第50話 皇帝の死

 皇帝陛下を治療している医務室は、当然別にある。

 複雑な父への思いを抱え、エレノアは恐る恐るドアノブに手をかけた。その手は震えていた。なかなか開けることができないエレノアの手に、大きな手が重ねられる。すべてを包み込んでくれるような、ジルフォードの手だ。

 エレノアは、覚悟を決めて、扉を開く。

 最初に目に入ったのは、大きなベッドにすがっている細い女性の姿。すぐに、母ジャンナだと分かった。そして、次に目に入ったのは死刑宣告を受けたかのように絶望した医師の顔。白衣をよれよれにして、疲弊しきった医師は、蒼白な顔でエレノアに頭を下げた。

 エレノアは、すぐに状況を理解できなかった。

 ゆっくりとベッドに近づくと、青白い顔をしたカルロスが横たわっていた。はじめは眠っているのかと思った。しかし、違っていた。微動だにしないその身体は、もう呼吸を止めていた。


「……死んで、しまったの?」


 そう問うた自分の声が、自分のものではないみたいだった。


「絶対に駄目です。皇帝が簡単に死ぬなんて、許されるはずない……それに、さっきまでは生きていたもの。こんなの、嘘でしょう……?」

 エレノアの問いに、誰も答えない。それが、答えなのかもしれなかった。医師は、今にも死にそうな顔で部屋の隅に立っている。

 結局、カルロスは死んだのか。

「お父様……私、あなたを許せないと言いに来たんです。誰が何と言おうと、お父様がしてきたことは最低です……悪魔に頼ってほしくなんかなかった!」

 不思議と、涙は出なかった。ただ、やりきれない思いばかりがあふれてくる。

「私を愛してくれるなら、遠ざけて守るんじゃなく、側にいさせてほしかった! 私は、ずっと独りで、家族を知らなかった! そんな風に守られて、私が喜ぶと思ったの? 私は、ずっとお父様が怖くて怖くてたまらなかった……でも、本当は会って直接話がしたかった! 私を見てほしかった! ねぇ、どうして何も言ってくれないの?」

 抵抗も何もしない、冷たい体にエレノアは何度も何度も拳をぶつけた。

 振り下ろされる拳を止めたのは、ジルフォードだった。

「エレノア」

 ジルフォードの低い声が、エレノアの心を落ち着かせてくれる。エレノアの手首を掴んだジルフォードの手も、少しだけ震えていた。彼にとっても、皇帝の死は衝撃が大きいだろう。母ジャンナにとっても、国ために変わってしまった夫の側で耐え続けてきた日々を思えば、失ったものの方が多い。

(私、また自分のことばかりだった……)

 冷静になり、エレノアは改めて目の前のカルロスを見つめた。冷酷非道と言われた皇帝には見えないほどに、穏やかな表情を浮かべている。これが、本来のカルロスの姿なのだろうか。

 悪魔との契約を終了し、その力から解放されたカルロスは、本来の自分を取り戻すと同時に、悪魔の力によって与えられていた強い生命力を失った。現実的に考えて、カルロスが失った血はとうに致死量を超えていた。悪魔が消えてすぐも、生きているのが不思議なくらいだったのだ。


「エレノア、私たちはあなたに許されるとは思っていないわ。でも、カルロスの最期の言葉は聞いてあげて。他の誰の口からでなく、本人の口から……」

 まだ目に涙を浮かべて、しかしはっきりとした強い意志をもって、ジャンナはエレノアに言った。普通なら、死者からの言葉なんて聞けるはずがない。しかし、エレノアには記憶を覗く力がある。


(お父様の、最期の言葉……)


 カルロスに伸ばしかけた手は、途中で止まった。

 先ほどまで、感情のままにカルロスの体に拳を打ち付けていたというのに、記憶を覗くために触れることは簡単ではなかった。


 今まで、冷酷非道の皇帝が死ぬなんて考えたこともなかった。死を願ったことはある。しかし、死ぬはずがないと心のどこかで思っていた。悪魔の力を持っていた、ということもあるが、エレノアの中で父親であるカルロスはずっと存在してくれると無意識に思っていた。

 最期の言葉を聞いてしまったら、認めなくてはならなくなる。皇帝カルロスが死んだのだという事実を。恐怖しながらも愛してほしいと願っていた父がもういないのだという事実を。

 皇帝の死、という結末はカルロス自身が計画したもの。それも、娘を悪魔から解放し、すべての責任を取るために。ずるい。やはり、カルロスは冷酷非道な皇帝だ。カルロスを守ろうとした者たちのことなんて考えていない。カルロスの死を阻止しようと動いたテッドをはじめとする【黄金】の騎士、皇帝への忠誠心と自らの誇りのために戦った騎士たち。彼らは何のために戦ったのか。

 カルロスの死は、このカザーリオ帝国に大きな変化をもたらすだろう。

 混乱を治めるだけの力が、果たしてこの国に残っているだろうか。


 自分の死後、どれだけの問題が起こるかも理解しながらも、カルロスは死を選んだ。いかに医療が発達しているこの国でさえ、生きる意志のない者を生かすことはできなかった。

 そんなカルロスの、最期の言葉を聞く。

 自分勝手に娘への愛情を示して、自分勝手に死んでいった、そんな父親の最期の言葉。

 正直、聞きたくなかった。それでも、今触れなければこの先一生聞くことはないだろう。後悔しないために、エレノアは意を決して手を伸ばす。


 触れたのは、カルロスの右手。軽く握手をするような形で、エレノアは父の手に触れた。


 そして、目を閉じて記憶を覗いた。

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