第47話 悪魔の封印

 エレノアは、悪魔の真っ暗で冷たい記憶の中で一瞬だけ光を見た。それは、悪魔を封じるために現れた神の光だった。正確に言えば、神の代理である巫女が、悪魔を封じた時のもの。

 神の声を聴き、神の力を宿すことができた巫女は、自らの血を媒体にして、悪魔を封じる結界をつくりだした。それは、悪魔にとっては忌々しい封印の光であるのに、あまりにも美しく、優しかった。黒く荒んだ悪魔の心を癒すように。

(私も、巫女の血を引いているなら、きっと悪魔を封じられるはず……)

 エレノアは巫女の血によって描かれた魔法陣を記憶し、すぐに自分の血で再現すべく動き出した。ジルフォードが悪魔の気を引いてくれたおかげで、エレノアは封印の魔法陣を確実に地面に描き出していた。

(右足、斬られていて丁度よかったわ)

 【新月の徒】に斬られた右足のふくらはぎの傷は、まだ完全には塞がっていなかった。だから、エレノアは自分で傷つけずとも血を流すことができた。かなり痛みはあるが。

 血のついた指で、記憶にあった通りに魔法陣を描いていく。二重に描いた円の間に文字を書き込めば、徐々に薄い赤がはっきりと浮かび上がってきた。貧血気味になりながらも、エレノアはもうすぐ完成する魔法陣に笑みを浮かべていた。


 その時、悪魔の纏う空気がいっきに変わった。

 そしてそれは、ジルフォードも同じだった。魔法陣を描くのに夢中でまったく状況が掴めないが、どうやらジルフォードが悪魔を挑発し、本気にさせたらしい。

(ジルフォード様、かっこ良すぎますわっ……‼)

 ジルフォードと悪魔の激しい力のぶつけ合いが繰り広げられている中、エレノアはこの危険な状況も忘れて見惚れていた。どんな手を使ったのか、ジルフォードは悪魔と対等に渡り合っている。悪魔の人外の動きについていけているのがすごい。エレノアは心の底からジルフォードを応援した。

 しかし、それで十八年前に交わされた契約が無効になる訳ではない。

(私自身が、終わらせる)

 エレノアは最後の文字を書き終わると、完成した魔法陣は光を放ちはじめた。

 そこではじめて、悪魔は異変に気付く。


「……まさか、お前ごときが私を封じようというのか」

「言ったでしょう。私は悪魔あなたには屈しない、と。さっさと眠りにつきなさい!」

 今、エレノアは魔法陣の中心にいる。

 怒りに任せて悪魔がこの魔法陣に足を踏み入れてくれれば、天と地の狭間の闇へ強制送還できる。


「ふっ、昔もそうやって、お前は私を封じたな。神の血を引く巫女よ」

 底冷えのする悪魔の声に、エレノアはびくりと震えた。冷たい闇を映してきた瞳で、悪魔はじっとエレノアを見る。しかし、悪魔の目はエレノアを見ているようでまるで見ていなかった。

(悪魔は、封じた巫女を知っていたの……? 巫女と、私を重ねている?)

 封印の方法だけを知るために、悪魔の記憶を覗いた。だから、それ以上に悪魔の記憶には深入りしなかった。破壊と憎悪ばかりのような気がしたから。

 しかし、今思えば、悪魔を封じた巫女は泣いていた。神に仕える巫女だから、神に逆らう悪魔のために泣いているのかと思っていたが、違ったのだろうか。

「エイフェリア、どうしてお前はいつも私を拒絶する。私はお前を手に入れるためにどんなことでもしてきたのに」

 その顔は無表情なのに、言葉の節々にはたしかに感情が込められていた。エレノアを見ながら、エレノアではない存在に訴えかけている。

 この悪魔の時は、封じられた数百年前から何一つとして進んでいないのかもしれなかった。

(あの巫女は、エイフェリアという名前だったのね)

 もし、悪魔が神の巫女たるエイフェリアを愛し、手に入れたいと思ったとしたら、それは悲劇でしかない。悪魔は神に逆らい、捨てられた存在だ。神の愛する巫女と心を通わせるなど、許されない。

 だから、悪魔はどんな無茶なことでもしてきたのだろう。そして、結局は愛する人に封印された……。

 エレノアはそこまで想像して、悪魔が憐れにさえ思えた。しかし、エレノアは巫女の血を引いていてもエイフェリアではない。

 それに、あの時の彼女の涙を思い出すと、沸々と苛立ちが湧いてくる。


「馬ッ鹿じゃないの⁉ 私はエイフェリアではなくエレノアよ。あなたが愛した人に見放されたのは、あなたが悪魔だからではないわ。彼女に愛してるって伝えるだけじゃなくて、彼女にとっての幸せとは何か、彼女の笑顔を守るためにはどうすればいいか、ちゃんと聞いて、考えたの? どうせ自己満足に走って彼女が嫌がるのも構わずに自分たちの仲を認めない神に殴り込みにでも行ったんじゃないの? 巫女である彼女が愛する神に嫉妬して、好きな女性ひとを泣かせて。自分のことなんてちっとも考えてくれずに暴走しまくる男、悪魔であってもなくても嫌になるわよ!」


 ほとんどがエレノアの想像だが、この悪魔のことだ。絶対これに近いことはしているはず。

 一方的に求められても、相手は困るだけだ。

(私も他人のこと言えないけれど……)

 ジルフォードを好きだなんだと無理矢理くっついて、居座った。しかし、それでもジルフォードは決してエレノアを見捨てたりしなかった。いつでも、優しく見守ってくれた。

 だから、悪魔のような強引で暴走気味な愛なんて、認めない。

 エレノアの言葉に、悪魔だけでなくジルフォードまでもが唖然としていた。


「……お前に何が分かる」

「何も。分かる訳ないでしょう? 私はあなたと会うのは初めてだし、私はジルフォード様以外の男に興味もないもの」

 はっきりと言い切ったエレノアの言葉に吹き出したのはジルフォードだった。

「おいおい……」

 心なしか、ジルフォードの頬が赤い気がする。エレノアは珍しく照れるジルフォードを見られて、にんまりと笑顔を浮かべる。

「何してる! こいつをどうにかできるんじゃないのか!」

 こんな状況でも二人の世界に入ろうとしたエレノアの耳に、縛られて転がっているブライアンの鋭い言葉が届いた。ハッとして、エレノアはジルフォードに目で合図をする。ジルフォードはエレノアの意図を察して、悪魔に向かって剣を振り上げる。当然のように剣を手で止めた悪魔だが、次の瞬間にはその手首をジルフォードに掴まれていた。もしかすると、先ほどの言葉が悪魔に少なからず影響したのだろうか。


「さあ、とっとと封印されなさい!」

 じりじりと、ジルフォードによって悪魔は魔法陣に近づく。

「お前には私を封印などできない。大人しく私にもらわれていればいいものを。確かに、エイフェリアとは違うな。エイフェリアはもっと賢く、聡明な女だった」

「本人の意志も無視して結ばれた婚約なんて、今ここで破棄しましょう。あなたはエイフェリアが好き。私はジルフォード様が好き。ほら、これで丸く収まって、あなたは元の場所に戻るのよ」

 投げやりにエレノアが悪魔に笑いかけると、悪魔は不機嫌まるだしの顔をしていた。

「どこが丸く収まってる……私だけどん底だろう。そうなれば、お前も道ずれだ。花嫁だろ」

「いや、エレノアは渡さねぇよ。エレノアは俺のだからな」

 悪魔の言葉に答えたのは、ジルフォードだった。そのやけに甘い言葉に、エレノアは感動して涙が出そうだった。

(ジルフォード様、こんな状況でなければ今すぐにその胸に飛び込んでいきたいです!)

 エレノアはうっとりとジルフォードの言葉に何度も頷いていた。

 エレノアはいついつまでもジルフォード様の所有物です! という思いを込めて。


 × × ×


 エレノアとジルフォードの様子を見て、悪魔は何やら諦めの境地に達していた。

 契約者であるカルロスは悪魔が力を与えているにも関わらず死にかけているし、花嫁としてもらうはずだった娘は別の男に夢中で悪魔の愛を否定する。

 そうしてふと思い出す。数百年前、今と違って完全な力があった自分が何故ほとんど抵抗もせず封印されたのか。

 エイフェリアに封印されるのなら、それもいいと思っていた。悪魔はエイフェリアの周囲を荒らすことしかできなかったが、エイフェリアはそんな悪魔を見捨てずに注意し続けた。巫女というだけあって、悪魔の力の影響をあまり受けないエイフェリアは、悪魔が許しを請えば神に許されると信じていた。悪魔にはそんな気これっぽっちもなかったのに。

 しかし、本気で神の怒りを買い、エイフェリアは悪魔を封じる役目を担った。その時になって、エイフェリアの側にいたいなら、神の許しを請うことぐらいしてもよかったかもしれないと思った。

 だから、悪魔は何も与えられなかった代わりに、悪魔を封じるというエイフェリアの巫女としての仕事だけは邪魔しないでおこうと思った。悪魔はエイフェリアに愛の言葉なんか伝えたことはなかったから、最後くらいは素直になろうと「愛してる」と言って目を閉じた。

 だから、その言葉を聞いてエイフェリアが泣いていたことなど知るよしもなかった。

 そうして長い長い眠りについて、悪魔の中に残っていたエイフェリアへの愛は執着心と憎悪にも近い感情に変わっていった。エイフェリアと同じ巫女の娘を無理矢理“悪魔の花嫁”にして、絶望でその瞳を汚し、屈服させられる恐怖を与えてやるつもりだった。

 エイフェリアの姿を重ねて、悪魔の存在に脅えて生きる様を見て嘲笑ってやりたかった。

(……どうして、私は過去形で考えているんだ)

 自分の思考が人間くさくなっている気がして、悪魔は嫌になった。しかし、もう何もかもどうでもよくなってきた。執着し続けたエイフェリアが数百年後の世界にいるはずもないし、こんな口うるさくて他の男を好きだと言ってはばからない娘を花嫁にする気も失せてきた。悪魔という絶対的な悪と、強大な力を前にしても一歩も引かなかった男の相手も、面倒だ。

 悪魔の目から見ても、二人は強く惹かれあっている。とんだ茶番だ。


「もういい。契約なんて破棄してやるよ」


 悪魔だけは、契約を破棄できる。

 契約書に自分の魔力を込めているために、跳ね返ってきてしまうが。


『笑ってそこにあるだけで、幸せは感じられるでしょう?』


 よくそう言って笑っていたエイフェリアを思い出す。こんな風にエイフェリアのことを思い出すのは、久しぶりだった。今まで、考えようともしなかった。エレノアにこてんぱに言われて、悪魔はかつての自分を思い出した。

 結局、自分は何一つ、彼女の言葉に共感を示してやることができなかった。


「我が結びし契約を、今この時をもって破棄する」


 悪魔の言葉を信じられない、と言う顔で見てくる二人に、悪魔はふっと笑う。その直後、身体にドンという衝撃が襲った。

 そのまま身体は傾ぎ、エレノアの作り出した魔法陣に入り込む。そして、悪魔は自分を拘束するための光の中に、エイフェリアの微笑みを見た気がした。

「ずっと、そこにいたんだな」

 悪魔は、その言葉を最後に封印の光に包まれ、消えた。

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