全ては薔薇の下に④


 遠い夕映えとランプの光に鈍く輝く黒い扉には、蔓薔薇の名残と思われる枯れた蔓が無数にへばりついている。けれど中央開きの扉の開閉部のところで蔓はちぎれ、扉の前の石段にもまだ新しい足跡が残っていた。


「やっぱり、誰かここに出入りしているんだわ」


 こんな時だというのについ高鳴ってしまう胸を押さえ、ランプ片手のアリシアは一つ大きく息を吸う。周囲に誰もいないことを改めて確認してから、彼女はずっと待ち望んでいた廃園に続く扉を開いた。

 言われた通りに自室で待っているうちに、気づけば窓の外には夕闇が訪れていた。おまけにそうこうしていると、馬のいななく声が屋敷の外から近づいて来たのも聞こえた。

 カシュヴァーンたちが帰って来てしまったのではないか。不安を覚えたアリシアだったが、それから間もなくしてノーラが迎えに来てくれた。一応大丈夫かとアリシアは聞いたが、メイドは眼も合わさずに大丈夫です、と取り合わない。

 妙に素っ気ない態度の彼女の案内は廃園の手前まで。では私はこれで、と言って姿を消した彼女と別れ、アリシアはひとり薔薇の廃園の中へと進んでいく。

 扉を開いて数歩分は外と同じような石段があるが、その後はすぐに地面だ。小さなさくで仕切られた内部は中庭と言っていいぐらいの広さがあり、柵に沿って枯れた薔薇の木が整然と並んでいた。

 廃園との呼び名通り、花どころか枯れた葉さえ残っている木が少ない。かさかさに乾いた細い幹を無惨にさらしたその姿は、知識のない者には何の木であるかさえよく分からないだろう。

 落日の光が多少硝子張りの天井から差し込んでは来ているが、弱い光は黒い森に遮られ更に弱くなっている。手元のランプで照らせる範囲も限られていて、そのせいか余計に内部の光景は不気味に見えた。


「まあ、本当に全部薔薇の木……土はそんなに悪くなさそうだけど、この土にこの日の具合じゃリーゴを植えるのは難しそうね。薔薇だってずいぶん栄養も日光も必要なはずだけど」


 実家のさんさんと日の降り注ぐ畑と比べてしまいながら、アリシアはなおも歩を進めていく。打ち捨てられて長い廃園の土は水まきなどもされていないらしく、歩くたびに乾いたほこりが闇の中に舞い上がった。


「ルアーク、いる?」


 そう呼びながら人の気配の全くない廃された園の中を見回すが、生きている者の気配はやはり皆無。

 こんな時だと分かっているが、ここに出るという幽霊がつい気になってしまうアリシアだ。だがカシュヴァーンを幽霊にしてしまうわけにはいかないので、彼女は目的を絞ることに決めた。


「ねえルアーク、あなたも一度引き受けてしまったお仕事だもの。難しいとは思うけど、カシュヴァーン様を殺すのはやめてもらえない?」


 薄暗い園の中、響くのはやはり自分の声だけだ。ルアークの姿はなく、答える声も聞こえてこない。

 彼の姿を探しながら、とうとう一番奥の壁のところまで辿たどり着いた時だった。白いものが視界に映り、一瞬ルアークの銀の髪と彼の武器である針とを思い出す。

 だが彼にしては……いや生きているものにしては様子がおかしい。


「なんだ、石」


 どきっとして、次にわくわくしたのだがそこにあったのはただの白っぽい石の一群だった。薔薇園を作る時に邪魔になった石を端に寄せたのかもしれないが、それにしては大きさや色調が妙に均一だ。

 何となく気になって、アリシアはかがみ込みランプの光を一つの石に当ててみる。こけまで生えてかなり薄汚れていたが、表面に刻まれた文字を何とか読み取ることが出来た。


  レベッカ・アクラズム。


 知り合いの名前ではない。けれどおそらく貴族の誰かと思われる、女性の名前。

 胸の底が不吉に揺らぐ。思わずアリシアは隣の石の表面も探してみた。するとやはり、同じように女性の名を発見した。


  ミゼル・ジェフバート。


「これ……もしかして……」


 作為を感じさせる同じような石の集団。一つ一つに刻まれた女性の名前。

 ある答えが、恐怖を伴ってじわりとアリシアの胸に広がっていく。


「お墓……なの?」


 小さくつぶやいて、彼女は更にもう一つの石の表面を見た。苔むして白い表面はほぼ見えないが、見当をつけてこすれば指先が刻まれた文字を探り当てる。


  ジーナ・ハルバースト。


「ハルバースト?」


 ランプの光の中に浮かび上がった、ある意味よく知った名前。アリシアは驚いて大声を出してしまった。


「ハルバーストって、あの、ハルバーストの薔薇屋敷?」


 彼女の大声にかぶさるようにして、乱暴に扉が開く音がしたのはその時だった。はっとして振り向いたアリシアの眼に映るのは、自分のものではないランプの光に浮かび上がる漆黒の男。

 一瞬、あの肖像画の男が絵から出て来たのかと思った。だが違った。冷たい怒りに両眼をぎらぎらと光らせながら近寄って来るのは、彼女の夫であるカシュヴァーン・ライセンだった。



「お前は本当に、俺の言いつけを守らない女だ」


 扉をばして廃園内に入ってきたカシュヴァーンは、そう吐き捨ててじろりとアリシアをにらんだ。

 病的なものさえ感じさせた、あの絵の男と似たような不気味な迫力を今の彼は発している。我知らず体が震え、アリシアは初めて二度目の夫を心から怖いと思った。


「――ごめんなさい!」


 立ち上がり、反射的に深く頭を下げて謝る妻を夫はそれは冷ややかに見やる。人間を見る眼ではなく、それこそまるで路傍の石でも見るような冷たく乾いた瞳。

 心のしんまで辿り着いた怒りゆえのものとはアリシアにも分かる。自分がそれだけのことをしたことも分かっている。

 屋敷の外に出るな、トレイスのことは聞くな。今までも散々夫の言いつけを破ってきたアリシアだったが、今回だけは本当にまずい。

 常人よりよほど鈍いと評判の、眼の前で代官をられた時さえも突っ立っているだけだった足さえも勝手にがくがくと震えてしまうのだ。アズベルグの暴君と呼ばれる男の怒りを一身に受ける恐怖に、アリシアは夢中で叫んだ。


「ごめんなさいカシュヴァーン様、私……!」

「俺の顔を見るなり謝るということは、俺の言いつけをちゃんと覚えていてその上で破ったということだな。結構」


 謝罪の言葉すら許される雰囲気ではない。カシュヴァーンはつかつかと薔薇園の中に入って来ると、いきなりぐいっとアリシアの手首をつかんだ。容赦のない力に痛い、と思わず声を出した少女を、彼は引っ張って歩き出す。


「ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 必死になって何度も謝るアリシアに対し、カシュヴァーンはいっさいの無言を保った。まるで野良猫でもつまみ出すように彼女を廃園の外へと連れ出すと、自分はすぐに園の中へと踵を返してしまった。

 激しい音を立てて閉められた衝撃で、扉にまとわりついていた枯れた蔓薔薇がぱらぱらとはがれ落ちる音がやけに耳につく。呆然としながらアリシアは、閉ざされた廃園を見つめてつぶやいた。


「……ごめんなさい」


 気づけば完全に日も落ちきった闇の中、発されたか細い謝罪に答えはない。

 言葉はなくとも、いや言葉がないからこそ、その態度と行動からカシュヴァーンの気持ちは痛いほどに強く伝わってきた。


 ――お前の顔など二度と見たくない。


「ごめんなさい、カシュヴァーン様……」


 彼に摑まれた手首にはまだしびれが残っている。墓石に触って汚れた指を握り締め、彼女はとぼとぼと屋敷に向かって歩き始めた。



 なぜあれほどまでにカシュヴァーンが怒ったのかは分からない。そもそもなぜあそこに彼がやって来たのかも分からない。

 なぜ、ハルバーストの名が刻まれた墓石があったのか。これが一番分からない。

 ハルバーストの薔薇屋敷。薔薇の花に狂った当主が、何人もの女性を殺して肥料として薔薇園に埋めたという伝奇の題名。

 ここに来た当時から何だかあの話を思い出す、と思っていたのだが、まさか本当にここがそうなのか。


「……でもここはライセンのお屋敷よ?」


 例えば実名がまずいとして、伝奇の方は名前を変えていたとしてだ。実際のこの場所はライセン家の屋敷なのだから、あるとすればライセンの名が刻まれた墓石ではないのか。

 だがとにかくカシュヴァーンは激怒して、アリシアの腕をまるで摑みつぶそうとでもするように摑んで外へと連れ出した。それだけで今の彼女には十分だった。


「……馬鹿だわ、私。これじゃカシュヴァーン様が生きていたって、どのみち離縁の危機じゃない」


 気づけばすっかり日の落ちた空を見上げ、アリシアはしょんぼりしたままとりあえず屋敷内に戻ろうとした。しかし彼女は寸前で思いとどまった。


「……いいえ、だめよ。ルアークがあそこにいないのなら、レイデン伯爵様に直接お願いするしかないわ」


 あの様子ではカシュヴァーンは自分の言うことなど聞いてはくれないだろう。こうなった以上居場所の分かっている雇い主に直接話をつけるしかない。

 そう思ってアリシアは屋敷の外に出ようとしたが、当然のことながら門番たちに止められてしまった。掲げられたかがり火の下、門を開こうとする奥方を彼らは必死になだめすかす。


「奥様、いけません。奥様をお出しするなと言われているんです」

「分かってるわ。でも今はどうしても外に出たいの。でないとええと、カシュヴァーン様が危ないのよ」

「あなたを外に出すと我々があの方に危ない目に遭わされますよ。奥様、後生です。トレイスが戻って多少は旦那様も丸くはなりましたが……ああ、ノーラ。何とかしてくれ」


 もみ合いをしているところに近づいてきた奥方つきのメイドの存在に、門番が助かったという顔をする。アリシアもぱっと表情を明るくしてこう彼女に頼んだ。


「あのねノーラ。私、レイデン伯爵様のところに行きたいの」


 開口一番飛び出した台詞に、探るような目つきをしていたノーラは相当驚いたようだった。とにかくこちらへ、と一度門番たちから彼女を引き剝がしたメイドは、いったん屋敷の扉の脇にまで戻ると興奮を隠せない口調でこう言った。


「……まあまあまあ、とうとうあちらに乗り換えるおつもりなんですか!? よほど旦那様を怒らせてしまったようですわね!」


 そうなのよ、と後半の台詞にだけうなずいてからアリシアは不思議そうな顔をした。


「あら? ノーラ。どうしてカシュヴァーン様を怒らせてしまったことを知っているの?」


 指摘されノーラはあさっての方向に瞳を逸らし、うめくような声を出す。


「そ、それは……あの私、奥様に謝らないといけないと思ってお探ししていたのですわ。旦那様を引き留めておくことが出来ず、きっとおつらい目に……その」

「ううん、いいのよ。ね、ノーラ、それよりもお願い。私をレイデン伯爵のところに行かせて」


 元より過去を振り返らない主義のアリシアである。事態を解決する希望はまだ残っているのだしと、彼女はしどろもどろに言い訳をするメイドを遮って話を進めた。


「それでね、ノーラ。もしも私が戻らなかったらカシュヴァーン様にお伝えして。レイデン伯爵様はカシュヴァーン様のお命を狙っているみたいなの。屋敷内に暗殺者がいるわ、気をつけて下さいって」

「……は……、は、はあ?」


 あんぐりと口を開け、ノーラは気抜けした声を出した。しかし元から鈍い上に、アリシアには今時間がない。


「私は妻として、これからレイデン伯爵様にそういうことはやめて下さいとお話をして来ます。カシュヴァーン様のことはよろしくね。ノーラの言うことなら、きっと聞いて下さると思うから」


 その、心から自分を信じきっている表情と口調にノーラはしばし無言になる。


「ノーラ? ごめんなさい、あまり時間がないんだけど」

「……信じられない。あんた、本当に本物のアレなの……?」


 思わず敬語を忘れてつぶやいた後、彼女は少し迷うような眼をして押し黙った。しかしアリシアがまたノーラ、とれたように呼ぶと、彼女はへいたんな声でこう言った。


「……使用人の使う通用門がありますわ。そちらからなら出して差し上げられますでしょう、こちらへ」

「ありがとうノーラ!」


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