーンは奥歯をみ締める。しかし同時に、トレイスもはっとした顔になった。


「トレイスさん?」


 張り詰めた横顔から力が抜ける。幼馴染みを手にかけるために必要だった衝動が、トレイスの中から消え去ってしまったようだった。


「……ユーラン様……申し訳ありません、出来ません……」

「……おやおや」


 剣を降ろしてしまったトレイスを見て、ユーランはあきれたような声を出す。


「少しばかりお友達ごっこを長くやり過ぎたようですね。まあいいでしょう。アズベルグの暴君にとどめを刺すには、もっとふさしい方がこの場にはいらっしゃる」


 そう言うと彼は、おもむろにアリシアの方を向いた。


「さて、出番ですよ死神姫様。そこのルアークが言った通り、あなたの大事な屋敷は私のぼっちゃんの持ち物です。言っている意味は分かりますね?」


 ヘイスダムに託したはずの、両親が守りたがっていた屋敷は今やレイデン伯爵のもの。しかしそれをどうするかは後見人であるユーラン、及び〈翼の祈り〉教団の胸先三寸。


「あなたは変わった方ではありますが、大層現実を知った御方ともお聞きしております。散々予定外のこともして下さいましたが、終わり良ければ全て良しとしましょう。トレイスさん、あなたの剣を貸して差し上げなさい」


 言われてトレイスは、わずかにためらった後、手にした剣をアリシアに渡そうとした。しかし少し考えてから、それを彼女はこう断った。


「いいえ、ユーラン様。私、剣なんか重くて持てません。それにバスツール様と同じようにしたいのであれば、使う武器はこちらですわ」


 細い指先が、己の喉元に突きつけられた針を指す。ルアークが楽しそうに笑い出した。


「あはは、なるほど。そりゃそうだね、はい。今のカシュヴァーン様なら多分いちころだよ」


 あっさり言って彼は手の中の武器をアリシアに手渡し、離れていった。彼女は初めて手にした武器をしっかり持ち、続けてユーランにこう言った。


「ユーラン様、カシュヴァーン様に翼を賜る儀式をして頂きたいの。こちらに来て下さらない?」

「いいですよ。ああ、それと言っておきますが、それで私を刺そうとしても無駄ですからね。トレイスさんも、それにぼっちゃんも、馬鹿な考えを起こさないように」


 これもあっさりうなずいたユーランが、ゆっくりとアリシアの背後に回る。同時にルアークもトレイスの側に近づくと、剣を握った腕を震わせている彼を制止する位置に立った。


「私、暴力は嫌いですので、人を殴ったりはしませんが避けるのは割と得意です。ライセン公爵にはこの間殴られましたけど、あなたの腕じゃ当たらないですからやめた方がいいですよ」


 それでも用心のためか、やや離れた位置で立ち止まったユーランからアリシアは夫へと眼を向けた。

 銀の針を握り締め、見下ろしてくる妻を見上げるその眼は奇妙に静かだ。あきらめを漂わせた表情をして、彼はぽつりとつぶやく。


「最後は妻の手にかかる、か……のろわれたハルバーストの血の終わりとしては、これも相応しいかもしれんな……」


 辞世の言葉を口にした夫に対する、アリシアの表情も口調もいつもと変わりない。


「ねえカシュヴァーン様。私が死んだら、違約金はおじさまから頂いて下さいね。屋敷を売ったお金が入ったはずですから」


 けの言葉を出すべき場面で、彼女が口にしたのは遺言の言葉だった。言い返す力がないらしいが、ものすごく何か言いたそうな眼をしたカシュヴァーンを見てアリシアは続けた。


「その代わりうまくあなたを助けられたら、私の家をレイデン伯爵様から買い戻して下さると嬉しいわ」


 そう言うと彼女は手にした針を振りかぶり、ためらいなく自分の左手の甲に突き立てた。


「なっ!?」

「アリシア!?」


 あっという間にその場にくずおれたアリシアの手の甲には、確かに針先が埋まっている。芝居などではなく、間違いなく傷口に血が染み出ていることを確認してから、青ざめたユーランが駆け寄って来た。


「馬鹿な、ここであなたが死んでどうする気なんです!?」


 ルアークの武器に猛毒が塗られていることは知っているのだろう。慌てた彼がアリシアを抱き起こした、その時のことだった。


「えいっ」


 間抜けなかけ声とともに、ぷすりと音を立てて突き刺さる。

 ユーランの手の甲に、猛毒の塗られた銀の針が。


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