先生、漏れちゃいました

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第1話 破滅と支配者

空は黒く、厚い雲が今にも落ちてきそうだった。気だるい午後の授業、外では激しい雨が降っていて限界まで上昇した湿気がさらに憂鬱な気分にさせてくれた。窓を打ち付ける雨の音と、チョークが黒板を叩く音、そして古典のゲシュタポの大きすぎる声が教室内でぶつかり合っていた。


約半分の机が空席だ。それは少しだけ奇妙な光景で、なんだか納まりの悪いむず痒い感覚にさせてくれた。


今、ゲシュタポが一生懸命解説している古典だがさっぱり興味が持てなかった。過去の文章は難解で良く分からないというのも大きな理由だが、それ以上に過去を振り返ることに意義を感じないのだ。本当にその人間が書いたかどうかも分からない文章を現代でこねくりまわすことに何の意味があるのだろうか。過去を振り返ることに大きな意味があるのだろうか。そう思えて仕方がない。


黒板を叩くチョークの音が止み、雨の音だけが教室内を巡った。ゲシュタポはこちらに向き直ると教壇の上の教科書を閉じ、トントンとプリントを揃えながらさらに大きな声で言った。


「それでは今日はここまでにしてあとは自習にします。各自で48ページまで読んでおいてください」


そう言い終わらないうちに歩き出し、あっという間に教室から出て行った。まだ授業時間は30分以上も残っている。ただ、クラスの女子が全員欠席のこの状態ではあまり授業を進めたくないのだろう。この自習にはそういった配慮があってのことと全員が暗黙の内に了解していた。


ゲシュタポの姿が消えると一気に教室内が騒がしくなった。一部の生徒しか自習をせず、大部分が立ち上がり好きなようにおしゃべりを始める。中にはスマホを取り出してゲームを始めるやつもいた。


「いやー、女子がいないと張り合いがないね」


すぐに健治が自分の席から立ち上がり、机の横にやってきてしみじみと語りだした。


「創作ダンスコンクールだっけ? 体育の授業でやってたあれを市民体育館で発表してるんだよな」


すぐに陽介が割って入る。


「あ、そうなんだ」


そう答えた。なぜ女子が全員欠席なのかわからず、まあそういうこともあるのかと奇妙さを感じながらも納得していたが、そういう事情だったのか。これで合点がいった。


「おいおい、高志、しっかりしてくれよ」


また健治が首を横に振りながらしみじみと言う。


「すまんすまん。ド忘れしてた。みんな揃って体調悪いのかと思っていたよ」


その言葉に陽介が大きく口を開けて驚いた表情を見せた。


「お前、本当に女子に興味ないのな」


その言葉に口を真一文字に結んで小さく首を捻ることしかできなかった。


「まあ、男子校ってこんな雰囲気なんだろうな。毎日は困るけどたまにはこういう雰囲気もいいかも」


陽介の言葉に健治が割って入った。


「お前は女好きだからな。もすぐ耐えられなくなるよ。早く加奈子ちゃんに会いたいって思いはじめてるだろ」


「それをいうなよ。まあ、明日までの我慢だよ」


そう言って笑いあう。少し話についていけないところもあったが、同じように愛想笑いを返した。


チャイムが鳴る。古典の授業時間の終わりを告げるチャイムだ。


「あ、そうだ。高志、お前これ忘れてたろ」


健治が何かを思い出したように言う。ポケットから出した右手には白いスマートフォンが握られていた。


「ああ、そうだった」


今日は雨なので1限の体育の授業は体育館でバスケットボールだった。以前、学校内に泥棒が侵入し、体育の授業を狙って無人の教室から貴重品を根こそぎ持っていかれる事件があったらしい。それから財布やスマホなどの貴重品は体育委員に預けることになっていた。本来ならスマホは校則で禁止されているが、現実的にはほとんどの生徒が所持しており、暗黙の了解的な扱いだった。健治はその体育委員で、貴重品袋にクラス全員の貴重品を入れて体育館に持っていく役割を担っていた。


「財布もな」


「ああそうだった」


健治から財布とスマホを受け取る。


またチャイムが鳴った。


「お、次は数学だ」


健治と陽介はいそいそと自分の席に戻った。チャイムが鳴り終わると同時に数学のワイマールが小走りに教室内へと入ってきた。教卓から教室を一瞥し、口を開く。


「今日は女子がいないのですね。ふむ、それでは先には進まずにこちらの問題をやりましょう」


ワイマールはそう言って指に唾をつけながらプリントを配り始めた。


「前回やった問題の応用ですから、簡単にできるはずです」


そう言われたが、問題を見てもさっぱり分からない。正解が分からないだとか解き方が分からないというレベルの問題ではなく、そもそも何を求められているのか、そもそもこれは問題なのかすら判然としない。そういった意味ではこれはもう先ほどの古典とそう変わりがないのだ。


「これは最後に提出してもらいますからね」


ワイマールはプリントを配り終えるとそう言った。


教室は静まりかえっていた。提出する必要があるということで皆、真面目に取り組んでいるようだ。カリカリと何かを書く音だけが空席がちの教室に響き渡った。陽介も健治も問題が解けているようで、一生懸命にプリントに向き合っている。どうやらできていないのは自分だけのようだ。ただ、不思議と焦りの感情はない。強がりでもなんでもなく、これが古典と同じであると考えると心の底からどうでもいいと思えてしまうのだ。


ただ、解けない問題をじっと見つめている時間ほど無駄なものはない。言うなれば無為な時間だ。そういった無駄な時間を有効活用することは大変有意義なことだ。机に突っ伏し、ワイマールの目を盗むようにして机の下にスマホを構えた。


やりかけのゲームやSNSのメッセージをチェックする。それらに新しい動きはなかったが、ふと、画面の端に見慣れないアイコンがあることに気が付いた。ただの茶色い四角形のアイコンに「支配者の憂鬱」とだけ名前が付けられていた。


「なんだこれ?」


そう思った。このようなアプリをダウンロードしインストールした覚えはない。ウィルスか何かだろうか? 一番右端の下、最も最近インストールしたアプリが収まる場所にその謎のアイコンが居座っていた。とにかく、ウイルスだったら早急に削除しなければならない。情報流出などしたら目も当てられない。早急に対策するにはこのアプリが何物なのか知る必要がある。危険かもしれないと思いつつもその茶色いアイコンをクリックした。


すぐに画面全体が茶色に染まった。そして文字が表示される。


「ようこそ、遠山高志様」


少し奇怪な、怪しげなフォントでそう表示された。名前を入力した覚えはないが、スマホに登録されている名前を読み込んでいるのだろうか。なんにせよあまり気分がいいものではない。ますますもって悪質なウイルスかもしれない。


「あなたは支配者に選ばれました。破滅させたい人を選んでください」


すぐさま不思議な文言が少し不気味な字体で表示される。


「支配者? 破滅?」


良く分からずに画面を眺めていると、画面が切り替わりずらっと名前が表示されていった。それは一覧表になっていて、小さな文字で40人程の名前が表示されていた。どの名前もどこか見覚えのあるものばかりだった。


「渡瀬健治、外山陽介……」


これは健治と陽介の名前だ。そしてそこには自分の名前もあった。


「これはクラス名簿だ!」


間違いなくクラス全員の名前がそこに表示されていた。この時点でおおよそのことを理解した。これは健治がイタズラで仕組んだアプリなのだ。普通に考えて入力した覚えもないのにアプリの中にクラス名簿が入っているはずがない。きっと、健治が何らかの目的でこの不気味なアプリを自作し、仕込んだのだ。きっとさっきの体育の時間に預かった時にインストールしたんだろう。何の目的でそんなことをするのか知らないが、どうせドッキリか何か、もしくはゲームにでも使うつもりなのかもしれない。健治ならやりかねない。


「ばからしい」


削除しようと思ったが、わざわざアプリまで作った手間を考えるとそれもどうかと思い始めた。ドッキリならば少しは乗ってあげる必要があるのかもしれない。もう一度、アプリに表示された文字を読み返す。


「あなたは支配者に選ばれました。破滅させたい人を選んでください」


どうやら名簿から1名を選んで破滅させなければならないらしい。「破滅」が何を現しているのか意図が分からなかったが、あまり趣味がいいものではないと思った。けれどもドッキリの類ならそんなものかもしれない。


「とりあえず、柳井でも押しておくか」


こういった場合、柳井幸平は最も無難な人選だ。お調子者で人当たりも良く、いつもへらへら笑っている弄られキャラのポジションにいる男だ。普通だったら例えドッキリとはいえ「破滅させたい人」に選ばれたら嫌な気分になるだろうが、柳井はそういった負の感情を見せない器の大きさがある。たぶん柳井なら選ばれてもそんなに怒らないはずだ。


名簿から柳井を選ぶと、すぐに画面の表示が切り替わった。


「選択されました。防御フェーズをお待ちください」


そう表示されたのを確認した瞬間、何者かに背中を触られた。驚いて顔を上げると、そこにはワイマールの顔があった。


「何をしてるんだね?」


授業中のスマホの使用は禁止されている。ばれたら没収になってしまうので、なんとか誤魔化しながらスマホを隠す。


「いや、ちょっと頭が痛くて……」


ワイマールは表情一つ変えずにメガネを光らせた。


「それなら医務室に行きなさい」


「いや、大丈夫です。もう治りました。問題解きます!」


わざとらしくプリントに向き合う。また教室内に静寂が訪れた。


なんとか誤魔化しながらプリントに向き合うが、やはり全く分からない。こんなにも分からないものかと感心するほどだったが、まだワイマールがこちらを凝視している。やっているふりをやめるわけにはいかない。真剣に考えている演技をしながらプリントを凝視していると、張り詰めた空気を引き裂くかのような、大きなうめき声が後ろから聞こえた。


「うわああああああああああああああああああああ!」


驚いて振り返る。


柳井が顔面を真っ白にして立ち上がっていた。額には数滴の汗が点在している。小刻みに震え、目の焦点もあっていない。


「どうした柳井?」


ワイマールが駆け寄る。柳井は口をパクパクさせながら絞り出すように言った。


「先生、漏れ……」


何かを懇願するような目をし、絞り出すようにそういったかと思うと唐突に悲劇が訪れた。


ブチャチャタビチャピチャブルルルルアチャビチャブチュチチチチチチブチョオ!!


聞いたことないような音を轟かせ、柳井は果てた。その場にへたり込み、周囲の床に液体とも個体とも言えない茶色い何かがじんわりと広がった。噎せ返るような熱気と異臭が一瞬のうちに教室内に充満した。だれもが鼻を抑え言葉が出ないようだった。


「誰か、柳井を運びなさい!」


ワイマールの声がむなしく響く。誰も動こうとはしなかった。柳井は茶色い何かの中心で俯いておりおり、微動だにしない。まるで廃人のようだ。ただ、不愉快な悪臭と、中途半端なざわめきだけが教室内を支配していた。




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柳井は医務室へと運ばれていった。


結局、体育委員の健治とワイマールが担架で運んでいた。環境委員だった陽介は床の掃除をさせられていた。床は綺麗になったが、臭いはいまだに教室内を漂っている。ざわめきと悪臭が同居するこの場所で、皆が口々に語りだした。


「びっくりしたよ。突然だもんな」


「俺もうカレー食えねえよ」


「ああなる前にトイレ行けよ」


そのざわめきの中で白井がこぼすように言った。


「あーあ、柳井もこれで破滅だな。まさか学校で漏らすなんて」


確かに、これは破滅であろう。高校生にもなって教室で漏らす。それはやはりあまりに重大で取り返しのつかない大事件だ。今後、柳井が何をしようとも「教室で漏らした」という枕詞がついてしまうことはあ否めない。ただ、不幸中の幸いか、女子が全くいないこの日に漏らしたことだけは幸運だった。ここに女子がいたと想像するとそれだけ気絶しそうになる。そして、「柳井の破滅」という白井の言葉が心の中にひっかかった。


「柳井……破滅……?」


その言葉に、数分前の出来事を思い出す。スマホに入っていたあの謎のアプリ。茶色いアイコンのあの「支配者の憂鬱」というアプリだ。つい数分前の自分の行動を思い返した。


「まさかそんなことが」


急いでスマホを取り出す。茶色いアイコンを開く。すぐに画面が茶色に変わり、また文字が表示された。


「おめでとうございます。支配者の勝利です。対象は破滅しました」


手が震えてきた。


このアプリで選んだから柳井は漏らし、破滅した。そういうことなのだろうか。いいや、ただの偶然だ。そんなことがあるはずがない。そうとはわかっていても得体のしれない不安のようなものが心の中を占有していく感覚がした。


「残りの時間、自習だって」


医務室から帰ってきた健治が教室に入るや否やそう言った。普通なら大喜びで遊び始めるところだが、みんなそんな気にはなれなかった。静かに席に着き、プリントに向き合う。もうワイマールはいないのに静かに問題を解いている。さきほどの出来事がよほどショックだったのだろう。


机の上に置いていたスマホの画面が光った。


「第2ピリオドを開始します」


茶色の画面にはそう表示されていた。


「あなたは支配者に選ばれました。破滅させたい人を選んでください」


先ほどまでと全く同じ表示だ。


「まだやるのか?」


そう思った。いくらドッキリとはいえ趣味が悪すぎる。それに柳井があんなことにまでなってまだ続けるだなんて。自習時間が終わったら健治に文句を言わなければならない。あまりに趣味が悪すぎるし、もうやめるべきだと。


相変わらずスマホは先ほどと同じ画面を表示していた。ただ、唯一異なる部分は、クラス名簿の柳井の欄だった。柳井はもう選択できないのか、その背景は灰色の表示に変わっていた。


ぞっとした。なぜ、このアプリは柳井の破滅を反映しているのか。やはり柳井の破滅とこのアプリは関連性があるということなのだろうか。けれども、もしあるとしても一体全体どうやって。そもそも、そんなことは科学的に考えて不可能だ。アプリで管理して選ばれた人間を脱糞させるなんて非科学的すぎる。いくら技術が進歩しようともそれは不可能だ。


そう考えていると更に画面の表示が切り替わった。


「破滅させたい人を選択してください。残り時間5:00」


時間制限があるらしい。ますます趣味が悪い。どんどん減少していく時間表示を見ていると妙に焦る気持ちが生まれてくる。しかし、選ばれた相手が破滅するとなると……。けれども関連性があるはずがない。様々な思考が交錯する中、一つの結論に行きついた。猶予は残り1分に迫っていた。


これは試すチャンスと捉えるべきなのではないだろうか。そもそもアプリで選択された相手が漏らす、なんてことはあり得るはずがない。つまり先ほどの柳井の件は偶然が重なったものなのだ。奇跡的な偶然が重なり、さもアプリによって漏らされたように見えただけなのだ。たまたま柳井はお腹の調子が悪かったに過ぎないのだ。そもそもこんなアプリにそんな力があるはずがない。つまり、ここで適当に誰かを選択し、何も起きないことを確認すればいいのだ。


「じゃあ適当に木下あたりを選択しておくか」


カウントダウンまでされて何もしないのは少し居心地が悪い。ならばクラス内で最も真面目で優等生、がり勉で知られる木下を選択することにした。特に理由はなく、単純にあまり話したことないということと、無難な人選であるという理由から彼に決めた。


すぐに「木下雅也」の名前をタップする。この表示で初めて彼の下の名前を知ったくらいだ。同じクラスなのにほとんど面識がない。もし何かあったとしてもそう心は痛まないかもしれない、そんな思いも少なからずあった。


「選択されました。防御フェーズをお待ちください」


また同じようにそう表示される。防御フェーズとはなんなのだろうか。良く分からないが、とにかく教卓の前に座る木下の様子を注視した。


木下は何も変わりなくプリントの問題を解いている。体調が悪そうにも見えない。様子がおかしいような感じもしない。後姿しか見えないが、普段通り淡々と真面目に課題に取り組んでいるようだ。やはりさっきの柳井の異変は偶然の産物だったのだ。そもそもこんなアプリにそこまでの影響力があるとは思えない。一瞬でもこんなものを信じそうになった自分を恥じた。


気を取り直して分からないなりに課題に取り組もう、そう思って視線をプリントに移したその瞬間だった。


「あああああああああああああああああああああああああああ」


木下が奇声を上げていた。座席に座り、プリントに向き合った姿勢のまま真っすぐに黒板の一点を凝視して声を上げている。その異様な光景に教室内の空気が張り詰めるのを感じた。木下はまるで壊れたおもちゃが発する効果音のように、抑揚なく叫び続けた。


十数秒は続いただろうか、その生命を感じない叫びが途切れた。教室にまた静寂が訪れ、短く、そして長い一瞬の間隔を置いて、今度は木下の下半身から音が漏れた。


ブチャアアアアアアアビチュラアアアアブチョオオブブブブプププププップブウウ!


教室はパニックになった。木下は机に突っ伏したまま気を失っているようだった。


右手に握ったスマホの画面を凝視する。茶色い画面を背景にまた同じように文字が表示されていた。


「おめでとうございます。支配者の勝利です。対象は破滅しました」


間違いない。そう確信した。どんな力が働いているか理解できないが、このアプリを対象者を破滅させるアプリだ。しかもその破滅方法は回避不能の脱糞。対象者の社会的生命を根こそぎ奪う方法で破滅させる。高校生が教室で脱糞して破滅しないはずがない。


「とんでもないアプリだぞ、こりゃ」


もう一度画面を注視する。また画面が切り替わって文字が表示される。


「第3ピリオドを開始します」


しばらくして次の文字が表示される。


「あなたは一般人です。支配者から守りたい人を1人選んでください」


さきほどのまでの2回とは異なる表示。いったい何が起きているのか。大騒ぎの教室でただ立ち尽くすことしかできなかった。




つづく

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先生、漏れちゃいました pato @patonumeri

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