第29話 ささやかな望み
「お帰りなさいませ」
立派な門をくぐると、数人のメイドたちがテッドの馬車を出迎えた。何故か連れて来られたのは〈鉄の城〉ではなく、帝都にあるバールトン侯爵家の屋敷だった。
頭を下げているメイドたちを見て、エレノアの脳裏には〈宝石箱〉での日常が過ぎる。しかし、彼女たちは〈宝石箱〉で働いていた女官たちとは違って、顔に布など被っていないし、言葉も発する。
テッドにエスコートされ、エレノアは馬車から降りて屋敷の中へ入った。吹き抜けの広い玄関ホールには、瑞々しい赤い薔薇が飾られている。思い返せば、初めてテッドの屋敷で目覚めた時も、赤い薔薇が目に入った。バールトン侯爵家は薔薇にこだわりがあるのだろうか。そんなことを考えていると、テッドが立ち止まり、後ろからついて来ていたメイドたちの方を見た。
「この方は、尊き身分のお方だ。丁重なもてなしを頼む」
メイド頭らしき年配の女性に、テッドが主人として命じた。メイド頭の女性は頷き、静かにエレノアに近づいて来る。
「まずは、お身体をお清めいたしましょう」
「え、あの……そんな暇は」
帝国軍が皇女探しに緊迫した状態である時に、身体を洗っている場合ではない。そう思ってエレノアは抗議しようとするが、数人のメイドたちにさあさあと強引に連れて行かれ、エレノアは裸になっていた。
(これのどこが丁重なもてなしなのっ!)
さすがはバールトン侯爵家。浴槽がとにかく広い。しかし、その広い浴槽に赤やピンクの薔薇の花弁を浮かべるのはいかがなものか。
エレノアは内心でむくれながらも、久しぶりにゆっくりとお湯に浸かることができてほっとしていた。
収拾屋では、右足の傷が塞がっていなかったためにお湯に濡らしたタオルで身体を拭いていたのだ。メイドたちも、エレノアの足の傷を見て湯に浸かることに難しい顔をしていたが、もう傷はある程度塞がっているし、どうせ裸になったのだから入りたいとエレノアがお願いしたのだ。城の外で居られるのも、きっと今日が最後なのだ。テッドが命じたのだし、湯あみが長くてもエレノアは悪くない。ちょっとした復讐のつもりで、エレノアはのんびりとバスタイムを楽しむことにした。
エレノアのパールのような肌が湯に浸かってほんのりピンク色に染まる。髪を洗ってくれているメイドは、時々うっとりとした溜息を吐く。それに呼応するように、他のメイドたちの口からも同じような溜息がこぼれる。
「あの、何か……?」
だんだんと溜息が大きくなってきたので、さすがにエレノアも無視できなくなった。怪訝そうな目でメイドたちを見つめると、彼女たちは急に青ざめて頭を下げた。
「も、申し訳ございませんっ! あまりにも美し過ぎるために見惚れておりました」
それは、皮肉も何もない、純粋な言葉だった。美しい、という言葉はエレノアにとって何の価値もないと思っていたが、今は素直に嬉しいと感じていた。それはきっと、メイドたちの表情が生きていたからだ。〈宝石箱〉の女官たちのように感情を殺したものではなく、真っ直ぐな思いを届けてくれているから。
「ありがとうございます……でも、皆さんの方がきれいですわ」
エレノアが微笑むと、何人かがはうぅっと鼻血を吹いた。
「うう、その笑顔は反則ですわっ!」
「心臓を持って行かれましてよ!」
キャー、と何やら楽しそうである。エレノアはこんなに賑やかなメイドたちを見たことがない。身分の高い娘だと紹介されているのに、彼女たちはどこか気さくだった。それでも、仕事に無駄はなく、丁寧にエレノアの世話を焼いてくれる。〈宝石箱〉の、いつも冷たくて事務的なことしか話さない女官とは大違いだ。
エレノアは、彼女たちに見の周りの世話をされているテッドが羨ましいとさえ思った。
(私の側にも、こういう人たちがいてくれたら楽しかっただろうな……)
そんなことを考えていると、いつの間にか薔薇の香油を身体に塗り込まれ、小さな宝石が散りばめられたオレンジ色のドレスを着せられていた。
大きな鏡の前で、エレノアは自分の姿を改めて見る。
ムーンストーンのように淡いオレンジ色のドレスは、エレノアのピンクパールの髪によく似合っていた。腰はきゅっとしぼられていて、女性らしいラインになっている。後ろには大きなリボンがついていて、とても可愛らしい。すべて結い上げずに背に下ろした髪には、ドレスの色と同じ髪飾りが差してある。鏡で向き合うルビーの瞳はぱちくりと瞬きを繰り返していて、そのまぶたは化粧をしているせいできらきらしている。
「こんなに飾り甲斐のある美しい方にお会いするのは初めてですわ!」
完璧に飾り立てたエレノアの姿を見て、メイド頭が何故か目に涙を浮かべている。感動しているところ申し訳ないが、エレノアとしてはここまで飾り立てられる意味が分からない。
「あの、どうして着飾る必要が……?」
「まあ。これからテッド様とお城の舞踏会に参加されると伺ったのでばっちり飾り立てたのですけれど、御存知なかったのですか?」
舞踏会など聞いていない。おそらく、〈鉄の城〉へ向かうための嘘だろう。
しかし、こんな風に着飾ったところで、エレノアはまたすぐに閉じ込められるのだ。着飾った姿をジルフォードに見てもらえるならともかく、皇帝や悪魔にこんな浮かれたような姿を見られたくない。そう思うと、エレノアは鏡の中の自分がひどく惨めに思えた。
エレノアも、女の子だ。きらきらした小物は好きだし、かわいく着飾ってみたいと思っていた。
しかしそれは、大好きなジルフォードに見せたいからだ。決して、皇帝や悪魔のためではない。
〈鉄の城〉への帰還を遅らせたくてメイドたちにされるがままになっていたが、もう我慢できない。好きな人のために可愛く着飾って、綺麗になりたい……そんな心の奥深くに閉じ込めていた、普通の女の子なら当たり前の望みが蘇ってきて、エレノアの覚悟が揺らぎそうになる。
(私、せっかくジルフォード様にお会いできたのに、自分のことを気にする暇なんてなかったわ……)
ずっと会いたかったジルフォードに会うことができて、舞い上がっていたのだ。だから、自分の容姿を気にする心の余裕がなかった。ただ、ジルフォードの側にいたい、という思いばかりが頭にあった。
もっと、女の子らしく着飾っていたら、ジルフォードに振り向いてもらえただろうか。
今のように、素敵なドレスを着て、化粧をして、普段とは少し違う自分を見てもらえれば……。誰も愛さないと自分を縛り付けているジルフォードの心を癒すことができただろうか。
今気づいても、もう遅い。エレノアはエレノアの戦いから逃げないと決めたのだ。
それなのに、覚めたはずの甘い夢をもう一度、と願ってしまう。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか、とどうにもできないことを嘆いてしまう。
(あ~、ダメダメ! こんな風に弱気になるのはきっとこの可愛すぎるドレスのせいだわ!!)
心を支配するジメジメとした感情を追い出すために、エレノアは自分の両頬をおもいきり叩く。
そして。
「脱ぎますっ!」
目に溜まる涙を振り払うように、エレノアはドレスを脱ごうと動き出す。エレノアの突然の行動は、当然ながらメイドたちに止められる。それに、このドレスはスカート部分に細かく宝石がちりばめられている上に、フリルが幾重にも重なり、腰が後ろで締め付けられているために一人で脱ぐのは無理だった。
しかし、どうにかして脱いでいつもの姿に戻りたくて、暴れる。
「何事だ!」
厳しい怒鳴り声と共に入ってきたのは、金色の前髪を後ろに撫で付けた、気品ある紳士だった。その後ろから、慌てた様子でテッドが駆けつけてくる。おそらく、この紳士がバールトン侯爵、エドウィンだろう。バールトン侯爵は五十代半ば頃だと聞いていたが、見た目だけで言えば四十代、いや三十代後半に見える。テッドとよく似た顔立ちではあるが、侯爵の方には甘いマスクの欠片もない。
「旦那様、申し訳ございません! エレノア様がお召し物を脱ぐと仰ったのでお止めしていたところです」
メイドの一人が顔を青白くして答えた。侯爵は、今にも手を上げんばかりの迫力でメイドたちを睨む。先程まで楽しそうにしていたメイドたちが、皆脅えている。それがエレノアのせいかもしれないと思うと、心が痛んだ。
エレノアは、彼女たちを庇うように前に出る。
「彼女たちは悪くありませんわ」
仮にもエレノアは皇女だ。無下には扱えまい。そう思って感情のない笑みを浮かべれば、侯爵は怒りの感情を一瞬で消してエレノアの前に跪いた。
「お初にお目にかかります。私はエドウィン・です。エレノア様、今日はお疲れでしょう。〈鉄の城〉ほど立派な屋敷ではありませんが、どうぞゆっくりとお休みください」
その言葉は丁寧に述べられたが、感情は一切こもっていなかった。この男は、エレノアを閉じ込めていた人間たちと同じだ。ただの小娘と侮っているくせに、隠された皇女に頭を垂れている。吐き気がする。まんまと飾り立てられ、少しでも喜んでいた自分はあまりに滑稽だ。
悲しみよりも、虚しさが心を占める。
「あなたの屋敷に長居するつもりはないわ。それに、ゆっくりもしていられないでしょう? 【黄金】が動き出しているのだから……。もし私一人くらいすぐに懐柔できると思っているのなら、その考えは今すぐに捨てなさい。私は、あの皇帝カルロスの娘よ」
ジルフォードと共に過ごしていた、ただのエレノアではここにはいられない。エレノアは、冷酷非道の皇帝の娘である皇女として冷ややかに告げた。
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