020 理科室(2/2)

理科室は、どんな場所よりもずっと、透き通っていて、美しかった。


5限目の理科の授業で、僕はいつものように最後まで理科室に残った。遺書の書き主を待つ為ではない。西條先生に気付かれないように窓の鍵をわざと一つ開けておいた。


次の日の早朝、まだ夜が明ける前の薄暗い時間に、僕は自転車をめいっぱいにこいだ。厳しい冬の寒さが、僕の全身の傷口に凍みるようだった。息をする喉が痛い。錯覚だろうか、まだ血の味がする気がする。でも、吐く息は血が滲むことなく純粋に白くて、なんだか安堵した。ああ、悪い気分じゃない。冬は綺麗だ。特に冬の朝は美しい。空も、海も、風も、街も、鋭く研ぎ澄まされている。


 長い廊下を歩き、僕は理科室へと向かった。あそこを僕の居場所にしよう。規則正しく並べられた試験管やフラスコを眺めながら、誰かが書いた遺書を眺めながら、朝が来るのを待とう。昨日空けておいた鍵の閉まっていない擦りガラスの窓を、がらりと開けた時だった。


先客がそこにはいた。僕の席で、尖ったシャープペンシルを握り、頬杖をつく、少年。少し憂いを帯びた横顔、白く細い手首、鋭いひとみ、後ろで小さく結わった柔らかそうな金髪。整った綺麗な顔立ち。僕に気付いて、少年は振り向く。振り向きざまに、緑色のピアスがきらりと光った。


ピアス。僕の全身はびくりと反応した。あいつらの仲間だったらどうしよう。僕が急いで踵を返そうとした時だった。


「待って」


 少年は、席を立ち上がって、窓まで歩み寄る。僕は影を踏まれたみたいに動けなくなった。呼吸が乱れる。


「あんた大丈夫か、その顔」


 絆創膏では到底隠しきれないぐらいに、僕の顔はぐちゃぐちゃに腫れていた。それでも誰もが何があったのかを尋ねようとはしなかった。担任の先生ですら。大丈夫かと心配をされたのは初めてだった。大丈夫ではない。大丈夫なもんか。だけど、その言葉で僕の心は少し軽くなるようだった。


ありがとうと言葉にしようとしたその時、少年が僕の頬の傷口に触れた。びくりと身体が反応し、僕はその手を咄嗟に払い除けた。


「あ、ご、ごめん、僕……」

「すまん、痛かったか? ごめんな。それよりもさ、これ、あんたなんだろ」


真っ黒な机を指さす。鉛の黒が朝焼けに反射してきらりと光って見えた。あれ。この人は。目が合う。深い海の底のような、吸い込まれそうな美しいひとみ。まだ誰も登校していない、早朝の、誰もいるはずもない、理科室。こんなところに一人でいる少年は。僕の席で、シャープペンシルを繊細に動かすこの人は。


「君は、もしかして」

「驚いたよ。まさかさ、返信が来るなんて思っちゃいなかったから」


遺書を書いた人だ。この人が、あの綺麗な字を書く、あの、綺麗な言葉を羅列する、ずっと捜していた、僕がずっと会いたかった人だ。もっと大人しそうな人だと思っていた。例えば教室の片隅で本を読んでいるような、僕のような。だけど、金髪で、耳にはピアスがついていて、その人は僕の想像の人とはまるで違った。確かに厳つい容姿をしているけれど、それでも、そんなことよりも、あまりにも美しい雰囲気のひとだった。


遺書への数々の拙い返信を思い出して、僕は途端に恥ずかしくなった。


「あ、ご、ごめん」


 少年は謝る僕の顔をまじまじと見て、少し考えてから僕の腕を両手で引っ掴んだ。途端、また身体が反応する。だけどその力強さに逃げることがでない。何をするのかと思いきや、少年は全体重を後ろにかけ、窓から僕を理科室に引き込んだ。僕は体ごと窓からのめり出し、頭ごとまぬけに理科室内に転がり落ちた。スクールバックのチャックの締まりが甘く、教科書が床一面に雪崩れる。


あははははは、と笑い声が響き渡る。少年が腹をかかえて笑う。あいつらと同じ笑い声なのに、どうしてこんなに安堵できるのだろう。僕もなんだか可笑しくなり、ふふっと笑みが零れた。


「なあ、よかったら、何があったか話してくれよ。1限目始まるまでまだ時間あるしさ、俺さ、今めっちゃ暇なの」


僕はためらったが、少年の真っ直ぐなひとみから、目をそらすことができなかった。僕はいつもの席に座った。少年も隣の箱椅子に腰をかける。それから僕は少年に、あったことの総てを話した。教室で息を潜めるように生きていた事、昼休みに踊り場で過ごしていたこと、あいつらに、大事なものを、無茶苦茶に壊された事、力を振り絞って言い返したはいいものの、もっとこっぴどくやり返された事、少年は、茶化すことなく、最後と一言まで、取りこぼすことなく、丁寧に丁寧に傾聴した。


全部吐き出した。真っ黒な感情も、汚れた感情も、はじめて、全部、人にぶつけた。僕は怖くて顔をあげることができなかった。少年は僕の事を軽蔑しただろうか。こんなにぐちゃぐちゃな思いをもっていながら、何にも出来ない僕を馬鹿だと思っただろうか。少年は、ゆっくりと口を開いた。



「あんた、強いな」



僕は、はっと顔を上げて少年を見た。少年は、真っ直ぐ僕を見つめていた。


「……こ、こんなボコボコにされてるのに、よく言えるよ」

「いいや。強いよあんたは」


胸がぎゅっと苦しくなった。目頭が熱い。今まで我慢していたものが、こみ上げてきて、ひとみから大粒の涙がぼろりぼろりと零れ落ちた。それから僕は堰を切ったように、声をあげて泣いた。声をあげて泣いても、誰も助けてくれないと思っていた。でもこのひとは、この一言に、僕はどれだけ救われたことだろう。



***



それから毎日、僕たちは約束もしていないのに決まって早朝の理科室で密会した。あの遺書の続きのように、僕たちは毎朝、朝焼けのような綺麗な言葉をならべて、時にはくだらない話をして、どろどろの戦争のような一日に備えた。この時間は僕にとって、唯一の安堵の時間であり、何よりの武器だった。この繊細で、綺麗で、平和な時間がいつまでも続けばいいと思っていた。


ある朝、少年が鉛の反射する机を撫でながら少年が「これさ」と呟く。遺書を細い指先でなぞりながら優しく笑った。僕は少年が平然を装っているふうに見えた。


「よく遺書だって分かったよな。あんた、西條先生よりよっぽど変わり者なんじゃないの」


こんなに寂しい顔で笑う人を、僕は知らない。正直、遺書の話をするのはあまり好きじゃなかった。大事にしていたこの空間が、端っこから少しずつ、ポケットに入れっぱなしにしたクッキーのように、ぼろぼろポロポロと、崩れ去っていくような気がしたから。


だけど、聞かなきゃいけないことがある。僕は、ずっと聞けなかった事を、どうしても聞きたかった事を口にした。


「君はどうしてこんな遺書を? こんなに遺書らしくない遺書をみたのははじめてだよ。というか、遺書を見たこと自体がはじめてだけど。なんか、遺書ってもっとこう、恨みや、憎しみや、悲しみや、そういうものを、真っ黒な感情を書くものだと思っていたから」


いつか聞かれるのが分かっていたよ、そういう顔だった。少年は、おもむろに立ち上がり、グラウンド側の窓を開けた。冷たい教室に、更に冷たい空気が流れ込む。少年は僕を振り返り笑った。僕達の吐く息は白い煙になる。彼の淡い表情に、今すぐにでも、その窓から落っこちてしまうんじゃないかと怖くなった。


「だって、死ぬときまで悲しみにあふれていたんじゃ、そんなに不幸せなことってないだろ。だからせめて美しいものを、14年間で見つけた、何より美しいと思ったものを、記していたかったんだ」

「……ねえ、本当に死ぬの?」


 少年に何があったのかを、僕には聞く勇気が無かった。こちらは聞いてもらっておきながら、僕には少年を受け止める技量も要領もきっとない。だから僕はこの話題をずっと避けてきた。怖かった。触れるのが。人の、核心に触れるのが。


少年は幸せそうに頷いた。そんな顔で笑わないでくれよ。あまりにも美しすぎるその横顔はどこか恍惚としていた。僕は怖くなった。どうにかして、引き止めなければ、この人は本当に……。


「でも、なにも死ぬなんてこと――」


僕は続いて欲しかった。もはや自己中心的な、欲望だった。ずっとこうやって、戦いに備える朝を、ずっと続けたい。彼を救いたいとか、そういうことよりももっともっと、傲慢な理由だった。一人にしないで。僕を置いていかないで。違う、駄目だ。僕は言葉を詰まらせた。


ああ、今、僕は酷い言葉をぶつけたな、と思った。ストーブを焚いていない早朝の理科室は冷たく、床の冷気が、つま先から心臓に向けて、じわり、じわりと登りつめているのが分かった。



「じゃああんた、俺の代わりになってくれる?」



少年の視線が、弱気な僕の心を貫いた。怯んで呼吸ができなくなる。踊り場の彼らよりもずっと鋭く、冷たい視線。


彼が僕に敵意を向けたのは、後にも先にも、そのたった一瞬だけだった。最初で最後だった。「俺の代わりになってくれる?」責め立てるでもなく、どやすでもなく、ただ冷酷に、ただ淡々と、彼は割れたガラスの破片みたいに鋭く尖ったその言葉を、僕の心臓に突きつけた。

 しばらく沈黙が続き、僕が何も言い出せないでいると、少年は困ったように、誤魔化すように笑った。


「なんてな、うそうそ。冗談だよ。あんたみたいな真面目そうなな奴が、俺の真似っこなんかできっこないって」


やめてよ。そんな寂しい顔で笑わないでよ。美しかった。胸が苦しくなるぐらい、僕が14年間生きてきた中で、いちばん儚くて、いちばん美しいものだった。


「第一、俺の真似すんならまずその僕って一人称からどうにかしなきゃだしな、10年かかったって無理な話だよ」


少年は不自然なほどに饒舌で、僕は返す言葉も見つからなくて、ただただ不安になった。でもさ、と少年が不自然な笑いを止めて僕のほうを向き直った。


「俺は、あんたみたいになりたかったって思うよ」



***



 あれから、なんとなく気まずくなって、僕は理科室に通うのを止めた。あんなに大事にしていた空間だったのに、時間だったのに、罪悪感がそれを上回り、僕の心を締め付けて離さなかった。


それでも、否が応でも理科の授業ではこの席に座らなければならない。僕は目をそらすことが出来なかった。相変わらず遺書の更新は続いていたが、僕はもう返信できないでいた。




僕は時々、奴らに踊り場に呼び出されては理不尽な暴力を受けた。名前も知らない4、5人に囲まれて、罵声や、拳を受け止め切れないぐらいたくさん浴びた。僕はまた何も出来ないままだった。


鈍い痛みを受ける中で、僕は少年のあの恍惚とした横顔を思い出していた。死への憧れ。無への憧れ。そうか。そうだったのか。理解した。涙が出てきた。


名前も知らない男が、僕の涙を見て「こいつ泣いてやんの」とはやし立てたが、そんなくだらない事は、もはやどうだってよかった。ああ、やっぱり僕は彼を傷付けたんじゃないか。






***


 


これを最後にしようと思った。最後にちゃんと謝ろうと思った。意を決して僕は早朝の理科室に足を運んだ。教室には入らず、擦りガラスの窓を開けた。




今日も律儀に、少年は僕の席に座っていた。遺書を書きながらこちらをちらりと見た。僕は何か言葉にしようと思った。やあ、久しぶり。元気だった?違う。遺書、見てたよ。返信できなくてごめんね。違う、そんなことじゃない。僕はそんな話をしにきたんじゃない。言葉に詰まっていると、少年が笑って「ねえ」と呟いた。




「やっぱ、あんた俺の代わりになってよ」


「え?」


「その代わり、俺が、あんたの代わりになってやるから」


「……どういう、こと?」




少年は立ち上がって、窓際の僕の目の前に立った。鏡のように、僕達は向かい合う。決意を固めたような目だった。




「俺、あんたの分まで死んでやるよ」




彼は進んでいく。僕の前を、もっと遠いところを、こんな狭い教室を飛び越えて、こんな狭い学校から駆け抜けて、もっともっと遠くへ、ずんずん僕を置いて進んでいく。僕の分まで、この苦しみを背負うというのだ。




「だから、あんたは俺になって、俺の代わりに強く生きてくれよ」


「なんだよそれ、そんなの死ぬより残酷だよ」

 


僕は茶化すように笑った。君の代わりを引き受けるには、僕は君のことを知らなくちゃならないよ。言えなかった。君が触れてくれたみたいに、僕も君の核心に触れて、理解して、受け止めなくちゃ、僕は君にはなれやしないよ。言いたいのに。抱きしめてあげたいのに。その悲しみを、全部受け止めて抱き潰してぐちゃぐちゃにしてあげたいのに。もう大丈夫だよって、言ってあげたいのに。


僕は、手を伸ばした、彼の頬に、あと数センチで触れられそうなのに、やっぱり駄目だった。あまりにも綺麗過ぎて、僕は彼を壊してしまう事を恐れて、触れられなかった。




「髪金髪にしてさ、ピアスあけてさ、あいつらに負けないぐらい、自由に生きんの。んで、バイトとかめっちゃすんの。3つぐらい掛け持ちしてさ、死に物狂いで働きなよ。正社員よりむちゃくちゃ仕事できるようになってさ、そんで金いっぱい稼いだらさ、外国に住むんだ。こんな馬鹿ばっかの、狭い校区から脱出してさ、パリとか、ヴェネツィアとか、お洒落なとこで生活すんの。なんかめっちゃ高いタワーマンションとか買えよ。そんで、あいつらのこと見下してやれよ、そんな狭い校区でイキってんじゃねーぞ、ばあーか!っつって。で、ボインのパツ金美女はべらかしてさ、正月にこのくそ狭い街に帰るんだ。成人式だけは、どんだけ嫌でも絶対行けよ。そして同窓会に参加しろ。なんだお前そんな貧相な顔のみすぼらしい女とデキ婚かよダッセーっつってよ、」


「あの遺書」




僕は思わず笑った。なんだよ、この人も、そんなふうに思っていたんだ。はじめて吐露した彼の黒い感情。僕は嬉しかった。もっと早くに知りたかった。この人はもう戻らないんだろう。




「綺麗なふりしてただけじゃん。感動損だよ」


「そうだよ、悪いかよ」




僕達は、笑いあった。それから、二人であの日々に戻ったように楽しい話をした。食べ終えたスーパーカップに乗って海を旅した夢を見たこと、好きな絵本作家の最新作「けむりのまち」がそれはもう息を呑むほど綺麗な描写だった事、隣の椎名町での花火大会までには彼女を作りたいこと、僕らはそんなくだらない話を予鈴がなるまで続けた。


少しずつ、朝日が理科室を照らし、廊下にはまばらに人の声が増え始めた。終わりが近づいているのが分かった。




少年は缶の筆箱からシャープペンシルを取り出して、僕を振り返った。




「ねえ、あんたの名前教えてよ」




 窓の外で、僕は答えた。こんなに長いあいだやりとりをしていたというのに、そういえば僕達はお互いの名前をまだ知らないでいた。僕が発音し終えると、少年は優しく笑って、悲しいくらいに美しい字で、レタリングされた、真似しか出来ないと言わんばかりの綺麗なフォントで、僕の名前を追記した。


なぜ形に残らないこの場所に、彼が遺書を書いたのか、僕には分かる。来年の春の大掃除の時にでも、彼の美しい落書きは跡形も無く消されているだろう。




「君の名前も、教えて」


「俺の名前は、木津 碧。綺麗な名前だろう、女みたいって言われるけどさ、好きなんだ、自分の名前」




木津、碧。遺書を読み上げたあの日のように、僕は丁寧に発音した。机の上にシャープペンシルを置いて、木津くんは満足そうに笑った。





「でも、あんたにくれてやる」

 



僕が何か言葉を発しようとしたとき、予鈴が二人を遮った。




じゃあな、と木津くんが言い擦りガラスの窓を、その白く細い手首で、カラカラと。最後の最後まで、僕は木津くんの深い海のようなひとみから目をそらさずにいた。ぴったりと閉まった窓ガラス。今すぐここをもう一度空けて、あの日彼がしてくれたみたいに、彼の腕を両手で引っ掴み、理科室の外へ、連れ出したなら何かが変わっただろうか。ガラスに触れた。僕はやっぱり弱い人間だった。僕にはこの窓が、溶接された絶対に開くことのできない戸のように見えた。


本当にこれでよかっただろうか。触れられなかった。最後まで。でも、もう引き返せない。彼もそう望んでいた。救われることは、死ぬことよりも辛いことなんだろう。これでよかったんだ、きっと。




長く続く廊下を見据えて、めまいがした。これからいつまで続くのか分からない、どろどろした戦場に、ひとり取り残されて。それでも僕は生きることをやめるわけにはいかなくなった。



一歩、僕は歩みを進めた。

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